「山の天辺のような標高の高いところは、平地に比べて空気が薄い。体内に取り込む空気の量が少ないと、頭痛や吐き気に見舞われることがあるらしいんです」
あくまで伝聞形式なのは、ライラはその症状にかかったことがないからだ。
「ボク、運ばれている間、山の中を登っていることに気づいたんです……それも何時間も。この船は飛び立つ前から山の中にありましたよね。こんな大きな船、人目に付かないところに隠すには、山の中くらいしかありませんもんね」
ドラルゴも船員たちも、誰も反論しない。何も言い返さない。ライラの言う通りだったからだ。
「それにこの船、雲よりも高く飛んでいましたよね。空気の薄いところにいたら症状は悪化します。空高く飛んでいない時でも、ずっと船の中にいて、標高の高いこの山を生活拠点にしていたのなら、どんなに安静にしていても症状が良くなるはずがないんです」
ライラの説明を聞いて、アルも納得したかのように瞼を閉じた。
天空の巨塔を目指して飛行したとなれば、雲よりもはるか上空にまで飛行船を上昇させたはずだ。ドラルゴが体調を崩し始めた、というタイミングとも合致する。
すると一転、言いにくそうにもごもごと、ライラは小さな声で続きを口にした。
「特に、その……おじいちゃんとかおばあちゃんがこの症状に罹りやすいらしいです。ドラルゴさんの体は、雲よりも高く飛ぶのに耐え切れないんだと思います。ボクの里でも時々、高く飛びすぎて意識を失くす人がいたんです……」
ドラルゴは力なく笑う。
「そうか。俺も、歳をとったってぇこったな」
これまでに見たどの表情よりも、優しく穏やかに。
そしてその表情そのままに、彼はぽつりぽつりと身の上話を聞かせてくれた。飛行船を手に入れた経緯を話してやる、と前置きして。
「……俺ぁ、かつては海賊だったんだよ。身寄りのねえこいつらに飯を食わしてやりたくて始めた稼業だ」
こいつら、というのは背後にいる船員たちのことを指すのだろう。全員の顔をこうして落ち着いて見てみると、年齢にバラツキこそあれど軒並み年若い。全員がアルと同年代か、いくらか歳下に見える。
「だが三年前、女王陛下が駆逐艦を作り海軍を擁立したことで、海賊としてはもう食っていけなくなっちまったんだ」
「……
どういうことかとアルの顔を見上げる。
「昨日、説明したとおりだ。寝たきり状態の国王陛下に代わり、王妃殿下と三人の王子殿下が政務を請け負っている、と。王子たちよりも、実質的にこの国を統治しているのは王妃殿下だ。公的な場面を除いては、“女王陛下”と呼ばれることもある」
アルの補足説明が終わったので、再びドラルゴに向き直る。
「ガキどもに悪行を働かせるわけにもいかねえってのに、俺と同じように海賊を目指すって言い始めてな……困っていたところに、こいつが……ヒューバートが海を漂っているのを見つけたのよ」
ヒューバート、というのは船員たちのなかでも特にか細い体型の男だった。見覚えのない顔。おそらく、操舵室にいたのは彼だ。
「隣国から亡命する時に、遭難したんだとよ。ヒューバートが持っていたのは、この飛行船の設計図だ。あの天空の巨塔にゃお宝がザクザク眠ってるってなァ噂は、前からあった。俺たちは三年かけて飛行船を作り、完成させたのがつい二週間前。試運転を繰り返し、いざ初の航行へ……と思っていたら気流に呑まれて、俺が倒れちまったってわけさ」
ドラルゴの説明にライラは耳を傾けていたが、アルの興味の矛先はすでにヒューバートに向かっていた。
彼が語ったのは、隣国のヴィソラージアから亡命してきたということだった。
元々はリームンヘルトの生まれだという彼は機関車の設計士をしていたが、ヴィソラージアから声がかかったそうだ。高待遇で迎えるから、国の技術力の発展に力を貸してほしい、と。
「断る理由なんか、ありませんでした。生活のすべての面倒を見ると保証してくれましたし、報酬もリームンヘルトよりも弾むと言われて、その話に乗ってしまったんです。ヴィソラージアに入国して以降は、飛行船の開発に関われると知った時には興奮が冷めやらず、完全に舞い上がっていました……」
ところが、ヒューバートはそこで恐ろしい真実を知ってしまった。
「私が夜に作業をしていたら、国王軍の総司令官が視察に来ていたのを偶然見てしまったんです。そこで耳にしたのは──」
“飛行船を量産して、リームンヘルトの属国のシグに攻め入る”。
「私は恐れおののきました。制空権を手中に収め攻め入れば、シグのような戦力を持たない小国は間違いなく降伏するだろう。そうして統一した後に、やがてはこのリームンヘルトに宣戦布告しこの大陸ごと治めようと……」
ライラには、なんのことだかさっぱりだった。ヴィソラージアだの属国だのシグだの、知らない名称が頭の中で積み重なっていく。
けれどアルは、
「なるほどな」
と、ひとり納得してしまっている。
「アルくん。ええと、つまりどういうことなの?」
「……この国が十五年前まで戦争をしていたことくらいは、おまえも知っているだろう。その相手国がヴィソラージアだ。停戦協定を結んではいるが、ヴィソラージアでは水面下で、飛行手段が戦争用に確立されていることになる。まずはリームンヘルトの属国であるシグに攻め入り陥落させたところで、本命のリームンヘルトに向けて侵略を始めようとしている、ということだ」
戦争が始まろうとしている。驚くべき事実に、体温が瞬間的に冷えていく。けれどアルにとっては、それ自体はさほど重要な情報ではなかったようだ。口元を手で覆い、思案顔を浮かべている。
「……どうしたの?」
「──対空戦術に秀でた竜人族が、このタイミングで何者かの手によって滅ぼされたことを、偶然として片づけていいものか、と思ってな」
アルの言いたいことは、さすがにライラにもわかった。ヴィソラージアは戦争の準備をしている。リームンヘルトの領空を攻め入るにあたり、その障害になりうる竜人族を真っ先に滅ぼしたのではないか……そう言いたいのだろう。
あくまで推測。真実はまだわからない。けれどアルの言うように、タイミングが恐ろしく合致しているようにライラにも思えた。
重苦しい沈黙が垂れ下がる。問題は山積みだ。例えば目の前で膝を折っている、彼らの処遇だってそうだ。
「アルくん、この人たち、どうするの? どうなっちゃうの?」
「……そうだな」
アルの手で、顎を軽く持ち上げられる。唇の端を指で撫でられた瞬間、ぴりっとした痛みが走った。船員たちに歯を抜かれそうになり、激しく抵抗した時に負った傷だ。
「まずは誘拐罪、次いで傷害罪」
つらつらと。まるで興味のない物語を朗読するみたいに。
「さらに俺に対しては公務執行妨害。引退しているとはいえ海賊を匿った隠匿罪。ああそれから、無許可で国境を行き来した設計者までいるのか。ここにいる全員、牢屋から出られるまで何年かかることやら」
「そんな……」
アルの冷たい声に、その場にいた全員の体が縮み上がった。ただ一人、ドラルゴを除いて。
気の毒なくらい震えるヒューバートを、琥珀の視線が貫く。
「まずは、ヒューバートとか言ったな。おまえ、この国の機関車の設計士だろう。三年前から行方不明届が出ている」
「は、はい」
「まさかヴィソラージアに渡っていたとはな。おかげでこの国の交通網は長い間、不便を強いられている。おまえほど腕のいい設計士もそういないのでな。早急に現場に戻り、滞っている機関車の開発と製造に尽力しろ。三年もの間、行方を眩ませていた言い訳は、こちらでなんとか考えてやる」
「は、はいっ」
「そして、飛行船の設計図の写しはこちらで預からせてもらおう。他にも、ヴィソラージアについて知っている情報は洗いざらい吐いてもらう」
「はい……!」
ヒューバートから設計図の写しを預かると、アルは船員全員に視線を向けた。
「それから、船員ども。おまえらは、“ドラルゴが海賊だと知らずに育てられた、純粋な若者”だ。計画が滞っているせいで、機関車の製造に携わる人員が不足している。その無駄に有り余った体力を、力仕事に活かせ」
そう言われた彼らは困惑に顔を見合わせた。納得のいった者とそうでない者とで、意見が分かれているようだ。けれど彼らのざわめきは、アルがドラルゴに声をかけた瞬間に静まった。
「ドラルゴ……お前の名だけはよく知っている。長年の海賊行為を認めてもらおうか。他大陸との輸出入製品を横取りされたと、貿易商人から何度も苦情を貰っているぞ」
「ああ、その通りだ。俺ぁ、まっとうな職にも就けなかったからって、暴力行為で海を支配しようとした極悪人だ。いまさら、逃げも隠れもしねえよ」
ドラルゴの笑みは堂々たるものだ。まるでもう、すべてを受け入れる覚悟はできていると言わんばかりの。
しかし、船員たちは我先にと口を開く──無論、焦りで。
「ボ、ボスは見逃してやってくれ! 俺たちを食わしていくのに仕方ないことだったんだ……!」
「そうだよ、俺たちがそのぶん服役するからよぉ!」
「親父は悪くねえよ! 戦争で足を悪くしたのが原因なんだから、元はと言えば戦争なんか起こした国のせいじゃねえかよ……!」
「おまえらは黙ってろ」
ドラルゴの静かな一言で、全員が押し黙った。彼らはそこでようやく悟る。アルは情に訴えかけても心動かされるような相手ではない。だから何をどれだけ叫んでも、きっと彼の判断は覆らないのだと。