勧進とは、劉琨をはじめとした
この頃劉琨は、
しきりに
もはや風前の灯火。
ここで旅立てば、
今生の別れとなるかもしれない。
母の
と懸命に取りすがる。
しかし温嶠、袖を断ち、旅立った。
東晋入りした温嶠は功績を重ね、
トップ貴族の仲間入りをするのだが、
故郷に置いてきた母の
葬儀を果たせていない、
すなわち「不孝」である、と、
貴族の家門グレードである郷品を
低く抑え込まれていた。
九品官人法により、
本来郷品の低い貴族は顕職につけない。
なので、温嶠の出世には、
毎回詔勅による特例措置、
と言う扱いがついて回るのだった。
溫公初受劉司空使勸進。母崔氏固駐之、嶠絕裾而去。迄於崇貴、鄉品猶不過也。每爵、皆發詔。
溫公は初に劉司空の勸進せしむるを受く。母の崔氏は固く之を駐めるも、嶠は裾を絕ちて去る。崇貴なるに於いてまで、鄉品は猶お過ぎざるなり。爵の每に皆な詔を發す。
(尤悔9)
温嶠
官僚としての印象が強い人物であるが、劉琨に従い石勒と戦ったりもしている。劉琨は敗色濃厚を悟ると温嶠を使者として司馬睿の元へ派遣。劉琨の敗死や西晋の滅亡を受け、司馬睿に仕えることとなった。そして司馬睿を帝位に推戴。しかし東晋は
劉琨
晋国属として
相変わらずの前提知識多すぎ問題。