母の手に触れた瞬間、視界も意識も黒く閉ざされた。
重力が乱れ、立っているのか横になっているのかも分からない。
手足の感覚がなくなり、自分が今人間の形をしているのかどうかすら判然としない。叫ぼうとしても声が出ない。そもそも口というものがないのかもしれない。
思考の中に砂嵐のようなノイズが混じる。それは徐々に強さを増し、僕という自我を埋め尽くしていく。
自己と世界との境界が曖昧になり、存在が淡く溶けていきそうになる。
覚悟も決意も目的さえもが消え去りそうになった時、母の声が聞こえた。
――蒼、自分を失わないで。目を開けて。
気付くと僕は、荒野のような場所で膝をついていた。地面は硬い土で、乾燥しているのかひび割れている。
顔を上げると、目の前に黒い檻があった。二メートルほどの高さの四角い箱状の檻で、その中で女の子が一人、こちらに背を向ける形で膝を抱えて座っている。檻はあらゆる光を吸収しているような、光沢もない完全な黒だ。凝縮された闇のようにも見える。
そして何より僕を驚かせたのが、その檻を囲むように、無数の大人の女性が立ち並んでいることだ。空はのっぺりとした灰色で、見渡す限り遮るものもない無限の荒野。そこに、数えきれないほどの無表情の女性が、檻の方を向いて等間隔で棒立ちをしている。体型も顔も、髪も服装も全員違うけれど、みな等しくマネキンのように静止しており、呼吸もしていないのか、生命の気配を感じられない。この全てがMOTHERの人格なのだろうか。
異様な光景に冷や汗が流れ、心臓の鼓動が速度を上げていく。耳が痛いくらいの無音の中で、自分の心音だけがうるさく聞こえる。
僕は立ち上がり、檻の中の少女に声をかける。
「白亜……?」
少女は振り返ることもなく、冷たい声で答えた。
「どうして来たの」
「どうしてって……」
「なんでこんな所まで来ちゃったの。私のこと、覚えてもいないくせに」
やはりこの子が白亜なのだろう。深呼吸をして自分を落ち着かせ、僕は声を出す。
「……確かに今の僕は、君のことを知らない」
「じゃあ、放っておいてよ」
「そうはいかない」
「どうして? 知りもしない他人に干渉するのはやめてよ」
「他人じゃない!」
思わず声を張り上げてしまった。白亜がピクンと肩を震わせた。
「聞いてくれ。僕は今日、自分の部屋で、手紙を見つけたんだ。過去の僕が、今の僕に宛てて残していた手紙だった。そこに、この世界がシミュレーションであることとか、MOTHERのこと、君のことも書かれていた」
「え……」
「驚いたし、すぐには信じられなかったよ。でも、何年も前に死んだはずの僕の母親が現れたり、その母の力でこんな所に来たら、信じないわけにはいかない。その手紙を残した僕は、君のことをこう書いてたよ。『世界の全部よりも大切な人』って」
白亜が膝を抱く腕に力を入れたのが分かった。
「そんなに大切に想える人がいるって、羨ましいと思ったんだ。僕も、その感情を知りたいと思った。僕は確かに君のことを忘れてしまってるよ。でもそれは、きっと、僕のために君が選んだことなんだろ? 君が一人で犠牲になることで、僕や世界を守ってくれたんだろう?」
「そ、そんなんじゃ……」
「でも僕は、そんなこと望んでなかった。君を犠牲にして壊れていく世界を守るよりも、君と共にありたいと思っていた」
「で、でも、そうしたら、私のせいで、沢山の人が」
「うん。君の中のバグは除去できないし、君をここから解放すればまた消滅が始まるって、母も言ってた」
「じゃあやっぱり、私はここにいないと」
白亜は自分の腕の中に顔を埋めた。
「……こんな檻の中で、ずっとそうしてるつもりなのか? いつまで? 現実世界で地球が存在する限り、MOTHERは半永久的に稼働し続けるそうだよ。それなら、宇宙の終焉までここにいるの? 何億年かかるか分からないよ」
「じゃあ、どうすればいいの!? 自分のせいで世界がなくなるのを受け入れろって言うの!?」
声を荒げる白亜に、僕は諭すように優しい声で告げる。
「違うよ。MOTHERが運営している並行世界は守るし、白亜が一人で犠牲になることもさせない。そのために僕はここに来たんだ」
「そんな、方法、あるわけが……」
「あるんだよ。だから、ひとまずこんな牢から出よう」
そう言って僕は白亜を閉じ込める檻に歩み寄り、鉄格子の間から右手を彼女に向けて差し出しながら、左手で黒い檻を掴んだ。その瞬間――
左腕に激痛が走る。見ると、左の二の腕の中程から先がなくなっていて、左手だったものはボトリと音を立ててひび割れた地面の上に落ちた。体の内側から叫び声が溢れ出す。
「蒼くん!?」
僕の声に驚き、白亜がこちらを向いた。ずっと泣いていたのか、彼女の目が赤くなっているのが見え、胸が痛んだ。気付くと左腕の激痛はなくなっていて、地面に落ちたはずの手も元通りになり自分の腕に繋がっている。なんなんだこれは。MOTHERが見せる幻覚なのか。
躊躇いや恐怖を飲み込み、僕は再度左手で黒い檻を掴む。すると今度は、皮膚が裂け骨まで届くような深い切り傷が、左手の指先から肩にかけて無数に、次々に刻まれていく。気を失いそうなほどの痛みに絶叫した。
「蒼くん、もうやめて!」
白亜の悲痛な叫びに我に返ると、やはり左手には傷一つない。乱れた呼吸のまま、囚われの少女に呼びかける。
「ここまで来て引き返せるか! いいから僕の手を掴んでくれ! でないと僕は帰らないぞ!」
「で、でも、そしたら……」
深く息を吸って、覚悟を決め、再度左手で力強く檻を掴んだ。檻は闇のイバラのようなものを伸ばし僕の手に絡み付き、ギチギチと締め付けながらいくつもの鋭い棘を食い込ませてくる。あまりの痛みに本能が最大音量で命の危険を訴えるが、奥歯でそれを噛み潰す。
「こんなもの、幻なんだろ! 僕に肉体がないのなら、この痛みもシステムが生み出してる処理結果に過ぎないんだ! こんな幻想で人間の覚悟を止められると思うなよ、MOTHER!」
「やめてよ! 私のこと忘れてるのに、どうしてそんなに必死になるの!? 私を忘れた世界で、幸せに生きていけばよかったのに! それが私の望みだったのに!」
「じゃあなんで檻の中で寂しそうに膝抱えてたんだよ! 望んだ結果ならもっと幸せそうにしていればいいだろ!?」
白亜の表情が歪み、その目から涙が溢れた。感情の昂ぶりに顔を赤くし、泣き叫ぶように言う。
「こんな……、こんなの、本当の望みなわけないじゃないかあ! こんな場所で、世界を維持するために永遠に閉じ込められて、嬉しいわけないだろ! 私だって幸せになりたいよ! 普通の女の子みたいに、好きな人と一緒にいたいよ! 蒼くんとずっと一緒にいたいよ! でもしょうがないじゃん! 私がいると全部の世界が終わっちゃうんだからあ!」
そして白亜は小さな子供のように、声をあげて泣き出した。僕も涙を流しながら、微笑んで答える。
「そうだ! よく言ったぞ! 君はバグなんかじゃなくて、一人の人間だ! もっとワガママになっていいんだよ! 僕は過去の僕から、ハッピーエンドを託されたんだ。世界全部を幸せにすることはできないけど、僕らの小さなハッピーエンドを作ることはできる! だからこの手を取ってくれ!」
白亜は泣きながらも、躊躇いがちに右手を上げ、僕の手に触れようとした。でもその手は離れてしまう。
「触れたら、蒼くんは私のことを思い出しちゃう……」
「過去の僕はそれを望んでる! 君と共にあることを願ってる! 大好きで、大切だって言ってるんだよ! 僕はそんな僕を信じたんだ! だから君も、僕を信じてくれ!」
彼女は一度うつむき、そして顔を上げた。泣き腫らしたその顔は、決意を秘めた表情に変わっていた。
「信じるよ、蒼くん」
僕の右手を、彼女の両手が包む。
頭の中で、情報が爆発した。
僕ではない自分。けれど紛れもない自分。歩んでいない歴史。知らない人生。無数の光景と記憶が濁流のように脳に雪崩れ込んでくる。
知りたくなかった過去が傷が絶望が、心を切り裂き砕いていく。けれどそこには温かな想いもあって、破砕した心を繋ぎ止めていく。
「蒼くん! 蒼くん!」
白亜が僕の名を繰り返し呼ぶ声が聞こえなかったのは、自分がずっと叫んでいたからだと気付いた。
「……ごめん、もう、大丈夫だ」
本当の僕と、偽りの僕。頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う二人分の記憶に眩暈を感じながらも、灰色の空を見上げて声を振り絞った。
「母さん、白亜に触れたぞ! 戻してくれ!」
よくやったね、蒼! そんな声がどこかから響いて、僕の前に笑顔の母が現れた。僕が白亜と接触したら、MOTHERの一部である母の力で、僕を介して白亜を世界に戻す計画だった。でも……
[Exception detected. 基幹システムに致命的な例外が検出されました。]
空に文字が表示されると、母の体は静止し、この場に立つ他の無数の女性と同じように、表情を失って棒立ちになった。