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9 ヒグマのような〝旦那様〟

 彼の家に戻って来たノクティアは真っ青だった。

 しかし……彼がまさか婚約者だったと誰が思うものか。ノクティアは夕食の準備を始めたソルヴィの背中を見つめてぼんやりと立ち尽くしていた。


 逃げられるわけがないと、もう分かっている。


 この男は、自分を運ぶ時に片腕で楽々と担ぐ程の腕力がある。単純な力で勝てるはずがないのだ。走ったとしても恐らくすぐに追い付かれる。自分は体力があまりない。簡単に追い付てしまうだろう。それに、この男にはどういったわけか洗脳が効かなかったのだ。

 完全な窮地だった。ノクティアは怯えた表情で彼の背中を見つめていた矢先だった。


「そんな場所で突っ立っていても疲れるだろ? 食卓の椅子に座って待ってろ」


 そう言いつつ、彼はトナカイの肉の塊を取り出すと包丁で丁寧にスライスする。

 少しでも言葉を誤れば、この包丁が自分に向かって飛んでくるのではないかという恐怖も頭にぐるぐると回った。


「あの。あんたが……ビョンダルの猛獣騎士なの……?」


 怖々とノクティアが訊くと、彼はノクティアを一瞥して頷いた。


「そう呼ばれているらしいが、どこが猛獣かは分からないがな」


 ──国中の騎士たちの模擬試合で、三位以内には確実に入るからか? なんて付け添えて、彼は考え込むようなそぶりをする。

 赤銅髪でガッチリとした体躯は確かに猛獣──ヒグマを彷彿する。しかし、エリセの言った言葉から想像と違っていた。


 野蛮なんて言ったので、古き時代のフィヨルドの戦士のごとく、顔面の半分以上が髭でモジャモジャかと思った。それで、不潔で強烈に足が臭いだとか肥満体型だとか……イングリッドやジグルドのように強面で柄が悪いと勝手に思っていたので、事実ノクティアも想像と違って驚いている部分はある。


 猛獣というより〝穏やかクマさん〟とでも言って良い程に彼は物静かで穏やかだ。

 そう思わせるのは、目の輪郭が少し垂れていて、優しい相好をしているからだろう。その上、乱暴な雰囲気は感じられない。


 しかしノクティアはよく分かっている。こういった穏やかそうな雰囲気の人間ほど怒らせると怖いのだ。こういった部類の人間は貧困街のならず者の中にもいた。


「私の事を知っていて、助け出して……黙っていて、騙したの?」


 怖々と言葉にすると、彼は調理を止めて、肉の端切れを摘まむとノクティアの前までやってきた。

 ソルヴィは肉の端切れをノクティアの口元に持ってくると唇に押し込んだ。思わず食べてしまう。少しばかり塩辛いが熟成された旨みが口いっぱいに広がると、この状況下にも関わらず幸福感を覚えた。ノクティアの瞳にたちまち光が躍る。


 そんな様子を見て、ソルヴィは困ったような顔をしつつも口元を綻ばせた。


「あのなノクティア。もし俺がおまえを騙していたとしよう。ここに帰るなりおまえに何をするか想像してみろ。飯を食わそうとするか?」


 そう訊かれて、ノクティアはキョトンとしてしまうが、すぐに首を振る。


「食事に毒とか痺れ薬とか盛るかもしれない……あんたは狩りもやるでしょ」


 貴族がこんな辺鄙な場所に家を持っているなんて、間違いなく狩猟小屋に違わない。その点を怯えながら指摘すると、ソルヴィはやれやれと首を振った。


「狩りもするし、ここが狩猟小屋も正解だ。婿入りが近いから、一ヶ月ほどここに滞在していた。侯爵家に近いからな。だがな、俺は薬を使った猟はやらない。毒矢を使えば肉の処理が面倒だからだ。それにな、本当におまえに対して敵意があるなら即刻自警団に突き出す。それか連れ帰った時点で、服を剥いで縄で縛って、おまえを乱暴に抱き潰すだのして辱めるかもしれないだろ? 妻になる予定の女だしな」


 後半については考えてもいなかった。ノクティアは更に顔を青くすると、ソルヴィは首を振るう。


「あくまで、たとえ話だ。そういった卑劣な趣味はない。おまえに敵意は一切無いし、騙そうだの思っていない。それは信じてくれ」


 ソルヴィは少し屈み、ノクティアと視線を合わして真摯に言う。

 ふと、エリセを崖から突き落とそうとした時の言葉が頭に過った。


 ──おまえのしようとしている事はきっと一生自分の事も傷付ける。心配で朝から追っていた。

 確かに、こんな言葉はとっさに出ないかもしれない。それに事実こうして間近に見ると、彼の対応も視線も一切の敵意がない。感じるものは憂いだけで……。


「信じていいの……?」


 怖々と訊くと、彼は頷き「勿論だ」と穏やかに言った。


 そうして二人で晩餐を取るが、今日は互いに無言だった。だが、やはりソルヴィの料理は旨かった。今日に限っては食べる気分にならないかもしれないと思ったが、出されたものは全部完食してしまった。


 食事を終えた後、彼は温かいミードを出してくれた。蜂蜜と水を混ぜたものを酵母で発酵させたいわゆる蜂蜜酒だが、それを飲むと、ほんの少し心が解れる心地がした。

 同じようにミードを飲む彼は、穏やかに言葉を切り出した。


「……なぁノクティア。おまえは、本当に色々と巻き込まれているだけだと思う。俺はできる限りおまえの力になりたいとは思う」


「人殺しの魔女なのに?」


 ぽつりと言うと、彼は首を振って「未遂だろ」と言った。


「この婚約も、やめさせられる?」


 そう訊くと、彼は少しばかり思案顔になる。ややあって「爵位の理由もあって俺一人の力じゃ難しいかもな」と困却した顔で言った。


 そういえば、そうだった。彼の方が身分的に爵位は低い。それも次男らしい。

 確か、昔の戦で父親同士の恩義もあって、そういった婚姻に結び付いたと聞いている。


「じゃあ一緒に遠くに逃げるとか、できないの?」


 ノクティアが訊くと彼は目を丸くして、びっくりしたような顔になる。


「……俺と駆け落ちしたいのか?」


「ち、違う! そうじゃない、そうではないけど……」


 上手い言葉が見つからなかった。ノクティアは困り果てて、ミードを飲み干すと立ち上がる。


「もう寝たい。昨日まで使わせて貰った部屋使ってもいい?」

 そう訊くと彼は頷き「おやすみ」と穏やかに言った。


 ---


 そうして部屋に数日世話になった部屋に戻ってきたノクティアは、そのままベッドに俯せた。


 自分は貧困街にさえ帰れればいい。だが、あの街に帰ったところで、必ずまたエイリク来そうだと思う。伯母も来るかもしれない。結婚なんてしたくない。いまだに冗談かと思う。


 しかし、駆け落ちしたいのか? なんて……。確かに自分の言葉の選び方が悪かったと思うが。それでも彼は力になりたいと言ってくれた。あんなに真摯な目を向けられたのだから、少し信じてみたくはなってしまうが……。


「やだなぁ」


 ノクティアは寝返りを打って、仰向けになると目の前で青白い蝶が二匹舞い、ワタリガラスたちが姿を現した。


『ノクティア、申し訳なかったです。人の気配に気付けませんでした。それに追われているのも察知できなくて……』


 あの男は何者なのかと、スキルは言う。

 対して、ヴァルディは『そーまじ野生動物かよ』なんて呆れた声で言った。


「そうなんだよね。私洗脳で眠らせようとしたのに効かなかったの。使用人たちにはスキルの目を通して百発百中だったのに……」


 あれはどうしてなんだろう。そんな風に考えていれば、二羽は考えるようなそぶりをする。


『いくらか理由は考えられますが、あの男は本来よりそういったものを跳ね返す力が強いのか、あるいはあの時のノクティアの精神状態かも知ませんね……』


『どの道、ノクティアが怖じ気づくから、今回の暗殺は失敗しちまったからなぁ~で、次の暗殺計画どうすんの?』


 呆れた調子でヴァルディは言う。しかし、それで思い出した。


「そういえば、エリセってどうなったの? まだあの岬にいるの?」


 少しだけ気になった。ノクティアが身体を起こして聞くと、ヴァルディは大笑いして、布団の上で転がった。


『あ~あのお嬢様? ノクティアがあの女から、ある程度離れてから、洗脳が解けて大騒ぎ。そら状況が理解できていなくて、岬でワンワン泣いてやんの。そんで、暫く経って探しに来た使用人どもが迎えに来てたぜ?』


 その頃には外が真っ暗だった。なんて言って、ヴァルディは再びノクティアに訊く。


『で、次は……?』


『そうですよ。次こそ成功させましょうよ』


 同調してスキルも言うが、ノクティアの表情は曇った。


「……また考えるでもいい?」


 やっぱり怖かった。憎いし許せないけど、怖かった。

 そんな言葉を小さく吐き出すと、二羽のカラスは顔を見合わせる。


『ノクティアは優しいですねぇ』


『……ま、時間はあるんだし、ノクティアのペースでいいんじゃねーの?』


 好きにしたらいい。と、告げて二羽は雪煙となって解けるように消え去った。


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