反逆の意図あり、と王位より廃した。
その上で、
「ご兄弟であるとて、
この国を揺るがせにした罪は
見過ごせるものではございません。
彼の者らを処断することにより、
国内が安定し、迫りくる
後顧の憂いなく立ち向かえましょう」
この上表を受けて、簡文帝は答える。
「口にすることすら憚られることを、
実行するなど、なおのこと
できるはずがあるまい」
しかし桓温にとって、司馬晞は
途轍もない厄種である。
重ねて司馬晞処刑の上表をした。
その記述は、更に厳しいものとなった。
簡文帝、再び筆を執る。
「晋室を今後も繁栄させたければ、
もうこれ以上は司馬晞について
殺すだの殺さぬだの言ってくれるな。
この晋室の命運が尽きるのであれば、
もはや私は賢者に道を譲るより他ない」
この詔を受け取る桓温、
手は震え、汗がとめどなく流れ落ちる。
遂には上表を撤回、その代わり
司馬晞親子を
つまり南方の山奥に流刑にした。
桓宣武既廢太宰父子,仍上表曰:「應割近情,以存遠計。若除太宰父子,可無後憂。」簡文手答表曰:「所不忍言,況過於言?」宣武又重表,辭轉苦切。簡文更答曰:「若晉室靈長,明公便宜奉行此詔。如大運去矣,請避賢路!」桓公讀詔,手戰流汗,於此乃止。太宰父子,遠徙新安。
桓宣武は既にして太宰父子を廢し、仍りて上表して曰く「應に近情を割き、以て遠計を存すべし。若し太宰父子を除かば、無後の憂い無かるべし」と。簡文は手ずから答表して曰く「言うに忍びざる所、況や言に過ぐるをや」と。宣武は又た重ねて表す。辭は苦切に轉ず。簡文は更に答えて曰く「若し晉室の靈長なれば、明公は便ち宜しく此の詔を奉じて行うべし。如し大運の去るらば、賢路を避くるを請う」と。桓公は詔を讀み、手は戰き汗を流す。此れに於いて乃ち止み、太宰父子は遠く新安に徙さる。
(黜免7)
司馬睎自身はこの後復帰することなく死亡するんですが、その子供たちの家系は司馬紹系、司馬昱系以外で唯一残る元帝子孫の系統であったため東晋末に盛大に王として担がれることになります。そうすると、何が起こるか? 「晋末宋初に吹き荒れた劉裕による司馬氏宗族の盛大な粛清劇」のメインターゲットとなるわけです。生きてても地獄ですね。ハハッ