バス停からしばらく歩き、やがて辿り着いたそこは町外れにある小さな霊園で、整然と並ぶ墓石の中を、綺麗に整備された道が通っていた。墓参りのシーズンではないからか、自分以外に人は見当たらない。
先ほど父親から送られたメールと、過去に父に連れられてここに来た幼かった頃の自分の記憶を頼りに、母が眠る墓石を探す。少し前に会話をしたあの女性が本当に僕の母親であるなら、「眠る」という表現は正しくないのかもしれないけれど。
子供に帰宅を促すアナウンスと童謡が、遠くの防災無線から流れてくる。夕暮れで薄暗い無人の墓地を歩きながらも、不気味さよりもどこか懐かしさにも似たノスタルジックな感情が胸を締め付けた。
やがて、「如月家」と彫られた墓石を、僕は見つける。目の前の光景が、朧げな記憶の中の映像と重なった。
「……母さん、久しぶり。いや、さっき会ったばかり、なのかな……」
声に出してみても、当然返事はない。
ここに来る道中で買っておいた仏花と線香を供え、手を合わせた。線香の煙の匂いが、心の奥に潜んでいた記憶と結びつき、淡い光が深い海の底から浮上するように思い出されてくる。
物心ついた頃にはもう母はいなかった僕にとって、母親というものは概念だけの存在だった。母親と呼ばれるものがどういうものなのかは知っていても、その顔や表情、声や仕草や温もりも、何も知らないのだから。
だから墓参りの時、この墓の前で父の隣にしゃがみ儀礼的に手を合わせても、幼い僕はその行動の意味なんてまったく分かっていなかった。普段は闊達でつらそうな表情なんて見せない父が、この時だけは寂しそうに表情を曇らせ、時には涙を流すこともあったのが印象に残っている。
今なら、父のその表情に隠された意味も分かる。さっきの電話でも明言はしていなかったけど、父は母を、とても大切に想っていたんだ。それこそ、「自分より、世界の全部よりも、大切な人」だったのだろう。
その、世界の全部よりも大切な人を失う、という痛み。
かつての僕が今の僕に宛てて残したというあの手紙が本当なら、僕は既にその痛みを経験しているのだろう。それを一つも思い出せないというのは、やはりこの記憶が、この世界が、改竄されたものだということなのだろうか。
ゆっくりと息を吸い、様々な想いを胸にため、ゆっくりと声に変える。
「場所なんて関係ないのかもしれないけど――もし聞こえているのなら、僕の話を聞いてくれ、MOTHER」
柔らかな風が一つ吹いて、僕の頬を撫でた。
「少し前に、過去の自分が書いたらしい手紙を見つけて、読んだんだよ。そこには、この世界がシミュレーションだとか、改竄された記憶だとか、システムに発生したバグだとか、色々書いてあった。……MOTHERってのが本当に存在してて、この世界全部を運用してるんなら、もしかしたらその手紙のこととか、それを僕が読んだこととかも、知ってるのかな?」
少し待ってみたが、反応はない。一体僕はこんな所で何をしているんだろうか、という気にもなってくる。
「……正直、今の自分には、世界の真相とか言われてもピンとこないし、すぐに全部は信じられないよ。だって僕には、この現実で、これまで普通に、無難に生きてきた記憶しかない。白亜っていう子のことも、まったく思い出せない……。でも――」
真実を知ることはとても苦しいことかもしれない、と、母は言っていた。それでも。
「もし、あの手紙の内容が本当で、今のこの現実が捻じ曲げられたものだとしたら……。もしこの世界が、誰か一人の――気弱で臆病で、それでも誰よりも優しい女の子の犠牲の上で成り立っているものなら……。そしてそれが、僕のためであるなら……。僕に、その子を救うことができるのなら……」
再度、ゆっくりと息を吸う。その間に、自分の中の戸惑いを決意に変えていく。
「僕は、彼女が一人で犠牲になる結末を選びたくない。だから、僕を、白亜に会わせてくれ」
風が止まった。
夏の音が消えた。
時が止まったような静寂の中、唐突に視界の中に一人の人間が現れた。それはアルバムで見た母の姿をしていて、僕の目の前、墓の少し手前で、空中に浮かんでいた。僕より少しだけ高い位置から見下ろす形で、幽霊のようにふわふわと浮遊するのではなく、リアルな立体映像のようにその場に留まっている。
その人は口を開き、僕の名前を呼んだ。
「蒼」
「……やっぱりあなたは、僕の母さんなの?」
少し悲しげな顔で小さく首を振り、母は答える。
「あなたのお母さんでもあるし、そうではないとも言える。私はアドミニストレーターAIである集合思念の中の、ほんの一部。あなたの母親の人格データの再現体と呼ぶのが相応しいかもしれない」
「よく分からないけど、MOTHERに取り込まれたデータってことなんでしょ? 僕の母さんじゃなくて、僕の母親の再現体であるなら、どうして今日現れて、僕に声をかけたの?」
母は目を閉じ、両手を胸に当てた。
「私は人間ではなくて、ただの思考するデータに過ぎないけれど、その思考ロジックはあなたの母親のもの。だから、MOTHERに翻弄されて偽りの人生を与えられたあなたに、自分の意思で結末を選び取ってほしかった」
「じゃあ、白亜に会わせてくれるの?」
「……あの子は今、基幹システムの秘匿領域で隔離されている。あなたをそこに連れていくことは、できる。……でも、本当にいいの?」
「いいって、なにが?」
「あの子は、とても可哀そうだけれど、あの子の中にあるバグを除去することはできない。今のあの子の存在の前提がバグの発生によるものだから。だからバグを隔離から解放すれば、また世界の消滅が進んでいく。永遠のような時の中で絶望を蓄積してきたMOTHERはとても不安定になってるけれど、世界の保守運用という行動原則から、あらゆる手段であなたを止めようとするでしょう。システムの一部でしかない私は、それを防ぐことはできない。それに――」
ゆっくりと目を開き、その瞳が射貫くように僕を見つめる。そして、静かな表情で、続きを言った。
「あの子と共に生きるということは、やがて訪れる全ての並行世界の消滅を選ぶということ。それは、そこで生きる無数の人々の人生や愛情や夢や希望を消し去るということ。その選択を背負うということ。あなたに、その覚悟はある? もしも引き返すのなら、MOTHERのことや世界の真相に関する認識を、あなたの中から全て消してあげる。そうすれば、平穏で幸福な今を継続できるよ」
迷いや恐怖がない、と言えばウソになる。でも。
――でも、どうかお願いだ。お前だけが頼りなんだ。
――僕はもう白亜を一人で苦しめたくない。
あの手紙を書いた僕の切実な気持ちを思うと、全てを忘れて偽りの安寧に浸るなんて、とても選べない。
「……忘れてしまった過去の僕は、手紙にこう書いてたんだ。『世界の全部よりも大切な人』って。そう思える人がいるって、とても幸福なことだと思う。さっき父さんと電話で色々話して、そう感じたよ。それに、選択についても何も考えてない訳じゃなくて……。そのために、確認したいことがあるんだけど、可能なら教えてもらってもいいかな」
僕は母にある質問をした。その回答で確信を得た僕は、ここに来るまでに考えたことを話す。それを聞いた母は驚き、そして優しく微笑みながら、綺麗な涙を流した。
「そこまで考えてたなんて……私が生きていた時は、自分一人じゃ何もできない赤ちゃんだったのに、本当に、立派に育ったんだね、蒼」
「あはは、やっぱりあなたは、システムの一部なんかじゃなくて、僕の母さんじゃないか」
「そうね、本当に……。こんな形でも、こうしてまたあなたに会えて、とっても嬉しいわ」
そう言って母は、僕を抱きしめた。初めて感じた母親の温もりに、思わず目の奥が熱くなった。
名残惜しそうに僕から離れた母は、優しい笑顔を浮かべ、握手を求めるように右手をこちらに差し出す。
「じゃあ、行ってらっしゃい。お母さんはあなたを応援してるよ」
「うん。行ってきます、母さん」
そして、僕は、その手を握った。