宰相と話し合いの結果、ルルイエはフェリアとジャネッタの二人と共に、聖女宮のはずれに部屋をもらうことになった。
今では聖女宮の一画となっているそこは、かつては独立した小宮で、次に聖女となる者が住むための場所だった。つまりは、昔ルルイエが住んでいた場所なのだった。
正式な聖女となっても王の婚約者のままで、婚姻することがなかったルルイエは、追放されるまでずっとこの小宮の一室でくらしていた。
彼女が追放されたあと、ここは使われることがなくなり、閉鎖されていたのだ。
王妃が亡くなり、王妃宮が聖女宮と名を改められて、幼い王女とそれを守る女官たちの住まいとなったあと、小宮は聖女宮との間に屋根付きの回廊が造られてその一部とされた。そしてしばしの間、王女のための医師や看護人、増員された女官らの住居となっていたのだった。だが、王女の成長と共にそこに住む者は減り、今では再び閉ざされた場所となっていた。
もっとも、実際に彼女たちがそこに移ったのは、王との会見から一週間が過ぎたあとのことではあったけれど。というのも、閉ざされていた小宮を再び使えるように整えるためには、多少の時間が必要だったからだ。
ルルイエたちの方も、エーリカに入る手伝いをしてくれた大商人チャントに別れを言いたくもあったし、それまで滞在していた屋敷に残して来た荷物などもある。なので、一度は城からそちらに戻る必要があったのだ。
そんなわけで一週間後、改めて城に出向いた三人は、まずは住まいとなる部屋へと案内された。
「ルルイエ様は、以前にここにお住まいだったのでしょう? 懐かしいのではありませんか?」
部屋におちつき、フェリアにそう問われたものの、ルルイエはかぶりをふった。
「そうでもありませんね。以前の面影が、ほとんどありませんから」
言って、彼女は小さく吐息をつく。
それは本当にそのとおりで、廊下の作りや扉の模様などには見覚えがあるものの、内装などはすっかり変わってしまっていて、初めて来た場所のようだったのだ。更に、昔彼女がよく散策した中庭は、聖女宮との間の回廊を造るためにつぶされてしまっていて、影も形もなくなっていた。
ちなみにルルイエが与えられた部屋は、建物の中央という場所からして、昔彼女が使っていた部屋ではないかと思われた。
真ん中に広々とした居間があり、それを囲むように寝室や浴室、小さな厨房、女官の控室がある。
フェリアとジャネッタの部屋は、その左右にある小さな部屋で、おそらくもともとは護衛騎士の控室か仮眠部屋だったのではないかと思われた。
ルルイエには他に二人ほど、聖女宮の女官が専任としてつけられた。
それについては、彼女が身の回りのことは自分でできると断ったのだが、城内のことなどを教えられる者がついた方が、よけいな軋轢を生まなくてよいのではないかと宰相に言われ、受け入れることにしたのだった。
ともあれ。そうして部屋におちついた翌日。
ルルイエは、宰相に連れられて、聖女宮の女官長と王女の乳母メノウに引き合わされたのだった。
「この者が、先日話した王女の教育係となるルルイエだ。すでに王女は正式に聖女となってはいるが、そのための教育が足りているとは言いがたい。そうしたことから、王がこの者に王女の教育を命じたのだ。そなたらも、それをしっかり念頭に置くように」
「もちろん、承知しております」
宰相の言葉に、満面の笑顔でうなずいたのは、メノウの方だった。彼女はルルイエをふり返ると、更に笑みを深くして言う。
「かつて聖女だったルルイエ様が、聖女様にご教授くださるとは、これほど素晴らしいことはございませんわ。わたくしたち女官一同、歓迎いたします」
「そう言っていただけると、うれしいです。よろしくお願いしますね」
ルルイエも、微笑んで返すと頭を下げた。
宰相はそれを見届け、女官長とメノウにあとは頼むと告げると、立ち去っていく。
それを見送り、メノウがルルイエをふり返った。
「では、さっそく聖女様にお引き会わせしましょうね。こちらへ」
「はい」
言われてルルイエは、歩き出した彼女に続く。
だが女官長は共に来る様子はなく、二人に向かって頭を下げて見送っている。
それに気づいてルルイエは、メノウに問うた。
「女官長はご一緒されないのですか?」
「ええ。聖女様のことは、わたくしに一任されておりますから」
メノウは笑ってうなずく。
その彼女を見やって、ルルイエは以前の記憶を探った。
以前に隠れ里で元女官のアゼリアから話を聞いた時、メノウの話題も出てはいた。だが、その時にも思ったことだが、ルルイエはこのメノウという女官に覚えがない。
いや、名前を聞けばなんとなく、そんな女官がいたような気もするのだ。アゼリアの話に出た時にも、彼女が確信を持って話していたので、自分がちゃんと覚えていないだけかとも思ったものだった。
なにより、聖女だったころからけっこうな年月が過ぎている。しかも自分が追放される前に結婚して女官を辞めた人間なら、顔も覚えていなくてもしかたがない気もしていた。
だが今、こうして当人を目の前にしても、ルルイエはメノウに覚えがなかった。
「宰相様からご紹介があった時、あなたはわたくしが元聖女と知っているそぶりでしたけれど、今までにお会いしたことがあったかしら」
ルルイエは、素知らぬふりで、そう問うてみる。
すると彼女は、小さく目を見張った。そしてすぐに、曖昧な笑みを浮かべて口を開く。
「ルルイエ様は、わたくしを覚えておいでにならないのですね。……わたくしは昔、ルルイエ様にお仕えしていたことがあるのですけれども」
「まあ……!」
ルルイエは、初めて聞いたそぶりで、声を上げた。
「それは、ごめんなさい。わたくし、もうこちらにいた時のことは、あまり覚えていなくて……」
「いえ。わたくしも、途中で婚姻のためにお暇いたしましたから、しかたありませんわ」
ルルイエの言葉に、メノウもかぶりをふる。
そうこうするうちに、二人は王女の居間へと到着した。
中に入ると王女は、女官たちを相手に何事か歓談している最中だった。だが、メノウの姿を見るなり立ち上がり、駆け寄って来る。
「メノウ。わたくしを一人にして、何をしていたの?」
「聖女様。今日は宰相様にお会いすると言ってあったでしょう? さ、しゃんとして、ご挨拶なさいませ。こちらは今日から聖女様に聖女のことを教えてくださる、先生ですよ」
子供をなだめる母のようなそぶりで言うと、メノウはルルイエの方を示した。
途端、王女の顔から笑みが消える。固い表情で、ルルイエをふり返った。
「お初にお目にかかります、王女様。今日より聖女について王女様にご教授いたします、ルルイエと申します。よろしくお願いいたします」
ルルイエはそれへ、スカートをつまんで丁寧に宮廷式の挨拶をする。
だが王女は、固い表情のまま顎をそらすと言った。
「わたくしはすでに、正式な聖女です。誰かに教えを乞う必要など、ございませんわ」
「たしかに王女様は、国が正式に決めた聖女ですが……聖女としての心得や在り方については、誰にも教えられていないご様子です。そのために、あなた様という聖女がいるにも関わらず、エーリカはまるで聖女がいない国のごとくに荒れ果てております」
ルルイエは背筋を伸ばし、真っ直ぐに王女を見やって告げる。
「わたくしは、元聖女としてそれを放置しておくことはできません。……とはいえ、あなた様が何も知らないのは無理もないことです。あなた様が物心ついたころには、すでにこの国にはあなた様に聖女とは何者なのかを教えてくれる者は、おりませんでしたから。ですが、今からでも遅くはございません。幸いにも、あなた様は聖女の力はお持ちです。あとは、正しい使い方を覚えるだけで……それは、そう難しいことではないと、わたくしは思います」
「正しい使い方、ですって?」
ルルイエは、誠心誠意をもって話したが、その言葉はむしろ逆に王女の逆鱗に触れたようだった。
彼女の面は険しくゆがみ、怒りに燃える目がルルイエを睨み据える。
「わたくしのやっていることが、間違っていると言いたいの? それとも、わたくしに聖女の力を使うすべを教えたメノウが間違っていたと言いたいの?」
「それは……」
ルルイエが何か言いかけた時だ。
「聖女様、おちついてくださいませ」
メノウが明るい声音で、割って入った。
「聖女様は、立派に聖女としての仕事をまっとうしておいでです。ただ、正式な知識を持った者から指導を受けられたことがないのも、事実ですわ。わたくしがお教えしたことも、あくまで見よう見まねの知識にすぎませんし。ましてや、ルルイエ殿は王様が聖女様のためにお迎えしてくださったお方です。きっと、学ぶべきことは多いと思いますわ」
「メノウ……」
王女はメノウをふくれっ面でふり返った。だが、ニコリと笑い返されて、しかたなさげに溜息をつく。そして、ルルイエを改めて見やった。
「わかったわよ。メノウがこう言うから、あなたの講義を聞くわ」
「ありがとう存じます、王女様」
ルルイエは言って、再度スカートの裾をつまんで頭を垂れた。
+ + +
ふいにポカリと覚醒し、王女は目を開けた。
すでに夜明けが近いのか、部屋の中はほんのりと明るい。
女や子供なら三人は横になれそうな広々とした天蓋付きの寝台に、王女は一人で横たわっていた。
寝台の周辺には、乱雑に放り投げられたぬいぐるみや髪飾り、リボンなどが散らばっている。
彼女が眠る前、怒りに任せて手当たり次第に放り投げたものたちだ。
かたずけようとした女官にも怒りをぶつけたために、彼女たちはしかたなくそれらを放置したまま寝室を出て行った。なので室内は、彼女が怒り疲れて眠った時のままになっている。
きっと誰もが眠りをむさぼっているせいだろう。あたりは静寂に包まれていた。
王女は寝台に横たわったまま、天蓋の天井を見据えている。
その脳裏に昼間――正確には昨日の午前中に紹介されたルルイエのことが浮かんでいた。
王女から見てルルイエは、ずいぶんと不遜な相手だった。
王女で聖女でもある自分を、敬う素振りも見せないのだ。
そもそも、自分に命令してもいいのは、生まれてから一度も会ったことのない父王と、祖父である宰相だけだと王女は思っていた。
実際これまで彼女が会ったことのある者たちは全て、彼女に対して恭しく接したものだ。
それは祖母である宰相夫人やおじおばたちですら、同様だった。
なのにルルイエは、言葉つきこそ丁寧だが、王女を明らかに「目下の者」と見ているふうがあった。
また、ルルイエの言う「聖女の役目」は、王女にはずいぶんと理不尽なものに思えた。
ルルイエは、「聖女の力を自分自身のために使ってはならない」と言うのだ。
自分の望みをかなえることはおろか、大切な者を助けるために使うことさえ許されないのだと。
「聖女の祈りの力は、ただ国を潤し豊かにするためだけに使うものなのです。ですから、たとえ肉親や大切な人が命の危険にさらされていようとも、その人を助けるために祈ってはなりません」
ルルイエはそう言った。
聖女の祈りの力はただ、国のためだけにあるものなのだと。
だが、そんな考えを王女が受け入れられるはずもない。
聖女の力は自分の才能の一つだ――と王女は思っていた。
騎士が敵を倒すために剣をふるうように、あるいは王が自らの意志を貫くために権力をふるうように、自分は聖女の力をふるうのだと、彼女はそう考えていた。また、メノウからもそう教えられて育ったのだ。なのに。
(あんな女の言うことなど、聞けるわけがない)
王女はきつく唇を噛みしめ、天井を睨み据えて胸に呟く。
その時、低いノックの音が響いて、寝室の扉が開いた。
入って来たのは、メノウだ。
「メノウ……」
寝台に身を起こした王女は、小さく目を見張る。
メノウは寝台の方へ、足音も立てずに歩み寄ると、身を屈めてそっと王女の頬を撫でた。
「聖女様のお声が聞こえた気がして、こうして参ってしまいました。よろしいですか?」
低い囁きに、王女は小さくうなずく。
メノウは彼女に薄く微笑みかけると、ついと寝台に入って来た。
「手足が、冷えておいでですね」
メノウはまた囁くように言って、王女に身を寄せる。
隣の温度に王女は初めて、自分の手足が冷たいことに気づいた。
もう7月で、気温はそれなりに高い。が、王女は子供のころから夏でも手足が冷たく、幼いころはよくメノウがこうして隣で、手足を温めてくれたものだった。
そのことを思い出して、王女は楽しくなった。昼間の腹立たしい出来事が、少し薄らいだ気がする。
「夜が明けるまで、こうしていてちょうだい。でなければ、わたくし眠れそうにないわ」
「はい、聖女様。お望みのままに」
メノウはうなずき、両手で王女の冷たい手を包むと、静かに身を寄せて来た。
その温かさに、王女は幼いころのように安堵して目を閉じる。
やがて規則正しいものに変わった王女の寝息は、暁の光が部屋に射し込んでもなお、途切れることはないのだった。