後世の人間から言われている。
清談では三つの理論しか用いていない。
一つに
各地の風習は様々に異なっており、
ある地での悲しむしぐさは
他の地での楽しむしぐさともなる。
だが、悲しむ気持ち、楽しむ気持ちは
共通の感情である。
うわべの表現にとらわれず、
その意を酌むべきである。
一つは
あらゆる生き物は環境によって変化する。
無論人間もその例外ではない。
ならば自然に従う事によって、
人体もまた自然の長久を得、
長寿を得るに至るのである。
一つは
この世における様々な現象の
奥底に潜む真理は、
すべて言語化が可能である、
という観点に立脚する論。
なお当時の主流派は「言不尽意」、
つまり真理を言語化なぞできませんよ、
というものであったそうだ。
この三つだけで清談に臨むわけだが、
その組み合わせの妙によって、
あらゆるテーマを乗り切ってしまうのだ。
舊云:「王丞相過江左、止、道聲無哀、樂養生、言盡意、三理而已。然宛轉、關生無所不入。」
舊て云えらく「王丞相は江左に過れるに、止だ聲無哀樂、養生、言盡意の三理を道うのみ。然れど轉じるに宛て、關ぜるの生ずるに入らざる所無し」と。
(文學21)
おう、そうだな!
(まったくわかってない)