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10 侯爵家への帰還

 ヘイズヴィーク侯爵家で起きた怪事件は、たった一日で領地中に知れ渡った。

 なにやら、室内に侵入したカラスを見かけた使用人たちは続々と眠りに落ちてしまい、麗しいエリセお嬢様がフィヨルドの岬まで連れ去られたと……。


 ──きっとトロールが現れたのだろう。きっと気まぐれな悪戯だ。いいや、もしかしたら愛らしいお嬢様を花嫁にするために攫ったのかもしれない。そんな噂が流れたそうだ。


 その事件を起こした当人ノクティアは、今まさに騒動の渦中にあるヘイズヴィーク侯爵家にソルヴィと向かっていた。

 侯爵家に向かうという事で、彼は新しい服を用意してくれた。そんな彼も普段よりしっかりとした装いをしており、随分と貴族らしい見てくれになった。


 あの日から二日が経過した。そしてノクティアが、この領地に来て一週間以上が経過しただろう。

 本当は拒絶し逃げ出したい気持ちでいっぱいだが、二人で話したところで解決しようもない上、手段も浮かばないので侯爵家に行くのは腹を括る他なかった。

 侯爵家に向かってソルヴィは馬を走らせる。そんな彼の前に座してノクティアは流れゆく景色を眺めていた。


 領地に来る際に馬車に乗ったが、乗馬はこの日が人生初経験だった。

 歩いていくのかと思ったが、狩猟小屋の後ろに厩舎があり、そこに彼の愛馬が繋がれていた。数日居たにも関わらず、嘶き一つ聞かず、静かだったので全く気付かなかった。

 真っ黒で艶やかな毛並みをした牡馬で、名前はミルクルというそうだ。

 ルーンヴァルトの古い言葉で意味としては〝闇〟。ひっそりとした性格で色も見た目もそのままだと思ってしまうが、存外この馬は懐っこかった。


 自分は死の女神の加護を受けた魔女だ。動物は目に見えぬものに過敏だ。きっと嫌われるかと思ったが、ミルクルはノクティアに頬を擦り寄せ、鬣を撫でさせてくれた。存外嫌われていない事にホッとした。『牡馬なだけあって女が好きなんだろうな』なんてソルヴィは笑う。


 そうして二人ミルクルに乗って向かっているわけだが、よく揺れるので乗り心地は快適とは言えないが、素直に乗馬は楽しく思えた。

 澄み切った秋晴れの空のもと、風を切って走るのは心地良い。鏡のように静かなフィヨルドの海岸線を駆け抜けて岬を越え、色付いたマロニエの並木を抜けていく。


 しかし、こうも異性と密着して距離感が近いのは妙な心地がする。それも落ちないようにとの気配りか、太い腕をガッチリと腹に回されているので……。少しばかり居心地悪くなってノクティアが身じろぎをすれば更に腕の力を強められた。


「どうした、揺れるのが怖いのか?」

「大丈夫、そうじゃない」


 目を細めてノクティアは言う。そもそも人とこんなに近い距離で密着する事もない。異性なんて尚更だ。別に何の感情がなくとも気恥ずかしさがあった。


「そうか。屋敷が見えてきたからじきにつく。少しの辛抱だ」


 頭の上に落ちてきた言葉は、やはり穏やかなものだった。ノクティアは恥ずかしさに熱っぽくなった頬を煩わしく思いながらも頷いた。


 そうして丘陵に続く道を上り終え、侯爵家の前までやって来ると、玄関の前には既に数人の使用人が控えていた。

 そこには、エイリクの姿以外にも自分を鞭で撲った男使用人やそれを嘲笑していた女使用人の姿もあり、ノクティアの顔を瞬く間に青ざめた。


「ああ……ノクティア様良かったです。ご無事で……」


 ノクティアの姿を見るなり、エイリクは急ぎ駆け寄ってきた。その表情は気遣わしげなものだった。ノクティアは顔を青くしたまま困惑する。

 エイリクはあの晩、心底心配と言った様子で探し回っていたと聞いたが……。本当なのだろうか。追われている時に呼ばれた声が、剣幕に怒鳴っているようにも聞こえた。


 しかしどう答えて良いか分からない。この男もソルヴィのように、力になると言ってくれたが、使用人を取り纏めている男だ。最初の印象だって最悪で、どうにも疑わしく思えてしまう。まだ記憶に新しい畏怖に身体が震えてノクティアは俯いた途端だった。


「悪い。だいぶ落ちついたとはいえ、混乱はあるみたいだ。あんたにはこの子を拾った時の状態を言ったから分かっているよな? 少し距離を取ってくれ、ノクティアが怯えている」


 ソルヴィはすぐに合間に入り、ノクティアを背に隠すように庇った。


「ああ……申し訳ございません」


 そう言って、エイリクは二歩三歩と下がると、改めて屋敷に案内する旨を言った。


 自分を見る使用人たちの視線はやはり冷たかった。カラスの目を通すとの直接目の前にいるのではやはり違う。あの晩の鮮烈な痛みや絶望が脳裏に蘇り、早くも逃げ出したくなる。

 だが、すぐさま腹の奥に黒くどろどろとした恨みと憤激を思い出す。


 そうだ、今の自分なら復讐を成し遂げる力を持っている。この前は寸でのところで、怖じ気づいて失敗してしまったが、その気になれば、いつだって……。

 よく考えれば、別に相手を死なせなくても良い。怪我を負わせるだの、病気にするだの、厄は与えられるに違いない。


 ふざけるな、みんな苦しめばいい。ノクティアは真っ青になりつつも呪いめいた言葉を心で呟けば、薄紫の瞳の光は次第に薄まり消え失せる。

 その時だった。


「ノクティア」


 突然、名を呼んで立ち止まったソルヴィは、そっとノクティアの肩を抱き、屈んで耳打ちした。


「安心しろ、俺ならあいつら全員が束になって来ようが秒で倒せる」


 そんな風に言って、ソルヴィが少し悪戯げに唇を綻ばせるので、ノクティアの瞳に再び光が宿った。

「苦しめばいい」だの、思った事を無意識に言ってしまったのだろうか。気恥ずかしさと同時に妙な緊張が走り、ノクティアが彼を見るとソルヴィは口元を綻ばせる。


「大丈夫だ。安心しろ。そう怖い顔するな」


 今一度「大丈夫」と、安堵させるように言って、彼はノクティアの肩を摩ると再び歩み始めた。


 ---


 屋敷に入り、通された部屋は以前エリセと面会した時に通された部屋と同じだった。

 そこに控えていた使用人は、あの時に自分に対して〝癇癪持ちの、どうしようもない嘘吐きな娘〟と罵った貫禄ある女使用人の姿もある。

 彼女はノクティアを冷めた目で一瞥するだけで、淡々と茶器の準備をしていた。


 応接間は恐らく一つしかない。仕方ないだろうが、どうにも嫌な記憶ばかりが過って気分が落ちつかなかった。それでも、ソルヴィがいるだけ恐怖心が薄まり心強かった。


 彼も彼で侯爵家より身分が低い立場にある。だからこそかも知ない……。そんな風に思いつつ、二人で案内されたソファに座っていれば、エイリクが中年の女を連れてきた。


 栗毛の髪に若苗色の瞳……まさに義妹エリセの生き写しのよう。見ただけで、これがあの女の母親だと分かる。


 ……しかし年端の割には随分と美しいだろう。


 年齢的に伯母やまさに今、テーブルにティーカップを置いている貫禄ある女使用人とそう変わらない事は分かるが、彼女は肌艶が良く皺が少ない。立ち姿も背筋をピンと伸ばしている事から、気品と同時に自信に満ち溢れた美しさを感じられた。また、その装いは深い緑と落ちついた色合いを基調にしている事から、洗練された美しさがあった。

 エリセも歳を取れば、こんなになるのだろうか。それほどに似ているので、そんな事をノクティアはふと思った。


「お初にお目にかかります、私はヘイズヴィーク侯爵夫人のフィルラと申します」


 女は涼しげにそう言って、ソルヴィに向けてほんのりと笑む。


「夫は病床に伏せているため、私が代理となって大変申し訳ないですが、婚礼や家の引き継ぎについてのお話を始めましょう」


 フィルラが続け様にそう切り出すと、ソルヴィは頷いた。


「奥方も気苦労が多い中でしょう。こうしてお話ができる事、私も恐縮ながらも光栄に思います」


 こんな丁寧な言葉使いもできるのか。と、ノクティアはほんの少しだけ驚いてしまった。その横顔を一瞥したが、表情もいつもとは少し違う。

 穏やかな顔立ちはそのままでもしゃんとしており、やはり彼も貴族の子息だったのだと思い知らされる。


「お気遣いありがとうございますソルヴィさん。貴方は、噂で聞いていた殿方と違っていて、とても驚いています。紳士的な殿方で安心しました。それにノクティアさん。貴方とも思えば初めましてでしたね」


 ソルヴィはともかく自分にまで挨拶されると思わなかった。一瞬向けられたのは、冷ややかな視線だった。しかし、あからさまな蔑みとはまた違ったもので……ただただ冷めている──無関心といった視線だった。


「婚姻が嫌だと逃げたらしいですが、ソルヴィさんが説得して連れてきて下さったと聞きましたよ。よく戻って来て下さいましたね」


 そういう事になっているのか。ノクティアは何も答えなかった。単純にどう反応して良いか分からない。だが、それ以上フィルラの視線を向かず、ソルヴィを真っ直ぐに見つめていた。

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