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第二十一話 #弟妹チャンネルの配信①

 浅木地下ダンジョンの入り口から程なくしたところで足を留め、生存報告を始めた。視聴者が瞬く間に増え、コメントが視界の隅を流れていく。

 そうしてからふと思い至った。

 弟と妹が見ないわけがない。配信するよりも、動画撮影――いや、変動後のダンジョン内の情報が一切ないことを踏まえれば、録画して提出するという面倒な手順を踏まなくて済む。

 結論としてデータ収集のためには配信しないという手はない。

 右手から突っ込んでくるボアの気配にぴたりと立ち止まり、二歩後退する。それが姿を現すと同時に剣を上下に振った。


「手応え的には、中層――Dランクレベルの魔物」


 魔素濃度測定器を取り出し、カメラと連動させる。そうすることによって、画面上で魔素濃度の数値が表示されているはずだ。

 腰の鞄の金具に濃度計をひっかけて歩みを再開した。

 端末に着信通知が上がった。『克巳』と表示される名に、切れたときの克巳の怒り顔が、涙を浮かべる明美の顔が脳裏をよぎる。

 分かってる。すごく馬鹿なことをしていると頭では分かっているのに、戻ろうとはどうしても思えない。

 一度、着信が切れた。直後に再び着信通知が浮かぶ。


[出ろ]


 数多のコメント混ざって浮かぶ弟の一言。指を緩慢に動かし、応答を押した。


『なにしてやがんだこのクソ兄貴‼』


 キーン、と耳の奥で金属音が響く。左耳を押さえながら、清巳はふらふらと足を進める。


「うん、ごめん」


 清巳は左手でピアスに触れた。

 そういえば、これも残してやれば良かった。剣も一緒に置いてくれば良かっただろうか。


『うじうじぐだぐだしてねえで、言いたいことがあるならきりきり吐けやクソ兄貴!』


 威力十二分なはずの罵倒は心を素通りしていく。

 通話の向こう側で勢いよく扉が開いた。


『かっつん! きよ兄がうじうじしてるのはいつものことだから、そこは言わないであげてもいいじゃん!』


 フォローのつもりなのだろうが、全くフォローになっていない。時々的確に抉ってくるのが明美の可愛いところ。そう思っていた。

 清巳は小さな笑みを湛えたまま洞窟の奥を見つめた。

 本当に、なんて酷い兄なのだろう。こうして二人の声を聞いても、置いていくことに罪悪感を持たない自分がいる。


「お兄ちゃんは、そこまでうじうじしてるつもりはないんだけどな」


 だからだろうか。ぽろりと零れ落ちた反論は、その声は思っていたよりも普段と変わらない穏やかなものだった。


『あ? 寝言?』

『自覚がないだけだよ』


 容赦のない指摘が飛ぶ。

 前方、オーグルが放った魔法に正面から突っ込んで叩き切る。オーグルに近づきながら再び剣を振り上げて、張られた結界ごと分断した。

 オーグルを避けて進みながら口を開いた。


「そうか?」

『そういうところがうじうじしてんだよ。で? なにしてんの? どこのダンジョン? まさか浅木とか馬鹿げたこと抜かすんじゃねえぞおい』


 ドスの利いた詰問。だが、小さな笑みはぴくりとも変わらない。あんなにも大事だと惚気を垂れ流していたはずなのに、大事だと思っていたはずなのに、全く心が動かない。

 怒った声を聞いても何も響かない。

 ――壊れたらだめだよ。

 ふと静の言葉を思い出し、清巳はストンと納得した。

 壊れてしまったのだ。大切だったはずの弟と妹にさえ何も感じなくなってしまうほどに。


「うん、ごめんな」


 通話の向こう側に静寂が降りた。


『なんで……? 約束、したのに……っ、一緒にいろんな所に行こうね、食べに行こうねって約束したのに、きよ兄の嘘つき!』


 妹が泣いた。通話口から号泣が聞こえる。弟は悪態をつかずに黙っている。そういう時こそ本気で怒っているのだ。

 本当に申し訳ない。こんなろくでもない兄だったがために、二人にはいらぬ苦労をかけた。――ほかの何よりも誰よりも二人を選べなかった時点で兄である資格は失ったのだ。

 慰めることも、言い訳を言うこともなく、黙々と足を進めていく。


『やだよ、いかないで……』

「うん、ごめん」


 悲痛な願いに出てくるのは謝罪の言葉だけだ。置いていくことに、兄で在り続けられなかったことに、二人の望みに応えられないことに、謝罪の言葉を重ねる。


『――このクソ野郎』


 弟から、ついに兄という言葉が消えた。心の底から安堵する。


「うん、ごめん」

『それ以外に言うことはねえのかよ』

「うーん……思い浮かばないな。ごめん」


 いつもと変わらぬ口調で応対し、いつもと変わらぬ態度でダンジョンを歩く。違うのは、あれだけ惚気るほど大切だったのに、その言葉が出てこないほど、その感情さえも失ってしまったことだけ。


『なら今すぐ回れ右をしやがれ。とっとと帰れ、さっさとこっちに来い』

「うん、ごめん」

『俺らを置いて行くって、なにがあんたをそうさせた』

「ごめん」

『謝ってるだけじゃなにもわからねえよ! なんか言えよ……言い訳のひとつでもしろよ!』


 頼むから、と懇願する弟の声が震える。

 泣かせてしまった。通話口から聞こえるのは弟のものだけではない嗚咽。けれどもやはり心は動かなくて、清巳は無言でダンジョンの奥へと足を進めた。

 二階層も終わりというころに、重々しい沈黙は破られた。


『帰ってこなかったら、毎日トマトと椎茸料理尽くしの刑にしてやる』


 ぶちっ、と克巳の苛立ちを表すかのように通話が切れた。

 三階へ降りると同時に、横で振るわれた爪を垂直に跳んで回避する。振り上げた剣をベアの頭に突き立てた。

 視界の隅で流れていく喧々囂々としたコメントを一瞥して周囲を見渡した。

 正面と左右に道が続いている。引き抜いた剣を振って血糊を払い、絶命する魔物を見下ろした。

 耳の奥で音が蘇る。

 ばきっ。ぼきっ。ぐちゃっ。


「……………………トマト、かあ……」


 骨の砕ける音とともに、胸を抉るような友人の断末魔が消える。

 噛み砕かれた頭。飛び出した内容物。赤く染まる魔物の口。

 片腕には妹を抱えていた。転んだ弟を抱き起こした自分にはもう、伸ばせる手がなくて。命綱になりそうな剣を置いていく訳にはいかず、弟に剣を押しつけて抱き上げ、友人だったものを貪る魔物に背中を向けた。


「トマトはまるで頭を食べてるみたいで気持ち悪いよな。弾けるのも、どろっとした液体も……あんな悍ましい食材は他にはないだろうな」


 食べる度に、自分たちが生物を食べるように捕食される友人を思い出す。


  [トマトは頭って]

  [わぁぁぁ想像してしまった!]

  [グロ注意! グロ注意!]

  [食べられなくなるからやめて]

  [兄、戻ろう? 戻ってメンタルケア受けよう? 発言がやばいって]


 きっと、あの硬い歯と強い顎で食べたらそんな風に弾けるんだろうなあ、と想像が頭をよぎるのだ。


「ケチャップにしても血みたいで赤くてな」


 昔は二人に隠れてよく吐いていた。胃に詰め込むが、自分もあの化け物と同じものになってしまったような感覚が恐ろしくて、耐え切れずに嘔吐を繰り返していた。

 今は吐かずにすむが、食べるたびに見るたびに胃のむかつきを覚えるのは健在だ。


「たんに食感が嫌いな椎茸だけがいいなあ」


 祈るように呟いたのを最後に、清巳は口を閉ざした。

 交差路の右手から飛んできた風の球を縦二つに叩き切る。刀身の軌跡を描いて放たれた残像は風の球をいとも簡単に切り裂いた後もその勢いを衰えさせることなく、その先にいるオグレスも縦に二分割する。

 交差路の右手から飛んできた風の球を縦二つに叩き切る。刀身の軌跡を描いて放たれた残像は風の球をいとも簡単に切り裂いた後もその勢いを衰えさせることなく、その先にいるオグレスも縦に二分割する。

 変動前とは格段に強くなっている魔物をものともせずに足を進める。五時間かかってようやく上層十回に辿り着いた。数分でボスの猫又を片づけて中層へ下る。

 休むことなく階層を進み続ける。視界のすみで流れていくコメントには一切反応せず、ただ下へ下へ降りていく。

 探索開始からおよそ十九時間。四日目の午前十時を回ったころ、下層のボスである三つ首の犬――ケルベロスを前に深くため息をついた。

 右の首から腹に掛けて切り裂かれ、残りの首の二つが転がっている。支援魔法に分類される強化魔法を使う右の首さえどうにかなれば、あとは逃げ回りつつタイミングを計って首を落とすだけの簡単な相手だ。

 とはいえ、都市ひとつを落とせると推定されるAランクの魔物であることに変わりはない。魔素濃度だけでいうなら下層まででもすでにSランクレベルだ。並の探索者では簡単に命を落とす。


  [対ケロベロス戦の所要時間約二十分]

  [この人ほんとになんで無名だったの?]

  [開幕ブレスに突っ込んで腹下に滑り込みながら厄介な右の首を再起不能にしてるのかなり意味がわからない。よく生きてるな]

  [俺たちはなにを見せられてるんだ……]

  [このメッセージは削除されました]

  [状況が状況でなければなあ]

  [兄の大好き弟妹さんでも止められなかった以上、できることがない]


 深層一階に続く階段を降りていると腹の底に響くような重い笛の根が響いた。階段を降りきって道なりに進み、交差路に出たときにはすでに笛の音は止まっていた。かわりに魔物の咆哮が僅かに空気を震わせている。

 交差路の中央に立った清巳は音を頼りに右の道を進んだ。そのうちに魔物の声さえ聞こえなくなり、再び十字路で足を留める。

 魔物寄せの笛を吹くような物好きは一人だけだ。向こうからまた居場所を知らせてくれるはず。

 予想に違わず、左手から悲鳴にも似た奇声が反響した。


「相変わらずだな」


 中層下部くらいからボス部屋以外で魔物に一切遭遇しなかったため予測はしていたが、あまりにも予想通りすぎて苦笑が零れる。

 音源まで近づくと、不気味な笑い声が明瞭に聞こえた。


「にゅほほほほほほ、ふほっ」


 じゅるっとよだれを啜る音が響く。


「んひ、んひひっ」


 清巳は足音を立てずに姿を見せた。


「ほーさく、ほーさく、魔石ざくざくほーさくー♪」


 奇妙な歌を歌いながら魔物の死骸の山から的確に魔石だけを抉り取って、死骸をぽいっと遠くへ投げる。それが楽しいようで清巳に気づく様子は一切ない。


「とーり放題とり放題、魔石たくさんとりほーだい♪ ひぇへっへっへっへっ」


 魔石を取り出した魔物の死骸が道の先に積まれていく。

 静はまだ気づかない。

 特段気配を消しているつもりはないが、目の前の魔石狩りがそれほど楽しいのだろう。


「トルマリン。エメラルド。アクアマリン。硨磲しゃこ――――!」


 ぴょん、と静が跳ねた。

 白く丸い魔石を高々と掲げて跳びはねながら、腕を引っ込めたり突き出したりしてその場で何度も飛び跳ねる。


「しゃこ! 硨磲! 陸地なのに硨磲! 陸地なのに硨磲! ひゃっほー!」


 叫びながら放り投げた魔石が宙に消えた。

 次の魔物に飛びついた静は、大きな獅子の体躯――恐らくスフィンクスから魔石をえぐり出した。


「にょほほほほほっ、ほー! パパラチアサファイア――――! きゃ――――!」


 ぴょんと飛び上がって静がぴょこぴょこ小躍りする。それだけでは興奮が収まらないのかくるくるっと回った。

 んふふふふふ、と笑いながら次の魔物に静が飛びつく。

 ふと、奇妙な笑いが止まった。勢いよく振り返った静と目が合う。

 見つめ合うこと数秒。

 唖然としていた静から、すん、と表情がかき消えた。


「なにしてるの」

「見てた」


 素早く抉り取った魔石を放り投げ、静は跳躍した。一度壁を蹴って魔物の死骸を乗り越え、清巳の前に軽やかに着地する。


「そうじゃなくて」


 静が口を開いたまま固まった。

 真剣な顔で静の周りをぐるりと一周して、再び清巳の前に立つ。じっと見上げて小首を傾けた。


武士もののふに会った?」

「もののふ……って誰だ?」


 静が身体ごと大きく傾ける。


「武士は武士だけど……あれ、武士いるならなんで来ないの?」


 一度身体を起こして今度は反対側に身体を傾ける。

 しばし考え込んで清巳は一度音声を切った。カメラを回収して地面に向ける。


「……御坂さんが生きてた」

「ほ? だれ?」


 こてんと頭を下に下げた静に清巳は訝しげな目を向けた。

 誰、とは。なぜそんなことを聞くのかも分からず説明する。


「御坂敦。静の刀を使ってた人」

「おっちゃんはミサカじゃないよ?」

「え? ……緋色の刀を昔使ってた人、だよな?」

「うん。でも貰った名前はミサカじゃなくて」


 一度言葉を切る。清巳を見上げ、抱えているカメラを見て、そして小さく、夫妻の子ならいいか、と静は呟いた。


「貰った名前ね、桔梗静香だよ。苗字は大切な人の好きな花を貰って、名前は大切な人が残した名前を貰ったんだよって言ってた」


 清巳はまじまじと静を見下ろした。フルネームは初めて聞いた。しかも名前は名前でも、呼んでいた名前があだ名だったのは驚きである。

 そして、あまり深く聞いてはいけない気配がする。


 御坂家は協会一派のなかでもそこそこ大きな家だ。枢機卿を輩出している名家の一つである。敦が緋緋色金を返上してまで協会と手を切った話は有名であり、その流れで苗字を変えたのだろうということは容易に想像がついた。それさえ推測できれば十分である。


「俺が知ってるのはあの人がまだ現役だったころの名前だから、混乱させた。生きてはいる。五体満足ではないし、記憶も失ってるみたいだが」

「ふぅん」


 思っていたよりも静の反応は冷淡だった。

 あれだけ敵と認定した者に対しては害意しかなかったから、慕っているのだと思っていたのは間違いだったのだろうか。


「なに?」

「いや、もっとびっくりするか感動するかすると思ってたから意外で」

「覚えてないなら意味ないから。それで、武士は?」

「その武士という人は悪いがわからない」

「人じゃないよ。おっちゃんといる高位精霊」


 至極当然という顔で、人外の存在を告げられて清巳は固まった。

 こういせいれい、という言葉を何度か咀嚼して飲み込み、一度海外で確認されて以降はまったく報告に上がらない幻の存在がいるらしいことを理解する。

 いくつか魔物とはことなる人ならざる者の存在について言及された論文を頭から歩掘り起こし、清巳は静に苦言を呈した。


「精霊が見えるのは稀だと言われている。静と違って、俺は見えないしわからな」


 わからない、と言おうとした言葉を切って再び考え込んだ。

 確かにわからない。だが、人では到底あり得ないような、言い表しようのない雰囲気を思い出す。


「そういえば一瞬、雰囲気が変わったな。髪も目も赤くなって、あの人ではない〝なにか〟が言ってた。拙者の緋色を所有する幼子を行かせるな、だったか。もしかして」

「それ武士だ」


 嬉しそうに静が顔をほころばせ、すぐにかき消した。


「武士、おっちゃんに憑いてる? しかもかなり根深く」

 体を起こした静はしきりに首を捻って喉を唸らせる。


「詳しいことはわからないが、かなり怒ってるような様子だったから、静は戻ったほうがいい」

「怒って……うーん……まだ時間あるから、それはあとでね」


 そして静は身を翻した。死屍累々の魔物から魔石だけ手早く回収していく。


  [もののふって誰だ]

  [探らないのがお約束です]

  [見事に俺らとは会話がない件]

  [実力はあっても配信者としては底辺すぎ]

  [鑑定魔法持ち、しかも深層の鑑定できる彼女だれ]

  [座敷童子ちゃんなにげに探索者としてのスペックたけえ。ただしド変人]

  [やましーことでもあるんですかー? 笑]

  [冷やかしは回れ右]


 すさまじい速度で抉り取られた魔石が次から次へと空間収納に放り投げられていく。程なくして、魔物の残骸は溶けるように消えた。


「間に合った」


 満足げに胸を張って、静は清巳の右手首を掴んだ。


「安全地帯こっち」

「いや、俺は」

「いいから」


 有無を言わさず腕を引かれ、清巳は仕方なく静のあとをついて歩く。一分も経たないうちに案内された安全地帯で、清巳はようやく全ての緊張を解いた。

 浅木地下の深層に来るのは初めてだ。他のダンジョンの深層を含めるならば四年ぶりになる。思っていたよりも強ばっていたことを今更ながらに自覚して、唇を噛んだ。

 終わらせに来たはずなのに、生存本能に揺れ動くのも煩わしい。

 壁際に移動し、振り返った静がつま先立ちになり両手を清巳の頬に添えた。


「どうした?」

「『****・*・***』」


 静の瞳が一瞬、赤く煌めいた直後、ぷつん、と意識が途切れた。

 かくんと清巳の膝が折れる。


「わ、わわっ」


 傾いだ身体を支えようとして、養父よりも背が高くしっかりとした体躯を支えきれず座り込む。

 安堵の息を吐き出して、静はよいしょ、と呟きながら清巳を地面に横たわらせた。その横に彼の手から滑り落ちた剣をとカメラを横に並べる。

 そして、彼の腕につけられている端末に手を伸ばした。


「んー?」


 腕を持ち上げて上下左右から端末を見つめた静は頬を膨らませた。知っているものと操作方法が違う。


「んー……こっちじゃなくてー……これでもなくてー……あ、できた!」


 これじゃなくてー、といいながら目的のアプリケーションを探す。通話のアイコンを押して、その中にある二人の名前が書かれている箇所を押した。

 呼び出し中の表示になった画面が、ぱっと応答中に切り替わった。


「あ、繋がった?」

『……繋がった? じゃねえよ。なに人の端末いじってんだよ』


 能天気に繋がったことを喜ぶ声音に、克巳は苦言を呈した。

 カメラはしっかりと他人の端末を触る静を捕らえていた。静は預かり知らないが、コメントにも面白がったり制止したりする声は上がっていた。余談だが、彼女がつつき回したせいもあって、配信の音声もしっかり再開されている。


「真ん中の、なんで大きいの帰ってないの」

『人の話を聞けよ。…………そんなの俺が知りたい。あと兄貴に何しやがった』

「ちょっと強めに眠らせただけ」

『なんで』

「なんでって、なんで? 長いことちゃんと眠れてないからぼろぼろなの、知ってるよね」


 克巳が黙りこくる。

 静は清巳の額をぺちぺちと指先で叩いた。


「肉体自体は眠れば保持は可能だからいいでしょ。でも、本人に生きる気がないのはどうもできない。どうしたらいい」

『……言ってどうにかなるなら、とっくになってる。怒ろうが泣こうが喚こうが、俺らがなに言っても無駄だった』

「むー……夫妻の子は幸せでないとだめなのに」


 清巳の頬を突いていた指を止めて薬を取り出した。むき出しの皮膚に軟膏を塗りたくる。

 あの魔物の言うことは信用ならないことには気づいている。馬鹿正直に清巳を差し出すつもりはさらさらなく、信用ないと分かった以上、静自身もくれてやるつもりはない。出逢わなければくれてやってもいいと思っただろうが、夫妻の子と出逢ってしまった。だから、そんな未来はこない。

 薬を塗りおえて腰を下ろした静に克巳がそっと問いかけた。


『いくつか、聞いていいか』

「なに?」

『…………トマト嫌いなのは知ってたけど、理由までは知らなくて。聞いても答えなかったし単純に好みじゃないのかと思ってて……、……なんか、言ってたか……?』

「とまと? なにそれ? 何も言ってないよ」

『そうか。…………このクソ兄貴』


 悪態をついて深々とため息を吐く。

 言ってないことがあるのは克巳も同じだ。だが、食の好みを単に嗜好だと決めつけて兄を苦しめていたことは胸に大きな影を落とした。重要な隠し事された憤りを、言ってくれなかった悲しみを、気づけなかった悔しさを振り切るように、克巳は話題を変えた。


『あとな。両親は、どんな人だった?』

「どんな……?」


 質問の意図を掴めなかった静は長い長い沈黙ののち、こてんと首を傾けた。


「………………………………人間?」

『そうじゃねえ。性格とか印象とか……知ってることならなんでもいい』

「夫妻の知ってること……」


 思い返すように天井を見上げ、濃い疲労が滲んだ清巳の顔を見下ろした。


「大きいの、隆志さんに似てる」

『そうなのか?』


 静は頷いて更に言葉を紡ぐ。


「体質っていうの? いろいろ好かれやすい。本調子じゃないから今はそこまででもないけど」


 つんつんと頬を突いて、静は口元を綻ばせた。


「好いた子のなかでも残った子がいるから、こうして生き残れてるんだよね」

『……昔、庭に野良猫とか野良犬とか野鳥とかなんでか他人の召喚獣とかいて、兄貴とゆう兄ちゃんとよく戯れてたような記憶は、夢とかではなく現実?』


 さあ、と静は告げた。


「それは知らない。でも、私をほいほいできるくらいだから、できてもおかしくはないよ」


 懐かしむように目を細め、頬を突いていた手を広げてそえる。


「ほいほいといえば、板橋ダンジョンの最下層でぶっ倒れてるの見つけたのも、ほいほいされちゃったからなんだよね。ほいほいできる子は時々いるって聞いてたから、そのときには夫妻の子って気づかなかったけど」


 手のひらで清巳の頬を叩いた。

 あの時も確かにぼろぼろではあったが、今より怪我も酷かった。ポーションを持ってたのもあって何とか息はしていたが、かなり危うかったのを覚えている。

 その時には魔宝石にしか興味関心がなかったから即時治療できるようなものは持ち合わせておらず、大量の魔石を集め治癒促進効果を促すことくらいしかできなかった。


『兄貴を、助けてくれてありがとう、ございます』


 涙ぐんだ声に気づくことなく、静は不思議そうな顔をした。


「ほかにも助けてって縋りつかれたから。私は気休め程度の処置しかしてないよ」


 ぺちぺちと頬を叩いて静は手を離した。


「大きいのはその時しか知らないけど、隆志さんもほいほいな人。美味しかった」

『台所の黒い化け物ほいほいみたいに言うな。…………ちょっとまて。美味しかったってどういうことだよ』

「んーとね、甘かった。美味しかった」

『……人を食ったのか?』

「え、人間って食べていいの? お肉食べ放題?」

『ちがう! 食うなよ、腹壊すからぜってー食べんなよ⁉』

「違うの?」

『ちがう!』

「そっかあ。だめなままなんだ」


 静は悄然と肩を落とした。

 引きつった声で克巳はぼやく。


『親について知ってることを聞いたのに、なんで食人の話になるんだよ……』


 克巳の嘆きに不思議そうな顔をして、けれども静は特に気には留めず回顧を続けた。


「あとはね、二人とも物好き。私を拾わなければ夫妻なら逃げられたのにね」


 ぽんぽんと事もなさげに告げられた内容の中でも、上げて下げるような中身に通話口の向こうが静まりかえった。









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