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3-8.ライラと、酒場

 数日ぶりに浴びたシャワーは、泥や汚れを綺麗に流してくれた。

 ヒルダの用意してくれた寝巻きは時々泊まりに来るという彼女の弟のものらしい、ライラの体型にはやや大きかった。シュシュの前足の傷も消毒を済ませ、包帯も新しいものに替えることができた。歩き方にも問題はなさそうで、ライラはほっと胸を撫で下ろす。


「シャワーに寝巻きに、貸してくれてありがとうございました。こんな夜遅くに、何から何まで気を遣っていただいてすみません」

「いいって、いいって。うちは一階が酒場でね、夜に営業してるの。ちょうどさっき店仕舞いしたところだからね」

 だから安心してと言外に、爽やかな笑顔付きでカウンターに差し出されたジュースは、目を見張るほど美味しかった。丁重にちびちび味わっている間に、ヒルダはベッドメイクまでしてくれている。至れり尽くせりとはこのことだ。


「酒場ってもっと夜遅くまで、それこそ明け方まで営業しているようなイメージでした」

「通常なら、そうしているんだけどね。うちには、ほら……この子がいるからさ」

 そう言って振り返る彼女の腕の中にはあまりにも小さい、まるで人形のようなサイズの──、

「ひゃぁ⁉」

 ライラは驚いて椅子から飛び跳ねてしまった。頭も顔も腕も、とにかく何もかもが極小サイズ──つまりは赤ん坊が、布に包まれていた。

「二か月前に産まれたばかり。名前はアンジュっていうんだ。女の子だよ」

「アンジュ、ちゃん」

 恐る恐る、ヒルダの腕の中のそれに近づいてみる。長い上下のまつ毛が重なっている……かと思えばうっすら開かれた焦げ茶の目が、興味津々げにライラを見つめ始めた。

「あら、起きちゃった。……もしかして、赤ん坊を見るのは初めてかい?」

 ぶんぶんぶんぶん、と余計に首を横に振ってしまう。

「は、初めてではないですけど一度だけ、遠巻きに見たことしかなくって……」

 ヒルダはその答えに、にやりと片方の口角を歪めた。

「抱っこしてみる?」

「ええっ⁉」


 ライラは目玉が飛び出そうになるくらい目を見開く。

「いいんですか、そんなことして⁉」

「赤ん坊の抱っこの仕方くらい、覚えといても損はないだろ?」

 思わずキッドに視線を送ってしまう。彼はヒルダの提案に動じることなく、むしろ微笑ましいとばかり。

「ほ、本当に? 本当にいいんですか?」

 狼狽えている間にも、ヒルダはぐっと距離を縮めてきた。腕の中のアンジュは渋り顔をしている。

「まだ首が据わってないから、ちゃんと腕を固定して頭とお尻を支える感じで……そうそう、上手じゃないか!」


 指導のもと、ガチガチに固定された腕の中に舞い降りたアンジュ。軽いのに、とても軽いのに、その存在はとてつもなく重たい。ライラはじわりじわりと、胸の内が熱くなるのを感じていた。

「わ、わあぁぁ……!」

 布越しでも伝わる、柔らかい、頼りない肌の感触。鼻を掠めるミルクの香り。


「すご……っ、あ、あったかっ……良い匂いする! 手が、手が、爪ちっちゃい! かわ、かわいい……!」

 濁りのない、清らかで、真新しさを感じさせる眼球の艶。なるほどたしかに、これは“天使”だ。


 遅い入浴から帰ってきたアルを、ライラは急いで出迎えた。一刻も早くこのことを伝えたくて。

「アルくん見てっ! 見てよ、髪を掴まれたよ……!」

「そうだな、掴まれているな」

「鼻がヒクヒクしてるよ! 目が開いているよ!」

「そうだな、開いているな」

「アルくんやーい? もうちょっと興味持とう?」

 アルのあまりにも薄い反応に、キッドは苦笑しっぱなしだ。


 しかし次の瞬間、アンジュは顔をくしゃくしゃにしたかと思えば、小さな口から出ているとは信じられないほどの、

「ふええええええええええ!」

「わっ、わっ⁉」

 大きな叫び声をあげて泣き始めた。鼓膜がビリビリと響く感覚に、思わず顔を顰めてしまう。シュシュに至っては両腕で耳を押さえるほど。

「ご、ごめんなさいっ! 嫌われちゃった?」

「子供は泣くもんだよ。それに最近は寝る前になるといつも不機嫌。私も寝不足で困っててさぁ」

 ヒルダに引き渡しはしたものの依然アンジュは泣き止まない。キッドも慣れた手つきで抱っこを代わったのだが、結果は変わらない。


「アンジュちゃーん、どうしたんだい? お腹でも空いてるのかねえ?」

「さっきたっぷり飲まさしたから、それはないよ。たぶん、うまく寝付けなくてパニックになってるだけ。けど、ほんと困ったねえ」

 キッドが顔を変形させながらあやしているが、やはり泣き止む気配はなさそうだ。

 なにかあやせる道具はないものかと辺りを見回すと、視界に飛び込んできたのはライラにとって慣れ親しんだ楽器だった。


「これって……もしかして竪琴ですか?」

「ああ。ライアーね。キッドは楽器集めが趣味で、それ専用の部屋があるくらい。下手の横好きってやつさ」

 吟遊詩人を目指していたと言っていた、その名残なのだろうか。

「アンジュちゃんがもし音楽が好きなら、弾いて聴かせてみてもいいですか? 弦楽器は多少、腕に覚えがあります」

「ああ、いいねえ! ぜひ聴かせておくれよ! この子もリラックスして泣き止むかもしれないし」

 誰よりも乗り気なのはヒルダだ。


 ライラは楽器を手にすると、弦を弾いて調律を終えた。観客は四人と一匹。これまでに里で何度も演奏してきたし、その時に比べたら聴衆の数だって少ないはずなのに、今この瞬間が一番緊張している。中でもアルの視線を強く感じるものだから、心臓は早鐘を打って仕方ない。

 けれどそれは隠さなくてはならない。悟られてはいけない。緊張なんてしてはいけない。なぜならこれから奏でるのは、

「では晴れやかで、穏やかで、安らかな気持ちになれる曲にしますね」

 緊張などとは程遠い、心を解くアンダンテ。



 ライラの幼く細い指先から、音がこぼれる。

 スローテンポで静かに紡がれる音の数々は、冷え込む夜を、悴むつま先を忘れさせた。雪をも解かす、冬の終わりの風のような。雪解けのなか、一所懸命に咲く花のような。アンジュのつんざく鳴き声すらも、春告げ鳥のさえずりに変えてしまう。

 一人で演奏しているはずなのに二重奏にも聞こえる重厚な、それでいて淡く丁寧で、洗練されたクリアな旋律。

 リズムに合わせて、キッドはゆっくりと左右に体を揺らした。しだいに静まっていくアンジュの声。演奏が始まってからどれくらい経っただろうか。誰も声を発することができなくなっていた。一音すら聴き逃すのが惜しく思えて、彼らは自然と瞼を閉じてしまう。


「……よかった。寝てくれましたね」

 演奏を終えたライラの静かな一言に、三人の聴衆の視線は一斉にアンジュに注がれた。

 重なる上下のまつ毛。全身で穏やかに呼吸を繰り返す赤ん坊の姿に、夫婦は声を抑えて喜ぶ。


「やるねえ、あんたっ。ありがとう、本当に良い音色だった。また聴かせておくれよ」

「ありがとね、ライラちゃん。おかげでヒルダを休ませてやれるわ」

「最上階の客室、二部屋あるから使っていいからね。明日は仕込みを手伝ってくれると助かるよ」

 あくまで小声のやり取りだったけれど、夫婦の発した「ありがとう」にライラの心臓は大きく高鳴った。

「はっ、はい。おやすみなさいっ」

 少しは役に立てただろうか、こんな自分でも──そう思えて。


 アンジュを起こさないようにと忍び足で、夫婦は二階の寝室へと消えていった。残されたのはライラとアル、そしてシュシュだけ。


「大した演奏だったな」

「……ほんと!?」

「ああ。それに聴いたことのない曲だった」

 裏表の、嘘偽りのないアルからの賛辞だと思えて、ライラの頬は綻びっぱなしだ。

「へへ。里に伝わる、春の曲だよ。少し季節外れかもしれないけど、穏やかで優しい曲で気に入っているんだ。里では、鍛錬の合間に演奏の稽古もするんだよ」

 毎日、毎日だ。厳しい稽古ではあったがサボったことも、休んだこともなかった。

「中でも上手な人たちは演奏隊に選ばれて、お城の晩餐会に招待されるんだって。それがとても栄誉なことだって教わってきたんだ」

「ああ……五年に一度開かれるアレか。それなら俺も聴いたことがある」

「そうなんだ! すごいよね。里を出るのが許されて、しかもお城の晩餐会で演奏できるなんて」


 夜を切り取った窓から、誕生日ケーキのような城を眺める。

 まさか自分が、こうして城を直接目の当たりにすることができるようになるなんて、ライラは夢にも思わなかった。ましてやあと数日したら、あの城の中にまで入れるなんて。


「おまえは……」

「ん?」

「それだけの腕前を持っていながら、なぜ演奏隊に選ばれなかったんだ?」

 答えに詰まる。しばらくの間、沈黙が二人の間を走った。

「……あのね! ボクなんかよりずうっと上手な人がたくさんいたんだ。それでボクはダメだったんだ」

「……そうか」


 納得してくれただろうか。どうにか、どうにか話題を変えなくてはいけない。ライラは目を泳がせながらも、最も無難な話題に飛びついた。

「それにしてもキッドさんって子煩悩なんだね。アンジュちゃんのこと、あんなに可愛がっていたもん」

「……あの二人は結婚してからずいぶん経つが、長いこと子供に恵まれなかったからな。それもあるだろう」


 具体的な年齢こそ聞いていないが、キッドはおそらく四十代だろう。結婚適齢期が二十歳前後と聞いたことがあるから、もしその頃にキッドとヒルダが結婚していたとしたら……確かにアルの言う通りなのかもしれなかった。そんな夫婦も珍しくはない──むしろ多数派ですらある。


「アルくんは、抱っこしなくてよかったの?」

「……あまり気は進まないな。赤ん坊は苦手なんだ」

「どうして? あんなに可愛いのに」

 柔らかくて温かくて、身体は軽いのに、その存在はとても重たい。赤ん坊を抱き上げるのは初めてだったが、何度でも経験したいくらいだとライラは思ったのに。


「──赤ん坊を、見捨てたことがある」


 アルの静かなたった一言で、ライラの浮上した気持ちはずしん、と重さを増した。

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