からんからんと耳朶を叩く硬質な音に意識が浮上した。ゆっくりを目を開けた清巳は、覗き込む赤よりも深い紅に染まった瞳を真っ直ぐに見つめる。彼女の輪郭に髪も緋色に染まっており、雰囲気が違って見える。
しず、と僅かに唇が動いた。だが、思っていたよりも喉は動かず、僅かな空気だけが唇の隙間から溢れる。
「大きいのはどうしたい」
じっと見つめてくる深紅の瞳が見定めるようにすっと細める。
鈍い頭でぼんやりと目の前の景色を眺めていた清巳は、ゆっくりと目を瞬く。
どうしたいとはなんだろうか。
そこで思考は止まり、再開させようにも思考の方向性すら見失って何も考えられない。
「……どうでもいい……」
「それが大きいのの幸せ?」
「…………幸せなんて…………なにも、望まなければよかった……」
弱々しく呟いて、再び瞼をおろす。
抱いた望みは自分には過ぎたものだった。七年前に死ぬべきは、彼ではなく自分だったのだ。二人がいるから、と理由づけをしても、なにも仕方なくなんかなかった。
「夫妻の子は幸せでないとだめなんだよ。最期まで二人がそう望んでたから、幸せでないといけないの。二人がいればいいって言ってたのに、どうしてそれが幸せではなくなったの? どうして、帰りたくなくなったの」
静かな問いが耳を通り抜けて行く。
答えを考えようと思考を巡らせるが、言葉を溜めておくことができなくて、考えたそばからはるはらとこぼれていく。
こんな自分などはやく消えてしまえばいい。このまま消えられたのなら、どんなにいいことか。
しばらく返答を待って口をつぐんでいた静は、痺れを切らして再び口を開いた。
「帰りたくないなら、連れていくよ」
「……好きにすればいい……」
どうでもいい。どうでもいい。何も願わない。何も望まない。生かすも殺すも好きにすればいい。
「そっか」
どことなく嬉しそうに、静の声が弾む。
「ぢぢぢぢぢ!」
壊れかけの機械のような、威嚇のような音に薄らと目を開けた。胸元あたりに下がっている静の視線を追う。胸の上に、向こう側が見えるほどに透き通った、手のひらほどの大きさの小鳥がいた。羽を大きく広げてぢぢぢ、と鳴くその小さな体躯はそこにいるにも関わらず重さを感じない。
「大きいのいいって言ったもん」
膨れっ面で、静が反論する。
「ちちぃ! ちぃちぃちちちぃ!」
「あのね、貴方がこの短期間で弱り果てるくらい、大きいのは疲弊し続けてるの。隆志さんの子の二の舞は流石に認めない」
「ちぃぃぃ! ちぃ、ちちぃちちち、ちちちぢぢぢぢぃぃぃぃ!」
ばさばさと両翼を羽ばたかせて、何かを訴えるように鳥が鳴き叫ぶ。
眉絵を寄せて静は唇を尖らせた。
「別に引き離すつもりはないし。大丈夫になったらちゃんと二人のところ行く」
「ぢぃぃ! ぢぢちちちちちぃぃぃぃぃぃ!」
「大丈夫、二人が生きてる間には帰ってくる」
「ぢぢぃぃぃぃぃぃ!」
ばっさばっさと羽を上下に動かしながら、小鳥が胸の上を往復する。
ちがぁぁう、と全力で全身で表現しているかのような小鳥は、唐突に動きを止め、へなりと座り込んだ。
「ちぃ……」
「無理するからだよ。まったく……大きいの。橄欖石の子に免じて一旦保留にするけど、一つだけ教えて。大きいのの、今の幸せはなに」
「……おれは……俺に、……そんな資格なんて……」
「資格? そんなに欲しいの? 人間はやっぱりよくわからないけど、仕方ないなあ」
呆れたように笑って、静は空間収納から刀を取り出した。刃を手のひらに滑らせ、ざっくりと皮膚を切り、瞬く間に滲み出てきた血を落とすように手のひらを横に向ける。滴り落ちた雫が、ころんと転がった。ひとつ。ふたつ。みっつ。
よっつめが落ちる前にはすうっと傷が消え、何事もなかったかのように綺麗な手のひらがそこにあった。
ぼんやりと眺めている清巳の視線の先で赤く丸い宝石を眺めた静はひとつ頷く。
「これに穴開けて紐通せばいいか」
「ふざけてるんですの!?」
唐突に出現した気配とともに怒号が轟いた。
清巳の左。傍に現れた、足首まである長い髪の女性。頬にかかる朱色の髪を払いのけて、その女性はびしりと静を指差した。
「いくら幼子でもその粗末な装飾品は認められないわ!」
「じゃあ装飾師が作って」
両手に赤い宝石を差し出れ、装飾師と呼称された朱色の女性はかっと目を見開いた。
「なんで私が雄のために作らねばいけませんの!?」
「私が好きなのは石を磨いて綺麗にすることであって、その綺麗にしたのを飾ることじゃないから。私が作ろうとしたものに文句があるなら装飾師が作ればいい」
もっともないい分に装飾師は一瞬言葉に詰まる。だが、すぐに我に帰った彼女は腕を組んで明後日の方向を向いた。
「そもそも、私が貴方に預けたものだってそのままなのに、どうして私がそんな貴方のお願いを聞かねばなりませんの!?」
「だって、宝石の人に怒られたんだもん。そーばが崩れるとか、稀少すぎて国がひっくり返るとか。出所がどうとか。わかんないけどとにかく駄目なんだって」
「これだから人間は……!」
「綺麗さは認めてるから、付与をどうにかすれば」
「妥協しろと言うのです? この私に? 面白くない冗談ですわ」
「だから買い手も貰い手もつかないんだって軍師も言ってたよ。作るばっかりで売るための駆け引きがど下手くそ」
一瞬、沈黙が降りた。痛いほどに空気が凍りつく。
「ふ、ふふ、うふふふふふふふふ。よろしい、戦争ですわね」
「よその島でやってね」
「貴方もですわよ! ……ってだからそのような可愛げも美しさも綺麗さの欠片もない装飾品を私の前で作らないでくださいませ!」
「目を覆っておけばいいと思うよ」
清巳は重い体を叱咤してそろそろと起き上がった。胸の上から転がり落ちそうになる小鳥を手で受け止めて、体を引きずり壁に力なく寄りかかる。
聞いているだけでひどく疲れるのはなぜだろうか。
手のひらの中で丸まっていた小鳥が顔を上げた。
「あーもう、貸しなさい! もう少し綺麗に飾りなさいよ! そもそもなにを作る気でいたの!?」
「紐を通して縛っておけばいい」
「馬鹿なの!? いえ、馬鹿ね! 作り手としてテーマもイメージもなにもなく『なんか装飾品作ろう』なんて抽象的すぎる創作はありないわ!!」
「魔鉱石を磨くのにテーマもイメージもないよ。美しさと綺麗さの形を整えてあげるけど、それはもとからその子がもってるものだから」
「本当にむかつきますわね、この幼子は! なににしようかしら。普段使いできるものがいいわよね。それでいて邪魔にならないもの……。身につけている装飾品とのバランスを考えると、華美さは抑えるべきかしら」
「てきとーにぶら下げておけば」
「お黙りなさい! 装飾品に妥協することは、この私が許しません!」
静は口を噤んで頬を膨らませた。
「…………わかった」
静は清巳の横に腰を下ろす。
腕をよじ登って肩へと移動した小鳥が、頭を頬に擦り付ける。
その場に腰を下ろした装飾師はどこからともなく取り出した数々の道具と素材を地面に広げてじっくりと吟味する。
時折、険しい視線が飛んできて、どことない居心地の悪さを覚える。
「幼子、二つそれより二回り少し小さく加工して」
見もせずにぽいっとなげられた小指の爪程の赤く丸い宝石が弧を描く。的確に静の元へと落ちてきたそれを受け取った静は、指で一つつまみ上げた。
宝石の四分の一の小さな宝石が分離され、コロンと手のひらに転がる。もう一つも同様に分離させ、新たに分離させられた小さな宝石を二つつまむ。
目の前の、普通ならばあり得ない事象を眺めていた清巳は、二つの宝石が跡形もなく蒸発したことに首を小さく傾けた。
そういうものだったか……?
おかしい、と僅かに動く思考が主張するが、口に出す気力もなくただ黙って眺める。
立ち上がった静がててて、と装飾師に駆け寄って手元を覗いた。
「なに作るの」
「ブレスレットです。今のつけているのは、本来あのような雄がつけていいものではないのですよ。縁があって手にしてくれた可愛らしい子のお願いだから耐えましたけれど、そろそろ限界ですの。……はい、できましたわ」
「さすが装飾師。あれは変だなーっては思ったけど、小さいののお願いなら仕方ないねえ」
「でしょう! 装飾品は相応しい使い手に使われてこそ輝くんだから。なかなか可愛らしいじゃない? 女ってのは幼くても自信に満ちた姿が美しいのよ。悲しませることは私の美学に反するから今回ばかりは我慢してあげたけど、次はないわよ!」
後半は清巳に向けて尊大に言い放ち、その女性の姿はふと見えなくなった。
ブレスレットを持って駆け寄った静は清巳の前にしゃがむとその右腕をとった。
中央に丸い宝石が一つ。その両側には先ほど静が加工した石がそえられている。細かい目のチェーンを手首で留め、静は清巳の右腕を持ち上げて見せた。
「はいこれ、幸せになる資格。隆志さんの橄欖石と、美鶴さんの橄欖石と、これ。三つあれば資格足りる?」
首を傾げる静を見つめながら、清巳はゆっくりと瞬いた。
今、なんといった。かんらんせき、とはなんだったか。石。父さんの、石――ピアス。
「足りない?」
それなら、母さんの石というのは。
視線を緩慢に胸元へ落とす。ピアスと同じ、新緑のごとき輝きをもつ首飾り。
「かあさんの……ネックレス……?」
「ちぃぃ!」
左肩で小鳥が肯定せんばかりに鳴いた。静はぱちりっと目を瞬いて不思議そうな顔をする。
「そうだよ。言って……なかったね。大きいのに言ってなかった! あのね、私がいたから二人とも帰れなくなっちゃったの。ごめんね?」
「…………は……?」
申し訳なさそうに眉を下げて困り顔をするが、その声の調子はどこか軽い。
とはいえ、想像だにしなかった言葉に涙が引っ込む。
「だから夫妻の子は幸せでないと駄目なの。二人が最後までそう祈ってたから。私はそれをちゃんと見届けなきゃいけないんだよ」
胸の中が大きく揺れた。言葉にならない感情にぐちゃぐちゃに掻き回されて、行き場のない感情が激しく何かを主張する。
掴んでいた清巳の右腕をそっと下ろし、その手のひらを肩に差し出した。小鳥がちょこんと飛び移る。清巳の目の高さに合わせるように持ち上げられた小鳥が真っ直ぐに清巳を見つめる。
「この子、美鶴さんの祈りの子だよ。元は夫妻の子ではなく夫妻同士に向けられたものだけど、相手の幸せを祈るのは同じ」
「ちちぃ!」
「本当は隆志さんの子もいたんだけどねえ……あの子も、その存在を賭けてあなたを生かそうとするなんて、無謀なことをするよね」
小鳥が再び肩へ飛び、耳たぶを嘴で齧る。顔の角度を変えて何度も石を齧る。
「金青石の子だってかなり無理してた。二人がいなかったら、大きいのはとっくに死んでる」
静は咎めるように指先で清巳の額を突いた。
「これでもまだ、幸せになる資格は足りない?」
心配そうに揺れる瞳を見ていられず、肩をすぼめて俯く。
右手首につけられたブレスレットが視界に入り、清巳はくしゃりと顔を歪めた。
足りないわけではない。たとえいくら積み上げられたとしても幸せになりたいとは思えない。厚情も受け取れない自分の浅ましさが苦しい。
「……ごめん……っ」
絞り出した声はみっともなく震えていた。
石を齧るのをやめた小鳥が清巳の顔を覗くように首を伸ばして、そのまま体制を崩しぽとりと足の上に落ちた。ばさばさと羽を羽ばたかせてもがく小鳥の上にいくつもの雫が落ちる。
静は声もなく涙を流す清巳をじっと見つめ、ようようと口を開いた。
「じゃあ、別に無理に幸せにならなくてもいいよ」
その言葉が深く胸に突き刺さった。
自分でさんざん資格はないと突っぱねたにも関わらず、幸せになるなと人に言われたことが、心臓を抉り取りたくなるほどに苦しい。
顔を伏せる清巳の表情には気づかず、静はあっけらかんと言い放った。
「人間じゃなくなればそんなの関係ないし」
「…………は?」
「ぢぢぃぃぃぃぃ!」
自力で起き上がりそのまま足でじっとしていた小鳥が威嚇の声を上げた。
「あのね、あなたがそういうから聞いたでしょ。でも大きいのは幸せになることを望まないんだよ。だから連れて行く」
威嚇を続ける小鳥を無視して、静は清巳の頬を両手で包み、そっと指で撫でた。深紅の瞳が怪しく煌めく。
「ぢぢぢぢぢぢぃぃぃ!」
羽音が遠い。左腕にはしる痛みもあるはずなのに不思議となにも感じない。そのうちに、もともと鈍かった思考が更に靄がかかったように遮断される。
「嫌なものは、一回全部捨てて行こうね」
体内に流れ込んでくる温かいなにかが全身に広がり眠気を誘う。
「まっ、待ちなさい!」
不意に、睡眠状態の異常が切れた時のようにぷつんと意識が戻った。入り口を振り返った清巳は、肩で大きく息をしている、隻腕隻脚のぼろぼろの男にゆっくりと目を見開いた。