あれから、どれほどの時間二人は戦い続けていただろうか。
ルルイエとメノウ――いや、「東方の
とはいえ。
(強い……。いったい、どれだけ魔力量があるの?)
必死に足を踏ん張り、相手と対峙しながらルルイエは胸に呟く。
すでに彼女は立っているのもやっとで、少しでも気を抜けば足元が揺れる。視界も悪く、必死に目をすがめても周囲の物の輪郭線はぼやけて、はっきりと見えないありさまだ。
場所は二人が戦う直前まで食事していた、メノウの部屋の食堂だったが、すでにその面影はない。
テーブルはどちらかが放った魔法の炎で焼けて、崩れ落ちていたし、椅子はもちろん、テーブルに乗っていた料理や食器類も焼けたり溶けたり割れたりして、もはや元がなんだったのかすらわからなかった。
食堂には、メノウによって結界が張られていた。
それはむろん、不要に女官らが立ち入るのを防ぐためだったし、確実にルルイエを仕留めるためでもあっただろう。
対してルルイエは、逃げるつもりは毛頭なかったものの、相手の魔力の多さには舌を巻かずにはいられなかった。
そもそも、東方世界の魔法使いの等級では、
「あなたはいったい何者ですか? どうして、王女様を操ろうとするのです?」
ルルイエは、メノウを睨み据えながら尋ねた。
体力を回復させるための時間稼ぎもあったが、純粋に訊いてみたいことでもあった。
「今更、わたくしの素性など、どうでもよろしいでしょう?」
対してメノウは、嘲るように笑って返す。
「それに、別に聖女様を操って何かするつもりもありませんわ。ただわたくしは、自分が安全にいられる場所を、整えているだけです」
「安全にいられる場所?」
思わず問い返すルルイエに、メノウはうなずいて続けた。
「ええ。わたくしは、聖女様の乳母となるまで、不安定な身の上でした。誰もがわたくしを、ハエのように簡単に叩き潰せる存在だとしか、思っていなかったでしょうし、実際に気分次第ではそうするつもりだったでしょう。ですから、そのような危険のない存在になったのです」
(それはつまり、元はかなり身分の低い者だった……ということ?)
ルルイエは、彼女の言葉の意味を頭の隅で、分析する。だが、すぐにそんな暇はなくなった。
「よそ見していては、危険ですわよ!」
叫びと共に、メノウの放った炎の球がルルイエめがけて飛んで来たのだ。
そして再び、戦いは始まった。
それから、ルルイエが膝を崩してその場に倒れるまで、さほど時間はかからなかった。
(そんな……今、わたくしが倒れてしまったら、この国は……)
なんとか身を起こそうともがきながら、彼女は胸の中で呻く。
だがその一方で。
『この国は、どうなるっていうの? 別にいいじゃないの。ここはあなたの故郷ではないのだし。それどころか、言いがかりをつけて、あなたを追い出した国よ』
頭の片隅で、そう囁く声がした。
(そうだけど……でもここは、祖国を逃げ出したわたくしと母を温かく受け入れてくれた国よ……)
『あら。あなたたち母子を受け入れたのは、当時聖女だった伯母でしょ。この国ではないわ』
抗弁する彼女に、声は嘲笑するように返す。
(いえ、この国よ。……だって、当時の王様が許可してくれなければ、受け入れてはもらえなかったわ)
『なら、受け入れてくれたのは、以前の王様ね。……どちらにしても、あなた、この国でそんなに大事にされていた? 思い返してごらんなさいな。母が病気になった時も、死んだ時も、傍に行くことも許されなかったじゃないの。聖女になってからだって、王様もあなたも成人したのに、そして王様には側室だっていたのに、あなたは婚約者のままずっと放っておかれたじゃないの』
(それは……)
抗弁しかけて、ルルイエはつと唇を噛んだ。
自分にとってこの国は、王との関係は、どれほどの重みのある存在だったのか。
そう問われると、すぐには答えられない。
自ら望んでやって来た国ではなかった。母に連れられ、そこがどんな場所なのかも知らずに訪れて、初対面の伯母に紹介された。そして、聖女とはなんなのかすら知らないままに、次の聖女だと言われて、母から引き離された。
病の床に臥す母や伯母のために祈ることも許されず、彼女たちの死に涙することも許されなかった。
十二で伯母の後を継いで、ただ国のために祈ることだけを強要された。
そしてそのあげく、真摯に役目を全うしていたにも関わらず、「役立たず」だとして国を追われたのだ。
けれども。
(それは、本当に苦痛だった? 辛かった? こんな国なんてどうでもいいと思うほどに?)
彼女は自分で自分に問う。
返って来た答えは、否だった。
たしかに、肉親のために祈ることができないのは辛かったし、その死は悲しかった。けれども、国のために祈るという自分の役目には、誇りを持っていた。
追放された時には悲しかったし、その理由は理解できなかった。けれど、追放されたおかげで彼女は自由を得ることもできたのだ。
祖国に帰って、父の死の事情と母が自分を連れて国を出た理由を知ることができた。旅の途中では多くの人々との交流があり、中には今にまで続くかけがえのない出会いもあった。何より、東方世界でのこの十七年はとても充実した幸せなものだったのだ。
(追放されなければ、これらの日々はなかったわ)
そんな思いと共に、ルルイエの胸に満ち足りた幸せな気持ちが湧き上がる。
もう、頭の隅のあの囁きは聞こえなかった。
ただ、耳元で誰かの囁く声がする。
『そう思えるならばけっこう。さて、では答えよ。汝は何者ぞ? 聖女か? それとも魔法使いか?』
(わたくしは……どちらもよ。わたくしは、聖女であり魔法使いだわ)
ルルイエは少し考え、しかしためらうことなく答えた。
『よろしい。模範解答じゃ』
満足げな声と共に、何かがするりとルルイエの肉体に滑り込んで来た感覚があった。
『しばし、汝の体を借りるぞえ。案ずるな、魔力はわたくし自身のものを使うゆえの』
言葉と共に、ルルイエは自分の意識が体の奥底へと沈んで行くのを感じた。
ルルイエが床に倒れ伏し、起き上がろうともがいていたのは、ほんの短い間のことだった。ほどなく彼女は倒れたまま動かなくなり、メノウはようやく決着がついたと口元をゆがめる。
だがそれは、早合点だったようだ。
閉じていたルルイエの目が開き、彼女はゆっくりと立ち上がる。
「しぶといですわね」
小さく舌打ちしてそれを見やったメノウだったが、うっそりとこちらをふり返ったルルイエに、目を見張った。
「おまえ……!」
ルルイエとは、明らかにまとっている空気が違っていた。
メノウを見据える目は、本来の金茶色ではなく白に近い銀色に変わっていた。そしてまた、戦う間にほどけてボサボサになっていた黒髪も、端の方が白く染まっている。
「おまえ、何者? ルルイエでは、ありませんね?」
その相手を見据えて、メノウは鋭く問うた。
「さすがに、相手が変わったことぐらいはわかるようだの。したが、汝のような危険な者に、名を名乗れると思うか?」
ルルイエは、嘲笑するように返す。
「今更、名を捕えるような姑息なことはいたしませんわ。それに、名乗った名が本当の名前とも限りませんし」
メノウが肩をすくめて言うと、ルルイエは小さく口元をゆがめた。
「ふむ。それでは、『初めの聖女』とだけ名乗っておこうかの」
「あら。……それはそれは」
ルルイエ――いや、『初めの聖女』の言葉に、メノウはすいと目を細める。それが、西方世界に最初に現れた聖女、アルベヒライカのウルスラのことだと、さすがのメノウも気づいたのだった。
そして、戦いは再び始まった。
だが今度は、圧倒的に叩き伏せられたのは、メノウの方だった。
ウルスラは強かった。
聖女は魔法を使うすべを知らないはずだったが、彼女は違った。
呪文を詠唱することすらなく、ただその手を振るだけで、あるいは高く掲げるだけで、とんでもなく強大な魔法を繰り出すことができた。
「聖女のくせに……なぜ、魔法を……」
何度も叩きつけられる魔法を防ぎきれず、ボロボロになって床に倒れ伏しながら、メノウは呻くように言った。
「それはの、この体が魔法の知識を持っておるからじゃ」
ウルスラは、クスリと笑って答える。
「聖女と魔法使いは同じもの。ただ、その力の使い方が違うだけぞ」
「そんなバカな……。西方世界の人間は、魔力器官を持たない……はず……」
彼女の言葉に、メノウは苦しい息を吐きながら呟いた。
「たしかにそのとおりじゃ。ただ、ごくごく一部の人間の体には、人工の魔力器官が埋め込まれておる」
再び低い笑いと共に、ウルスラが告げた。
「バカな……!」
メノウは呻くように叫ぶ。だがその脳裏には、幼いころの養父の言葉がよみがえっていた。
もっとも彼女がそれについて、あれこれ考えている余裕はなかったけれども。
ウルスラの魔法の攻撃は、彼女の上に雨あられのように降り注ぐ。
もはや彼女は、それに抗うことすらできなくなっていた。
(わたくしは、死ぬの……?)
遠のきかけた意識の中で、彼女が死を覚悟しかけた時だ。
ふいに、遠くの音が聞こえて来た。
最初はなんだかわからなかったその音は、木槌か斧のような重いものを扉にぶつける時の音だった。
やがて、メキメキと扉の壊れる音が響いて、誰かが部屋に入って来るらしい気配があった。
(結界を張ってあるはずなのに、なぜ……?)
メノウは意識の奥で、そんな疑問を浮かべる。
実際には、もう彼女には結界を張り続けるだけの力もなくなっていた。そのせいで、外の者たちが異変に気づいて騒いでいるのだろう。だが、彼女にはそう考えるだけの気力もなかった。
室内に入って来た誰かは、メノウの傍で足を止める。
「嘘……うそでしょう? メノウ、メノウがどうして……!」
叫ぶ声は、メノウにとっては聞き慣れた王女のものだった。
「聖女様、いけません!」
「危険です!」
他にも女官や女騎士たちがいるのか、そんな叫びが交錯する。
だが王女は、彼らの手をふり切って、メノウの傍へと駆け寄って来た。
「メノウ、しっかりして! メノウ!」
必死の、どこか泣き出しそうな叫びがメノウの上に降って来た。だが、姿はおぼろげな影のようだ。
(ああ……聖女様……)
メノウは、そちらに手を伸ばす。
その手を取るのは、冷たくて華奢な、王女の手だった。
「メノウ! メノウ、しっかりして!」
王女はただ叫ぶ。その目から、幾筋もの涙がメノウの上へと滴り落ちた。
(聖女様……わたくしの、曙……。わたくしの……光……)
それが、メノウの最後の呟きだった。
王女の手の中から、メノウの赤く焼けただれた手が力なく滑り落ちる。
そしてメノウは――いや、かつて東方から来た男は息絶えた。