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8 断崖に誘う魔女の目

 陽が傾き始めた夕刻前、意を決したノクティアはヘイズヴィーク侯爵家にスキルを送り出した。

 開いている窓を見つけ出し、スキルはそこから侵入すると、手当たり次第使用人たちを眠らせていく。

 しかしどうにも視覚情報が霞み、ノクティアの目の奥に鈍い痛みを感じた。その目は赤々と充血している。


『ああ……これ多分スキルと離れすぎてるな。単純に見ているのと、何度も何度も洗脳を使うじゃワケがちがうからなぁ』


 それを早く言え。ノクティアは目を擦ると、ヴァルディはキヒヒと笑う。


『よっしゃ、じゃあ僕の出番だなぁ』


 どこか得意げな口調だった。

 ヴァルディは瞬く間に雪煙となり、たちまち姿を変える。


 やがて現れたのは青光りするほど黒い髪の青年だった。


 その面は恐ろしい程に整っているが──皮膚は灰色、ヘルヘイムで会った死の女神のように強膜まで真っ黒な瞳をしていた。

 服は着ておらず、下半身は艶やかな羽毛に覆われている。その手は硬くごつごつとしており、爪は鋭く長い。脚に関しては完全に鳥のものと同じで、背には大きな黒い翼。見るからに怪物──美しくも恐ろしい姿をしていた。


『よぉし、ノクティア行くぜぇ~』


 カラスの姿の時より声色は幾分も低くなっていた。一人称から察していたが、どうやらヴァルディはオスだったようだ。彼はノクティアの肩を脚で掴むと、そのまま大空へ羽ばたいていく。


「ちょ……ちょっとヴァルディ! まってまって!」


 突然の事にノクティアは慌てれば、ヴァルディは鼻を鳴らして笑う。


『だってそのままじゃ目ぇ潰れるぜぇ? おら、いくぞ。はしゃぐと落ちるし街の人間に気付かれるよぉ』


「それはそうだけど! あんた目立ちすぎよ……街の人に見られたら……」


『ああ~それか。大丈夫。カラスの姿は人に見えるけど、本当の姿になっている時は自然霊と繋がれる魔女か巫女や聖女でもないと見えねぇんだよなぁ~これが』


 そうなのか。それを聞いてひとまず安心したが、人間が空を浮いて飛んでいるのもなかなかに奇妙だ。


「落とさないで、安全にお願い……」


 そう言うと『うーっす』なんて軽い調子でヴァルディは言った。

 そうしてヴァルディに連れられてきた場所は、ヘイズヴィーク侯爵家のすぐ近くのトウヒの巨木だった。

 今一度ノクティアがスキルと視界を共有する。そうして見つけ出すが……屋敷の中が大混乱に陥っていた。


「きゃああ! カラスが入ってるじゃない!」


「待って、何人か倒れてる! どういう事!」


 使用人の女たちはぎゃあぎゃあと騒ぎ、ホウキを持ってスキルを追い払おうとしている。これはまずい……。ノクティアはすぐにスキルの目を使って使用人たちを眠らせた。そうしてある程度が片付き、屋敷の中が静かになった矢先だった。


「……うるさいわね、何の騒ぎよ」


 一つの部屋から現れたのはエリセだった。


「スキル。その女がエリセ、標的だよ。目の前まで進んで」


 ノクティアが指示すればスキルはエリセに向かって羽ばたき近寄った。自分に向かってくるカラスにエリセは甲高い悲鳴を上げる。だが目がはっきり合わさった。


「神聖なる夜の名のもとに命じる。エリセ、あんたは屋敷を出ろ」


 ノクティアがそう唱えると、エリセの瞳からたちまち光が消え失せた。


「……はい、なんなりと。あなたに従います」


 成功した。エリセはそうして、玄関へと向かっていくとアプローチの前をとぼとぼと歩み始める。

 しかし思ったより歩くのが遅い。ヴァルディもノクティアと同じ事を思ったのだろ。『のれぇな』なんて呆れた調子で言って肩をすくめる。


『じれったい。じゃあいっちょ、岬までお嬢様たちを運びますかぁ!』


 キヒヒ。とヴァルディは笑い、ノクティアを小脇に抱えて飛び立つとアプローチを歩むエリセを脚で掴んで拾い上げる。人間から見えないとは言ったが、掴む事はできるらしい。確かにこれは便利だ。


 そうしてヴァルディは恐ろしい勢いで空を飛び、あっいう間に先程まで居た岬まで辿り着いた。陽は傾き、海面は金色に色付き黄昏が迫っていた。ヴァルディはカラスの姿に戻ると、ノクティアの肩に留まる。


『やったぁ~大成功じゃん、あとは、このお嬢様を殺るだけだよなぁ?』


 いつも通りの子どもの声に戻っていた。ヴァルディの言葉にノクティアは頷く。それと同時に目の前に雪煙が巻き上がり、スキルが帰って来た。


『大成功ですねぇノクティア。ヴァルディもお疲れ様。じゃあノクティア。後は、お楽しみのお時間ですね』


 スキルは嬉々として言った。

 目の前のエリセはぼんやりと人形のように佇んで空を見つめている。


 憎たらしくて堪らない。この女がいたから自分はこんな目に遭ったのだ。こんないまいましい場所に来なくたって良かった。死ぬ事なんて無かったのだ。貧困街で何も考えず生きていけばよかっただけなのに。さまざまな憎悪が巡り巡って、ノクティアは歯を軋ませる。 

 しかし、ようやくこの時が来たのだ。死したあの日、叶えたくて仕方なかった事が実行に移せる時が来た。あとは彼女を崖に向かって歩かせるだけでいい。


「……エリセ、崖に向かって歩け」


 そう命じると、彼女は「はい」と答え、ゆったりと切り立った崖の前に向かってのろのろと歩いていく。


 これでいい……これでいい。ノクティアは自分に言い聞かせるが、全身の慄きが止まらない。

 本当にこれでいいのだろうか。

 人殺し。それは、これまでした窃盗なんて比べものにならないほど、重たい罪に違わない。捕まれば極刑だ。


 ……怖い。最低な事だと分かっている。人としての道をそれこそ踏み外してしまう心地にただならぬ恐怖が襲いかかる。


「……止まれ。エリセ、止まって!」


 崖の手前まで歩んだエリセに止まるように指示してしまった。

 ノクティアの顔面は真っ青だった。玉のような汗をかき、身体を戦慄かせ、呼吸は粗くなっていく。心の奥に黒い靄が広がり、それが膨らんで破裂してしまいそうな心地がした。


『おぉい、ノクティアどうした? 殺れよ』


『もうすぐ女神様に縋った願いが叶いますよぉ?』


 二羽のカラスが囁くが、その言葉もぐるぐると頭を回る。

 そうだ、縋るまでして願った事だ。そうして自分は死に戻ったのだから。

 ノクティアはエリセを崖から突き落とそうと歩み出した矢先だった。何かが恐ろしい勢いで迫り、たちまちノクティアを背後から包み込んだのである。その途端に二羽のカラスは飛び上がり、たちまち姿を消した。


「……やめろノクティア」


 背後から響いた声は、すっかり耳に馴染んだ低く平らな声色だった。

 怯えた顔でノクティアが振り返ると、そこにはソルヴィがいた。


「おまえは魔女だったんだな。鞭打ちのミミズ腫れだらけで、痣だらけ。よほど酷い事をされたのは分かっている。分かるが、おまえのしようとしている事はきっと一生自分の事も傷付ける」


 ──あの子の洗脳を解いてやれ。優しいおまえに人殺しなんてできない。

 ソルヴィにそう言われて、ノクティアはたちまち感情を爆発させた。


「……私の事なんて、なんにも知らない癖に! どうしてあんたがいるの!」


「ああ、俺はおまえを何も知らない。だけど、切羽詰まっているおまえが心配で嫌な予感がした。だから、朝からずっと追ってきた」


 暴れ藻掻くが、彼の腕はびくともしなかった。それさえも悔しくて、ノクティアの瞳はたちまち潤った。


「許せないの……憎いの……」


「許せなくたっていい。憎くてもいいんだ。帰ろうノクティア」


 ソルヴィはノクティアを覗き込み優しく言う。その瞬間にしっかりと目が合わさった。ノクティアはとっさに彼を眠らせようと試みた──しかし、彼は眠る気配がない。どんなに瞳を見つめても、念じたとしても眠る気配がない。


(……どうして!)


 ノクティアは更に取り乱して慟哭する。その様子にソルヴィは少し困った様子で眉を寄せるが、すぐにノクティアを抱き直し、担ぎ上げると丘陵を下っていく。


 嫌嫌と暴れて抵抗したが、やはり岩の如くびくともしない。どうにもできない。そうと分かって、ノクティアはただ啜り泣くだけになった。

 そうして、彼は丘陵を下り終え、ビョンダル領方面の海岸線を歩んでいく。


「……なぁノクティア。あのお嬢さんはヘイズヴィークのお嬢様だ。おまえはあのお嬢様の義理の姉だろ?」


 そう聞かれてノクティアは目を瞠った。なぜそれを知っているのか。泣き濡れたままのノクティアがソルヴィを見ると、彼は大きなため息を溢した。


「おまえを拾う数時間前、エイリクって侯爵家の使用人頭が訪ねてきた。貧困街から連れてきた当主様の娘が失踪したと。どこかで迷子になっているかもしれないって。特徴や名前を聞いて、見つけ次第保護してやってくれと言われて、俺は探し回っていた」


 彼はヘイズヴィーク侯爵家の息がかかっていたのか。ノクティアは落胆すると同時に、さっそく魔女と知れてしまった事に戦慄いた。判事に突き出されたとして、彼の証言次第では処刑台に立たされてもおかしくない。きっと全部見ていたのだ。


「私をどうする気なの……」


 震えた声でノクティアが訊くと彼は首を横に振る。


「どうもしない。おまえがそこまで恨む程に酷い仕打ちを受けた事は傷を見るからに分かっている。それにさ……おまえが俺の婚約者だろ?」


 冷たい風が木々をざわざわと揺さぶる中でも、彼の静かな声ははっきりとノクティアに届いた。


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