西域から来た僧侶、
通称、
この奥深い人物について、
皆がどうにか評したいと思っていた。
が、なかなかうまく言い表せる
言葉が見つからない。
ある時、
高坐道人について聞いてみた。
すると周顗は言う。
「卓抜にして明朗、というところかな」
さてそんな高坐道人に、
桓温さまも若い頃に出会ったことがある。
その時のことを思い返し、
桓温さまは仰るのだった。
「その深き思慮は、
どこまでもなみなみと
湛えられている泉のようだったな」
時人欲題目高坐、而未能。桓廷尉以問周侯。周侯曰:「可謂卓朗。」桓公曰:「精神淵箸。」
時の人は高坐を目して題せんと欲すれども能わず。桓廷尉は以て周侯に問う。周侯は曰く「卓朗と謂うべし」と。桓公は曰く「精と神とは淵に箸く」と。
(賞譽48)
漢語話せない高坐道人とのやりとり、間には常に通詞がいたんでしょかね。むしろ通詞すげえな。