結婚式が終わって一週間も経たずうちに、ノクティアの生活は大きく変わった。
引き継ぎの執務が本格的となって、ソルヴィと過ごす時間は激減した。彼は、執務室に篭もっているか、領地のあちらこちらを巡っているようで、朝食の席と夕食の席をともにするだけになった。
またノクティアも、夫人としての教育……否、一般教養と淑女としての立ち振る舞いや過ごし方を学ぶようになった。
立ち方や歩き方などの振る舞いは結婚式前にも散々に練習したが、この練習は継続された。
一般教養は基礎中の基礎、読み書きの学びから始まった。
貧困街の仲間が神々の名をタトゥーで彫っているので、文字が全く読めない訳ではないが、完全ではない。
しかし、書く方においては壊滅的だった。そもそも、ペンさえ握った事も無かったのだから……。
表に立つ事も無い
「それでは、立ち振る舞いの訓練はこれくらいにしましょうか」
背筋も伸びて、優雅な所作ができるようになりましたね。なんて、エイリクが褒めるので、ノクティアはまんざらでも無い気分だった。
エイリクは午前中の三十分ほど。離れまで足を運んで、ノクティアに歩き方や所作を教えてくれていた。
「お辞儀などの女性らしい所作においては、ソフィアを見て学ぶと良いでしょう」
そんな風にエイリクが言うので、近くで硝子窓を拭いているソフィアがびっくりとした顔でこちらを見る。
「……私などが参考になるのでしょうか」
「充分だと思いますよ。貴女は自信ない振る舞いをする事が多いですが、何をするにも丁寧です。そして所作は淑やかで素晴らしいと思いますよ」
「いえ、そんな私は……」
恐縮そうに言って、ソフィアはエイリクに頭を下げる。
だが、そんな今現在の彼女の所作ひとつひとつが滑らかで美しいのは本当だった。
「確かに綺麗だよね。私にそういった立ち振る舞いが似合うかは不明だけど……真似してみようかな」
思ったままをノクティアが言うと、ソフィアはまたもびっくりした顔をするが、すぐに優しい笑みを浮かべた。
「ノクティア様は愛らしく可憐ですもの。きっと似合いますよ」
そんな風に微笑んで言われるので、ノクティアは思わず見とれてしまう。
思えば、彼女が笑ったのは初めて見た気がする。
しかし愛らしく可憐とは……。そんな上品な言葉で褒められた事が無いので、どう反応して良いかは分からない。胸の奥がムズ痒い心地がする。
「……あんたと同等になるまでに、私きっと十年以上かかりそうだよ」
「そんなまさか、きっとすぐ追い付きますよ」
そういった彼女は、「ふふ」なんて声を出して笑っていた。その笑顔はやはり優しいが、どこかあどけなさもあった。こんな顔もできるのか。自分がこれまで関わろうともしなかったので、知らなかっただけだろうが……。
「さてと。今日はこれでおいとまします。今日から、読み書きのお勉強は外部から雇った教師が来ます。くれぐれも粗相のないように〝良い子〟でお願いしますね」
エイリクの説明にノクティアは半眼になった。
しかし〝良い子〟なんて。もう十八歳も過ぎている立派な大人だ。ソルヴィもそうだが、エイリクに関しては、どうにも年齢より幼い子どものような扱いな気がしてならない。事実、親子の年齢差はあるので仕方ないのかもしれないが。
「ふぅん、おじさんが教えてくれる訳じゃないんだ……」
「エイリクと読んでくださいノクティア〝お嬢様〟」
「そうやってわざとらしく〝お嬢様〟なんて呼ぶんだから、別に良いでしょう? どう見たって、見た目からおじさんなんだから」
エイリクの見た目は黒髪に白髪がちらちらと交ざっており、灰色になりかけている。
灰青の瞳を囲う目の縁や額には深い皺が刻まれており、渋い見た目だがなかなかに精悍な顔立ちをしていた。
「……エイリクおじさん」
ノクティアがぽつりと言うと、エイリクは驚いたのか目を瞠って照れたような顔をしたが、すぐにそっぽ向いて咳払いをする。
「私もノクティアお嬢様の成長を間近で見守りたい気持ちは山々ですが……」
「え、普通に嫌だよ。だって間近で見られたら窮屈だもん。おじさんは自分の仕事に集中していてよ」
思ったままを言うとエイリクは微笑み、再びノクティアに優しい視線を向けた。
「分かりましたよ。私は自分の責務に集中します。ああ、そうだ。教師は使用人と無関係の〝外部の方〟ですので安心してください。普段は麓の学校で子どもたちに勉強を教えている教師ですからね」
──ただどうか失礼の無いように。釘を刺されるように再び言われたので、ノクティア「はいはい」と適当な返事をした。
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そうして午後。昼下がりにソフィアが教師を連れてやって来た。
その男はソルヴィとそう年端も変わらない青年だった。灰金髪に青目とルーンヴァルト人らしい見た目の男で、銀の眼鏡をかけていた。グラスコードもついていて、何だか瀟洒な雰囲気がある。エイリクが言うのだから爺さん教師を連れてくるかと思ったので意外だった。
しかし、こんな顔をどこかで見た事がある気がする。しかし、どこで見たかは分からないが……。
「初めましてノクティア様。お初にお目に掛かります。トビアスと申します」
淡々と言って、彼は一礼する。ノクティアも習ったようにスカートの裾を摘まんで淑やかな挨拶をして見せた。
そうして、早速テーブルについて読み書きの実力を測られた。
子ども用の絵本を渡され、読んでください。と、トビアスは淡々と言う。ノクティアは戸惑いつつも表紙を開き、分かる部分だけを読み、あとは絵から想像で読む。しかし半分も届かぬうちに、彼はため息をついて、音読を止めるように言った。
そして次は書き取りだった。ペンを持つよう言われて、トビアスの言う単語を書けとの事だった。
林檎、雪、山、道、夜……。彼はゆったりと言うがノクティアのペンは一度も紙につかなかった。
「分からない。書けない」
ノクティアの答えにトビアスは唖然としていた。信じられないようなものを見るような目でノクティアを一瞥すると、彼はこめかみを揉む。
「ノクティア様……貴女ふざけていますか? 最後の夜は貴女の名の由来する単語じゃないですか」
「ふざけてない。エイリクっておじさんから聞いてなかった? 私、読み書きはほとんどできないよ」
「……貴女が領主様の庶子とは聞いています。あの、失礼ながら一つお聞かせ願いますが、貴女はどこで育ったのですか?」
「ロストベイン」
率直に答えると、彼は訝しげに眉をひそめた。
「王都の大通り、その裏の……? あの貧困街ですか?」
ノクティアが頷くと、トビアスの眉間の皺は濃くなった。
「そう、ですか……。まぁ金銭を頂いている以上、読み書きは教えます。ですが、貴女には謙遜せずとも大丈夫そうですね」
──ノクティア。と、敬称を付けず、トビアスは淡々とした口調で言う。
この時、ノクティアは自分の発言がまずかったような気がした。
トビアスの言い方は、決して親しみを持つ言い方ではない。とはいえ、この淡々とした気質は、蔑んだものとも言い切れないが。
庶子と知っているならば、聞かれた事を素直に言ったまでだ。適当を言って欺けば良かったかもしれないが、とっさでは頭が回らなかった。余計な事はこれ以上言わない方がいいだろう。
「それより、書き取りを教えて……」
ノクティアが話題を切り替えると、幸いにもトビアスはすぐに頷いてくれた。
その日は、基礎的な書き取りの事を学んだ。トビアスは終始淡々と喋る。もはや、ここの使用人のほとんどが、淡々とした口調で話すので、トビアスがこんな喋り方をしてもノクティアは特別違和は無かった。確かに、冷めた視線のようには思うが、別に酷い蔑視は向けられていないだろう。
しかし、単語の書き取りをする最中でノクティアはある違和を覚えた。
「そこは綴りが違いますよ」
そう言って手を止めたノクティアの手の甲を軽く叩いたのである。
「ちょっと待って、どうして叩くの」
別に痛くはない。だが、手を叩かれるなどいい気分ではない。ノクティアは眉根を寄せると、彼は「罰です」と言う。
「間違えるのは悪いの?」
「時間を無駄にしている罰です、罰を受ける事で人はその身に知恵を付け覚えます」
確かに一理あるが、納得できない。ノクティアはトビアスを見据えると、彼はため息を一つつく。
「教養の乏しい貴女に分かりやすく説明しましょう。馬を思い出してみてください」
──馬は、
どうしてだ。この男は外部の人間だ。あの暴行を知っているのだろうか。まさか、エイリク以外の使用人と接点があって、聞いていたのだろうか。
脳裏に過る、恐ろしい虐待にノクティアは目を瞠って震え上がった──その途端だった。
「トビアス様、今日の授業はこれくらいにいたしませんか?」
部屋の隅で黙って縫い物をしていたソフィアは茶器を持ってやってきた。
「まだ三十分ほどしか経っていないが……契約では一時間と聞いている」
訝しげに言うトビアスに対し、ソフィアは首を横に振る。
「ノクティア様の体調が悪そうです。侍女としては休ませたいのです」
そう言って、ソフィアはトビアスにお茶を出すと、今度はノクティアを立たせて奥の自室に行くように促した。