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16 結婚式と初めての夜

 ドレス切り裂き事件の後日は目まぐるしい日々だった。

 犯人の女は解雇、器物破損の現行犯でエイリクが自警団に突き出したらしい。


 また、この事件の後ろで糸を引いていたと思しいスキュルダは、証拠がない事から解雇できなかった。


 証拠もなく突き出す事はできない。証明できるものがないからこそ、ノクティアへの理不尽な暴行も取り締まる事ができなかったのだ。傷跡で証明できそうではあるが、ノクティアは貧民街で暮らしていた庶子という事もあって、やはり立場が弱すぎた。


 また、ソルヴィの言った通りに使用人間で派閥があるらしく、ヘイズヴィーク侯爵家に長く仕える使用人頭のエイリクと夫人が嫁入りの時に連れてきた侍女、スキュルダで派閥が分かれているらしい。


 使用人頭というくらいなので、どうにかできないのかと思うが……使用人というのも、多くは家を継げなかった貴族出身者が多い。


「私はの次男。スキュルダの方はの三女と私より家柄が良いのですよ」


 単純な勤務年数だけではなく、こういった部分に軋轢が生じるらしい。エイリクはこれらの事をソルヴィとノクティアの前で謝罪してくれた。この部分を考慮すると、ほんの少しだけノクティアはエイリクを信頼できるようになった。


 また、信頼できた理由は他にもある。


 ノクティアとしてはこんな状況下で結婚式などやらなくても良かったが、ソルヴィがノクティアのドレスをもう一度作って欲しいと頼んだそう。そして、エイリクが針子の人員を更に増やすように要請し、この人件費においては、エイリク自身が全負担してくれたとソルヴィから聞いた。


 そこまでしなくても良いだろうに……。そう思ったが、エイリクとしても、努力を水の泡にされて意気消沈した針子を見るのも辛かったそうだ。また、ノクティアのドレス姿をソルヴィにも見せたかったそうで……。


 胡散臭い。ずっとそう思っていたが、存外この使用人は純粋に自分を気にかけてくれていた。

 そう知ると、あの時、追いかけて来た彼は、身を案じて剣幕に声を張り上げたのだと考えられた。素直にそう感じたので、ノクティアはこれ以上彼を邪険に扱おうとするのは止めた。


 そうしてドレスは結婚式前日に仕上がった。保管場所も作業場所もソルヴィの部屋に移したので、悪意に傷付けられる事はもうなかった。


 そうして迎えた結婚式当日。

 麓街の教会で二人は結婚式を挙げた。


 屋敷関係者は侯爵夫人のフィルラと義妹のエリセだけで、やはり父の姿はなかった。

 だが、ソルヴィ側は彼の両親と兄が参列していた。

 ソルヴィの父も兄もやはりはガッチリとした体躯で彼とどことなく似ていた。だが、顔立ちはどちらかというと精悍なものだった。母親も背が高い。けれど、その表情の柔らかく、彼のこの柔和な顔立ちは母譲りなのだろうと知った。

 またとても気の良い感じの家族で、ノクティアに温かな言葉をかけてくれた。


 しかし驚かされたのは、エイリクは思いも寄らぬ客人を連れてきた事だった。いつもはボロボロのウールのワンピースを纏っているはずだが……。


「伯母さん……」


 予想外の対面にノクティアは目を瞠る。伯母は小綺麗に身を整えられていて、纏っている服も新品のような光沢があった。


「ノクティア様の母方、唯一の血縁者様ですからね。当主様は来られませんので……私からお願いいたしました」


 エイリクにそう言われてノクティアは複雑な気分になった。

 別れの時の言葉がぐるぐる巡って離れない。お互いに言葉が出てこない。だが、そうこうしている間に開式の合図を言われた。


 ノクティアは伯母とともに教会の入り口に出て、ともに祭壇まで歩く事になった。腕を組むようにと言われて、ノクティアが伯母と腕を組んだ時だった。


「綺麗よノクティア。若い時のあんたのお母さんにそっくりでびっくりした」


 そう言われてノクティアは戸惑った。だが、嫌な気持ちはない。


「頼もしくて優しそうな旦那様でよかった。これから、うんと幸せになりなさい」


 穏やかに伯母が言って間もなく。教会の扉が開く。壇上の上にはソルヴィが立っていた。しかし彼を夫に……こんな式典を開かれれば、嫌でも認識してしまった。それでも伯母に会えたのはなぜだかホッとした。


「伯母さん。来てくれてありがと……」


 壇上に登って離れる時、ただそれだけ告げると伯母は深く頷き、優しく微笑んだ。


 そうして仮初めの誓いの言葉を立て……ベールを捲られる。

 近付く彼の顔に、自然と瞼を伏せてやがて、唇が重なり合う。


 唇に与えられるは生まれて初めてだった。

 たった数秒だが、何とも言えない感覚で拒絶するほど嫌というわけではなかった。穏やかに唇が離れて目を開ける。間近に見るソルヴィは照れているのか、目の縁が赤らんでいた。


 そうして二人は祭壇から参列者の方を振り返る。皆拍手を挙げる温かな視線を向けているが違った。


 侯爵夫人のフィルラは拍手するものの、その瞳は極めて冷ややかだった。彼女はそういった性質なのかもしれないので別にいい。だが、エリセに関しては、腕を組んで顎を聳やかしてノクティアを悪意ある視線で睨み据えていた。


 目があった途端だった。前に座る伯母を指し……彼女は煙たがるような臭がるようなそぶりをして、吐くような真似をする。


 途端にノクティアの顔は強ばった。大切な席だ。なぜ、このような事をするか分からないし許せない。

 この女はやはり、殺した方がいいだろうか。自分ならともかく、伯母にまでこのような事をするなんて……。

 湧き上がる怒りにノクティアが呪詛を吐き出そうとした途端だった。


「ノッティ殺意はむき出すな、神の前だ。戦にでも行くような顔をしている」


 極めて冷静にソルヴィは静かに言う。


 その途端だった。不思議と涙が溢れ出した。

 憎くて苦しくて仕方ない。エリセにどんなに馬鹿にされようが悪意を向けられても涙なんか出ないのに、さすがに今回ばかりは堪える事ができなかった。


 尚そんな今もエリセは、ノクティアを嘲笑するような悪意ある視線を向けていた。ノクティアは堪えきれず、しゃくりあげるような息を上げ嗚咽を溢す。


「正しき裁きは神が下す。ノッティよく我慢した」

 そう言って、彼はノクティアの細い腰をきつく抱き寄せた。


「皆様。参列くださったのに申し訳ございません。妻の体調が優れないようです。我々はこのまま屋敷に戻ります」


 ソルヴィはそう告げてノクティアを抱えると、そのまま逃げるように教会を出て馬車に乗る。その後を追って、すぐに侍女のソフィアが来る。伯母は心配そうな顔を向けていた。エイリクはそんな伯母に一言声をかけると、ノクティアとソルヴィのもとに駆け寄り、待機している御者に説明し、二人とソフィアを乗せた。


 ーーー


 屋敷に着いた後──ドレスを脱ぎ、化粧を落としたノクティアは悔しさに泣き続け、泥のように眠った。

 ソルヴィはずっと、そんなノクティアに寄り添い続けてくれたのだろう。同じベッドの上で彼は寝そべっていた。


 既に陽は暮れていて、時計を見れば夜の八時を過ぎていた。という事は、六時間以上は眠っていたのか。その事にも驚いてしまった。ベッドのベールを捲るとテーブルの上には既に晩餐が用意されてある。


「……ずっといてくれたの?」


 寝起きの眼を擦りつつ聞くと、彼は頷きノクティアの長い髪を梳くように撫でた。


「ああ。俺の奥さんは可愛いなって、純白のドレス姿も可愛かったなって噛みしめていた。少しは落ちついたか?」


 何を言っているんだこいつは。

 ノクティアは目を細めるが、確かに事実上、妻になってしまった。しかし、事実寝て起きたら落ちついた。ノクティアが頷き、礼を言うと彼は「よかった」とやんわりと笑む。

 そうして二人は遅めの晩餐を取り、それぞれが入浴を済ませた。しかし、この時点で変だとノクティアは思った。


 いつもより寄越されたナイトドレスが可愛らしいのだ。下着も新品で……新調したのだろうか。それにソフィアがラベンダーの華やかな香りがする香油も身体に練り込んでくれたもので……。


 いつもとの違いに不思議に思うが、特に気にする事もなくノクティアが部屋に戻ろうとするが、ソフィアは首を振り「今夜は旦那様のお部屋でお過ごしください」と入室を拒んだ。


 ……いったい何だというのだ。


「新婚初夜だからな。世間一般的に閨をともにして子作りが当たり前だ……」


 そんな風に背後の椅子に座したソルヴィ言われて、ノクティアはどっと赤くなる。


 想像できなかった。否、こんな巨体に組み敷かれたら、壊れてしまうか死んでしまうだろか。ノクティアは怯えた表情で「無理」と何度も念を押す。


「合意もなく抱く訳ないだろ。まぁ、ノッティとはいつかそうなれたら良いなとは内心思っちゃいるのは否定しない」


 ソルヴィがしれっというので、ノクティアは首を振った。


「無理だよ……だって、私は誰も愛せない」


 誰かを愛したら惨めになるだけだ。母のように伯母のようになってしまう。ノクティアはそう思って尚も首を振る。


「手厳しいな俺の奥さんは」


 そんな風に言って、ソルヴィはやんわりと微笑むだけだった。



 その日の晩。彼とは同じベッドで過ごしたものの、他愛のない会話をするだけで穏やかな夜が更けていくのであった。

 それでも人のぬくもりが、誰かが側に居てくれるのは、こんなにも安心するのだとノクティアは改めて知った。

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