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第58話 今、この瞬間に

 この前のロバートの追撃劇であらためて思った。

 人間の人生なんて、いつどうなるかわからないと。


 あの時、私はもしかしたらロバートの手によって命を落としていたかもしれない。

 いや、その前に剣大会で大怪我を負った可能性もある。

 ホテル勤務の仮眠中に起きたらこの世界に来ていた事が、そもそもあり得ない話だし。


 事実は小説より奇なり。


 それは異世界に転生して、生きのびてきた私が誰よりもわかっている事実だ。


 そして、今日は運良く昨日の続きだったとしても、明日が今日の続きになるとは限らない。


 ホテル時代に勉強していた古代中国の思想家、荘子そうじの言葉『おくらず、むかえず、おうじて、おさめず』の意味が、最近やっと腑に落ちてきた気がする。


 過ぎた過去に囚われず、まだ起ってもいない未来に余計な心配をせず、目の前の事象に真摯に取り組み、そしてイライラ、クヨクヨした気持ちを自身の内に留め置かない。


 言葉が示す表面的な意味が理解できても、その本質的な部分を己のものとするには、知識だけでなくある程度の経験が必要なのだろう。


 なぜこうなったのかと過去の出来事で悩んでも時間は戻せないし、将来の事をいくら心配して考えたところで、たいていの事はその時になってみないとわからない。


 過去は『今』の歴史であり、未来は『今』をどう過ごすかによってかわってくる。

 勿論、予想外、想定外の事もあるけれど。私達の前には、無数の未来への選択肢が広がっているのだ。


 公爵の娘としてこの世界で生きている私だけど、この身分だって転落する可能性だってあるし、変な陰謀に巻き込まれて殺されるかもしれないし、またいつ別の世界にとばされるかもわからない。


 でも、今は。


 私はチカでありジェシカとして、ここにいる。

 眼の前には、大好きなライガがいる。


 この瞬間瞬間が、とてつもなく大切で貴重な奇跡なのだと、心の底から感じる。


 私は、ライガが好きだ。


 無骨で、余計な事を言わない、でも肝心な時には饒舌になり、必要な言葉をくれる彼が。


 いつも側にいて、師となり、召使となり、護衛剣士となり、私を支えてくれる彼が。


 努力家で、負けず嫌いで、でも実は人情味に溢れた、優しい彼が。


 低いセクシーな声と、傷だらけの分厚い胸板と、ゴツくて温かい掌と、容赦ない残酷な強さを持った彼が。


 一緒にいるだけじゃ物足りない。

 もっと近づきたい。体温を感じたい。

 彼をめちゃくちゃにして、同時に私もめちゃくちゃにされたい。


 心も体も魂レベルでも。お互いに与え合い奪い合い、一つに溶け合いたい強い欲求。


 そんな欲望を感じる相手に出会えた私は、なんて幸運なんだろう。そう感謝する。


 明日はどうなるかわからない。

 だから、こちらから彼に近づいてみようと決意した。私の望む未来へと進む為に。


 私の想いを受け入れてもらえるかは、勿論わからないけど。

 でも、言ってみないと、何も始まらない。

 待っているだけでは、手に入る可能性は低い。


(まあ、彼に拒否されたら、悲しいし気まずいけど。でも彼が少なくとも、仕える主として私を大事にしてくれてるのは確かだし。告白して断られたとしても、ライガがすぐいなくなる事はない。そう思うと安心よね)


 色々な柵。公爵令嬢として、両親や兄や公爵家に迷惑をかけないように。ヨーロピアン国の為になる人材となるように。

 気にしていないようで、この世界のルールに縛られていた私は、存外多くのことを我慢してきたようだ。


 でも、それも限界。


 言いたい。

 ライガに私の気持ちを伝えたい。


 お嬢様とか、国とか、北の一族とか、チカとかジェシカとか関係なく、この私という人間の素直な気持ちを、彼に伝えたい。


「……ライガ。私、前から言いたかった事があって……。今なら、身分とかの問題にはならないし、迷惑もかけないと思う。あ、でも、いやなら、無理強いするつもりはないんだけど……。えっと、ここで言うのも何だけど、今どうしても言いたくなってというか……」


 私は焦って早口になりながら、ライガを正面から見つめる。

 彼は、私が何を言いたいのか全くわからないようで、不安と不思議が混ざりあったような表情をしている。


 皆の前で告白とかマンガかよ、恥ずかしいでしょ、という声が頭の一部で浮かんだが、今すぐ言いたい欲求には勝てなかった。


 私は、覚悟を決めた。


「ライガ、大好きです! 本気で好きです! だから一族を抜けて、私と結婚を前提に付き合ってもらえませんか?」


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