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第22話 千呪

 逃げる暇も与えられず、オレは一瞬で闇に飲み込まれた。

 幻惑系の魔法でも受けたのかと思ったが、これはそんな生易しいものではなかった。

 まるで溺れるような感覚を受け、呼吸が出来なくなっていた。肺や胃にまで瘴気が入り込み、身体の中から呪い殺されるような錯覚を感じた。いや、実際、身体の中に直接呪いを流し込まれているようだった。逃げようにも瘴気の濁流に身体の自由は奪われ、まるで溺れるような感覚だった。

 例えオレに浄化魔法が使えたとしても、これほどの瘴気を浄化することは出来ないだろう。いや、これは人間ごときが対処できるレベルを超えていた。天災に対し人間が無力なのと同じように、この瘴気の濁流の前には人間などに出来ることなどない。

 しかし、それは普通の人間であるならば、の話だ。

 オレが死を覚悟した瞬間、突然、目の前に眩い光が溢れ出した。同時に、息をすることが出来るよになり、オレは肺に入り込んだ瘴気を吐き出すと、新鮮な酸素を取り込んだ。

 床にうずくまり激しき咳き込んだ後、オレは幼い弟子に救われたことを知った。


「生きてますか、師匠⁉」


「何とかな。すまない、おかげで助かった」


 オレが顔を上げると、レラは照れ笑いを浮かべていた。


「しかし、よくあの瘴気の濁流の中から抜け出せたな?」


「念のために発動していた竜闘気のスキルのおかげです。これは数秒程度ならどんな魔法や呪いにも耐えることが出来るんで」


 それってチートスキルの類じゃないか。ますますもってレラは何者なんだろうか、と思ってしまった。


「あらあら、私の呪い魔法から逃れたの?」


 黒い貴婦人は目を丸めながら驚きの声を洩らしていた。


「小癪ね。次はちゃんと呪いでドロドロに腐り殺して差し上げるわ」


 黒い貴婦人は穏やかな口調と笑顔でオレ達に殺気まみれの言葉を吐きかけて来る。

 最底辺の回復術師のオレにも分かる。目の前の貴婦人がとんでもない怪物であることに。彼女から立ち上る魔力と身に纏った瘴気は抵抗力の無い人間ならこの場にいるだけで一瞬で生気を奪われ絶命してしまうだろう。オレがこの場に立っていられるのは、ただただ最底辺ながらも覚醒者であるからに他ならない。最低限の魔法抵抗力があるからこうして立っていられるのだ。

 ともかく呆けている訳にはいかない。即死していないということはまだこちらに勝ちの目はあるということだ。オレ一人だけだったら最初の一撃でとっくに死んでいた。レラがいなかったら、今頃、先程の瘴気の濁流の中で呪いによって身体を溶かされて死んでいただろう。

 でも、何か妙な違和感を感じるぞ。それが何なのかが分からない。


「レラ、あいつを倒すことは出来るか?」


 結局のところ、レラにおんぶにだっこの自分が情けなくなった。しかし、今のオレには攻撃系スキルが皆無な為、レラに頼るしか上京を打破する術はなかった。


「今の状態なら何とかなるかもです」


「それはどういう意味だ?」


「えっとですね、あのおばさん。石の棺桶の中にいた時に感じた魔力と出て来た時の魔力量が桁違いなんですよ」


「それって、今の方がはるかに凄いってことか?」


「ううん、その逆。出て来た瞬間、てんで大したことないって思っちゃって。それが逆に不気味っていうか」


 レラの言葉を聞き、オレは違和感の正体に気づいた。

 そうなのだ。恐怖の度合いが薄れていたのだ。最初、あの石碑から感じる魔力にオレは死をイメージした。先程の瘴気の海に飲まれた時も絶望を感じたが、最初に抱いた恐怖と比べれば大したことはなかった。

 オレごときがこう言うのもなんだが、姿を現した黒い貴婦人から受ける圧力は半減以下になっているような気がした。それが違和感の正体だ。


「本当の実力を隠しているとか、そんな感じかな?」


「そうかもしれないけれども、そんな罠を張る意味がないと思いますよ、師匠」


 オレの勘も告げている。攻めるなら今しかないと。


「レラ、任せた! とりあえずあいつをぶっ倒してくれ!」


「了解です、師匠!」


 意気揚々と答えると、レラは左手の人差し指にはめられた指輪を前にかざした。指輪は眩い光を発すると、中から光の粒子のようなものが現れ、それはレラの右手の中に入っていった。

 今、レラの奴、魔法の収納箱から何を取り出したんだ?


「そんじゃ、まずは遠方射撃で様子を見ますね!」


 レラがそう呟いた瞬間、突然、姿が見えなくなった。いや、そうじゃない。オレの目に止まらない速さで黒い貴婦人に立ち向かっていったのだ。

 このままレラは黒い貴婦人に殴りかかるのか、と思いきや、レラは一定の距離を保ち、周囲をぐるぐる回っていた。あまりの速さにレラが分身しているように見えた。


「どうか効きますように!」


 レラは両手を前に出すと、親指を弾いた。

 何かが炸裂するような音が響いた。見ると、黒い貴婦人は右手を上げて障壁を張っていた。魔力で張った障壁にひびが入っているのが見えた。


「小癪で小賢しい真似を」


 よく見ると、黒い貴婦人の張った魔力の障壁に何か銀色の小さな物体が食い込んでいるのが見えた。それはゆっくりと床に落ち、乾いた音を響かせた。


「あれってまさか、500円硬貨か?」


 あの銀色の輝きを見間違うはずもない。あれは500円硬貨だ。


「まだまだいっくよ!」


 レラは黒い貴婦人の周囲を走り回りながら、次々と500円硬貨を指で弾いて吹き飛ばした。それはさながら銃弾の雨のように黒い貴婦人に放たれた。ガンガンガン! と鋭い衝撃音が神殿内に響き渡った。


 あれ一枚で極上の格安のり弁が買えるのに! と、オレは近所のスーパーでいつも買うかどうか迷っている税込み480円ののり弁の雄姿を思い浮かべた。思わず涎が口の中に溜まってしまった。後であの500円玉は可能な限り回収しておこう。


 そんなことを考えていると、レラは攻撃を止めオレの傍まで戻って来た。


「レラ、お前、何て勿体ないことを……。一発500円も使いやがって。お金は大事にしなさい!」


「指弾に使うのに500円玉が一番使いやすいからつい。でも師匠、C級ダンジョン程度の雑魚モンスターだったら、今の攻撃一発で大体倒せるんですよ。500円玉一枚で倒せるならお安いと思いませんか?」


 それは確かにお得だ。でも、勿体ない。あれ一枚でのり弁が一個買えるのに……って、今はそんなことを言っている場合じゃないな。


「それで、今ので倒せたのか?」


「いいえ……百発指弾を食らわせてもびくともしませんね。物理攻撃はあまり効果が無いのかもしれません」


 百発だと⁉ となると、今の様子見の攻撃だけで5万円も使ったってのか⁉

 レラの指弾が巻き起こした白煙で、黒い貴婦人の姿は見えなかった。だが、相変わらず禍々しい魔力は健在で、恐らくは大したダメージを与えられてはいないのだろう。


「それじゃ、どうする?」


「大丈夫、奥の手があります。ただ、これが通用しないとなると後がありません。その時は覚悟をお願いしますね」


 レラはそう言って無邪気に笑って見せた。

 言葉とは裏腹に、その表情からは悲壮感の欠片も感じられなかった。まだ年端も行かない子供なのに、恐るべき胆力だと思った。これがレラの強さの秘密なのかもしれない。

 白煙がおさまり視界がクリアになると、絶望的な光景が目に入って来た。

 予想通り、黒い貴婦人は無傷だった。ただ笑顔が少し崩れ、顔が引くついているように見えた。相当苛立っているようだった。


「先程の馳走のお返しに、私のとっておきの呪いを味わわせてあげるわ」


「いいえ、お気になさらず」


 オレは愛想笑いを浮かべながら丁重にお礼の呪いを辞退する。


「遠慮なく召し上がれ。ただの腐敗魔法ですけれども」


「腐敗魔法? それを食らったらどうなりますか?」


「肉はドロドロに溶け、骨の状態になって永遠にこの世をさまよい続けることになるでしょう」


「え⁉ それってもしかして、ゲートダンジョンにたまに出て来るスケルトンになるってことか⁉」


「ええ、そうよ。でも安心して。苦しみは永遠に続くから」


 安心要素が皆無なんですけれども⁉


 黒い貴婦人は眼を血走らせながらギロリとオレ達を睨みつけると、右手を前にかざし魔力を集中し始めた。


「そうはさせないよ!」


 勇ましい声と共に、再びレラがオレの前に躍り出た。


「お嬢ちゃん、貴女に私を倒すことは出来ないわ。大人しくそこの男と共に腐り死になさい」


「ボクはまだ子供なんで、大人しくする必要はないよ、おばさん」


 その時、黒い貴婦人は片目を引くつかせながら、「おばさん、ですって?」と静かに微笑んで見せた。


「ではお嬢ちゃん、貴女から先に始末してあげましょう。とくと味わいなさい」


 黒い貴婦人はそう言うと、右手を前にかざす。たちまち右手に瘴気が集められ、それは大きな球状になった。


「ほら、たんと召し上がれ」


 黒い貴婦人は右手にあった球状の瘴気を前に投げ捨てた。投げ捨てられた球状の瘴気は床に落ちた瞬間、水風船でも割れるかのように弾け、黒い水の様なものを床にまき散らした。そして、まき散らされた黒い水のようなものから、突然、人の首の様なものが浮かび上がった。それはゆっくりと這い上がる様に現れた。そこから現れたのはボロボロのウエディングドレスを身に纏った骸骨。一目でスケルトンの類だとは分かったが、その禍々しさはスケルトン兵士とは次元が違った。穴という穴から瘴気を噴出し、肉の無い口からは何やら呪詛が呟かれていた。


「腐り姫、小癪なお嬢ちゃんを食べておしまい」


 腐り姫と呼ばれた骸骨は、レラに視線を合わせると、ニタァ、とほくそ笑んだような気がした。肉が無く表情など分かるわけもないのだが、確かに嗤ったような気がしたのだ。それと同時に、オレは背筋が凍てついた。

 そして、腐り姫は餓えた野獣の様な機敏さで、レラに襲い掛かった。


「遅いよ!」


 レラは腐り姫の攻撃を横にかわすと、カウンターに右拳を顔に叩きこんだ。

 腐り姫は壁に激突すると、全身がバラバラになり床に崩れ落ちた。


「やった!」


 と、オレが喜びの声を上げたのも束の間、レラの悲鳴が神殿内に木霊する。


「うわあああああ!」


 見ると、レラは右手を押さえてうずくまっていた。


「大丈夫か⁉」


 オレは咄嗟にレラの元に駆け寄る。そして、「見せてみろ!」と強引にレラの右手を掴んだ。


「こ、これは……⁉」


 レラの右手を見て、オレは思わず仰け反りそうになってしまった。それはただの怪我ではない。見たこともない悲惨な状態になっていた。

 右手全体が紫色に腫れ上がり、皮膚に粒状の湿疹が見受けられた。最初、オレはそれが毒によるものだとばかり思っていたのだがそうではない。粒状の湿疹が何やらもぞもぞと動いているように見えたのでよく目を凝らして見た瞬間、オレは思わず叫びかけてしまった。粒状の湿疹だと思っていたのは、粒状の人間の顔だったのだ。一粒一粒がまるで亡者のような呻き声を発していた。


「言い忘れていたけれども、腐り姫には私の呪いの一部を移植しているから触れない方が身の為よ。触れたが最後、全身の肉を亡者によって食い散らかされてしまうわよ」


 黒い貴婦人はそう言うと、右手の指をパチンと鳴らした。

 すると、バラバラに崩れ落ちた腐り姫が元の姿に戻り、すくっと立ち上がったのだ。


「自己紹介が遅れたわね。私の名は千呪。全身に千の呪いを宿し黒き魔人が一柱。もう終わりだなんて言わないわよね? だって見せたい呪いがまだ998個も残っているんですから」


 黒い貴婦人こと千呪は凍てついた笑みを浮かべた。口は大きく裂け、その瞳は闇よりも深い漆黒。まるで人形が微笑んでいるかのような無機質感が際立っていた。


 オレは思い違いをしていたようだ。恐怖と絶望を感じるのはこれからだったと気づいたのだから。

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