それは、昔本当にあったことのようにも思えたし、そうではないような気もした。
幼いルルイエの傍らを、エーリカの聖女だった伯母が歩いていた。
二人がいるのは、街道筋の一画とも見える。整備されているところを見れば、西方世界なのだろうか。前方に遮るものはなく、道はただゆるやかに蛇行しながら続いていた。
「おばさま、どこへ行くのですか?」
尋ねるルルイエに、伯母は小さく笑う。
「ちょっと、寄り道をしようと思うの。でも、どこへ行くのかはないしょよ」
穏やかで優しい笑みに、ルルイエはなんだか不思議な気持ちになった。
伯母が、こんな顔で自分に話しかけてくれたのは、母と二人でエーリカに到着したばかりのころだけだったように思うからだ。そもそも「おばさま」と呼ぶことも、彼女が次の聖女と決まったあとは、許してはもらえなかった。
むろん、今ではそれが周囲を気にしてのことだったとは理解できる。
異国から、それも東方世界から来た女が聖女となり、次代の聖女はその姪だとなれば、痛くもない腹を探られかねない。エーリカでは聖女は王妃でもあったから、能力もないのに血縁者を次の王妃にしようとしている、と勘繰る者もいなくはなかっただろう。
だから伯母は殊更、ルルイエを姪として扱う素振りを外に見せたくなかったのだろう。
「ないしょなの?」
問い返すルルイエに、伯母は再度微笑んでうなずいた。
「ええ、ないしょ。でも、もう少しだから、がんばって歩いてちょうだいね」
言われて幼いルルイエは元気良くうなずく。
そうして二人は、街道をただ道なりに歩いて行った。
伯母と幼い自分の背が小さくなっていくのを見たところで、ルルイエは目覚めた。
(夢だったのね……)
ベッドの上に起き上がり、彼女は不思議な気分で胸に呟いた。
あたりは明るくなっていたので、彼女はベッドから降りて窓辺に寄り、カーテンを開けた。
窓の外には、真っ青な空が広がっていた。ただ、吐く息は白く、空気は冷たかった。
(伯母様と子供のころのわたくしの夢……。伯母様が夢に出ていらっしゃるなんて、めったにないことだわ)
身支度を整えながら、ぼんやりと目覚める前のことを考える。
エーリカから東方世界へと来る途中では、伯母や母や、それ以外の国元で親しかった者たちを夢に見ることもあった。けれども、東方世界にたどり着き、イーリスで父の消息を知ったり、セビーリアへと向かう旅に出たりとする間に、次第に彼らのことは意識から遠のいていったのだ。
今ではもう、エーリカにいたころのことを思い出すことの方が、稀になっている。
(あれから……もう十八年にもなるのね)
ふと国を出てからの年数を数えてみて、ルルイエは少しばかり愕然とした。
そう、今は西暦1042年2月。
ルルイエはもう成人をいくつか過ぎた少女ではなく、成熟した大人の女性だった。
長い髪は東方風に後ろで一つに編んで、頭に巻き付けるようにしてまとめている。口元には小さな銀輪のピアスが嵌っているが、それは彼女が
東方世界の魔法使いたちは、少なくとも魔法を良しとする国では、等級によってその能力が分けられていた。そして、この世界の鉱物は魔力を含んでいることを理由に、等級には鉱物の名称が付けられている。
そんな中でも、いわゆる「大魔道師」の尊称で呼ばれるのが、銀級魔法使いだ。
東方世界では銀は、世界中の鉱物の中で最も魔力の含有量が多いことで知られている。
そしてルルイエは、今では聖女と呼ばれるかわりに、大魔道師の尊称で呼ばれていた。
十七年前、アイラ国をジャクリーヌと共に旅立った彼女は、一年余りの旅を経てセビーリアへと到着した。そこの魔法学校では、アイラ王の紹介状のおかげもあって無事に入学を果たし、四年間を特待生として過ごした。
ちなみに、魔法学校は基本は六年間で、学費を払って学ぶ。人によっては、貴族や商人の子女らが学ぶような、読み書き計算を含む一般教養を魔法と共に学ぶ者もおり、毎年行われる進級試験や卒業試験になかなか合格できず、六年以上在籍する者もいなくはなかった。
一方では進級試験の際に好成績をおさめ、六年のところをもっと少ない年数で学び、卒業して行く者もいる。
ルルイエは後者だった。
卒業後は、三年ほどを魔法学校の教師として過ごし、そのあとは旅をしたり人からの頼み事を受けたりと、気ままな日々を過ごして来た。
なんとなく追憶にひたっている彼女の思考を、軽いノックの音が遮った。
「ルルイエ様、起きておいでですか? 朝食の準備が整っておりますよ」
「ありがとう、今行きます」
ドアの外からかけられた声に答えて、彼女は踵を返す。
部屋を出て食堂に向かうと、そこにはすでに同居人たちがそろっていた。
テーブルの上に料理の皿を並べ終わって、エプロンをはずしたところなのが、先程ルルイエを呼びに来た声の主のフェリアだ。今年で二十歳になる黄色味を帯びた肌と黒い髪、黒い目をした生粋の東方民族の娘だった。ルルイエの教師時代の最後の教え子で、今は弟子を名乗っている。
そしてもう一人、すでに席に着いてルルイエが来るのを待っている少女がいた。
栗色の髪と明るい茶色の目をした、十三歳のジャネッタだ。ジャクリーヌの娘である。
アイラ国からルルイエと共にセビーリアへとやって来たジャクリーヌは、ルルイエの魔法学校入学を機に、とある貴族の護衛騎士として勤めることになった。
というのも、魔法学校では従者や侍女など身の回りの世話をする者を同行するのは問題ないが、護衛を同行するのは許可されていなかったからだ。当初はでは身の回りの世話をしよう、とジャクリーヌが言い張ったものの、ルルイエはそれを許さなかった。しかもルルイエは魔法学校の寮で生活することにしたため、ジャクリーヌは一緒に住むこともできなくなってしまったのだ。
そんなわけで、賃貸のアパートメントで暮らすことになった彼女は、金を稼ぐ必要もあり、暇になった時間を潰すためにも……と貴族の護衛騎士をすることになったのだった。
そしてその職場で出会った男と、翌年には結婚することになった。
その相手との間にジャクリーヌが生んだのが、ジャネッタというわけだ。
ジャネッタは、幼いころから両親に武術を一通り仕込まれている。当人の希望もあって、一年前からルルイエの護衛騎士見習いをしている、というわけだった。
三人でテーブルを囲み、朝食を取り始める。
「わたしが呼びに行った時、もう身支度を終えておいでだったのですね」
呼ばれてすぐに来たからだろうか。フェリアが尋ねた。
「ええ。……珍しい人の夢を見て、早く目覚めてしまったのです」
「珍しい人とは、誰ですか?」
うなずいて言うルルイエに、ジャネッタが問う。
「伯母様……わたくしの母の姉で、西方世界でのわたくしの師だった方です」
答えてルルイエは、お茶を一口飲むと、今朝見た夢を二人に話した。
話を聞いて、二人は顔を見合わせる。
「それは、実際にあったことなのですか?」
問うたのはジャネッタだ。
「それが、はっきりしないのです」
言って、ルルイエは小さく笑う。
「なにしろ、随分と昔のことですからね」
そんな彼女を見やって、フェリアが訊いた。
「西方世界に戻りたいとは、思わないのですか?」
「思いませんね」
少し考え、ルルイエははっきりと言う。
「エーリカにいたのは十年ほどですし、その間もほとんどは城の中にいて、ただ決まった人たちとだけ過ごして、祈りを捧げる毎日でしたから。今ではもう、仕えてくれていた人たちの顔も名前も、ほとんど覚えていませんもの」
それを聞いて、フェリアはちょっと嬉しそうに微笑んだ。そして更に問いを口にする。
「ルルイエ様を追い出したあと、その西方の国――エーリカはどうなったのですか?」
「王妃となった宰相の娘が聖女になって、でも子供を生んですぐに死んでしまって、その生んだ子供が聖女となったけれど、赤ん坊は祈れないからと代理の者を置いたところが、その者が実は王妃を呪い殺したとなって、断罪される前にその者は逃げ出して――」
つけつけと答えたのは、ジャネッタの方だった。
「結局、祈れない聖女を頂いたままだと、昔母から聞きました」
「ジャクリーヌは、そんなことまであなたに話しているのですね」
ルルイエは、小さく吐息をついて、それへ返す。
ジャクリーヌに、エーリカの事情を教えたのは、彼女の二番目の兄だった。
彼女には兄が三人いて、当時一番目と二番目の兄はすでに結婚していて子供もいた。
その二番目の兄がジャクリーヌの元を訪ねて来たのは、ルルイエが魔法学校の二年に進級した年のことだった。
彼の話はおおむね、先程ジャネッタが言ったとおりだったが、部分的には違うところもあった。
まず、赤ん坊の聖女の代理となった娘ミリエラは、死んだ王妃の元女官で、実は彼女こそが新しい聖女だったらしい。だが、王や宰相にそれが知れたら命を狙われるかもしれないと、ジャクリーヌの父である左大臣が画策して、代理ということになった。
けれどもそれはすぐに宰相に知られてしまい、王妃を呪い殺したという噂を流され、ミリエラは左大臣の妻の故郷であるマリーニアへと逃れたのだという。
左大臣夫妻もそのあとを追うようにマリーニアへと逃れ、一番目の兄と二番目の兄の家族はエーリカに残っているという話だった。
ちなみにジャクリーヌの兄は、妹たちを探して当初イーリスへ行ったらしい。そこからさまざまに情報収集をして、結局アイラからセビーリアへ向かったらしいと知って、あとを追うようにやって来たとのことだった。
当時ルルイエも、ジャクリーヌの兄に会って話を聞き、更にエーリカへジャクリーヌともども戻ってはくれないだろうかと懇願されたものだ。
だが、エーリカの現状を聞けば、心は痛むものの、ルルイエは戻る気には到底なれなかった。
王妃を亡くして傷心の王は、自室に閉じこもったままだというし、戻ったところで彼の心を動かせるとは思えない。それ以前に、今度こそ命の危険にさらされる可能性もあった。
あれから長い年月が過ぎて、当時赤ん坊だった王女も、今では成人済みの乙女に成長しているだろう。ただ、教える者のいない状態では、はたして正しく聖女の役目を果たせているのだろうか。
ふとそんなことを思い、ルルイエは小さくかぶりをふる。
(それはもう、わたくしが心配するようなことではないわね……)
「どうかされましたか?」
思わず苦笑した彼女に、フェリアが声をかけた。
「なんでもありません。ただ、赤ん坊だった聖女も大きくなっただろうなと思っただけです」
かぶりをふって返すルルイエに、ジャネッタが言う。
「伯父様からのお手紙では、十五歳の成人の儀式のおりに、正式に聖女として顔見世したそうですよ」
「そうなのですね」
ルルイエはうなずき、ふと今朝方の夢を思い出した。
夢の中で伯母は、自分をどこかへ連れて行こうとしていた。
それが実際にあったことなのかどうかは、いまだに思い出せなかった。けれども。
(あれは、伯母様が何かをわたくしに伝えようとしていたのではないかしら)
ふいに、そんな思いが浮かぶ。
伯母について思い出す時、当然のようにエーリカと聖女のことも思い出される。フェリアとジャネッタがそれを話題にしたのも、伯母が聖女だったことからの連想だろう。
(また、旅に出るのも悪くはないわね)
ふと彼女は思った。そして、その思いを口にする。
「旅に出るのも、悪くはありませんね。そう……たとえば、西方世界へ」
彼女の言葉に、フェリアとジャネッタが思わず顔を見合わせた。
一月後。
ルルイエはセビーリアのアパートメントを解約し、旅に出た。
むろん、フェリアとジャネッタの二人も一緒だ。
ジャクリーヌも同行したがったけれど、ジャネッタの下に二人いる子供たちを置いては行けず、結局彼女はセビーリアに残ることとなった。
目的地は、西方世界の国エーリカだ。
その道筋は、かつて彼女がジャクリーヌと共にたどったものとは逆のものとなるはずだった。