竜人族の祖となる竜神は、天を司る神だ。それゆえに、竜人族の信仰の対象は天となる。
毎朝、日の出とともに目を覚ますと窓に向かう。次に膝をつき、瞼を閉じて指を組むと、天に向かって祈るのだ。竜人族の栄華を、繁栄を。
この古くからの慣習は里が滅んだ今、生き残りであるライラだけの習慣となった。
よく寝付けなかったため重力を増した瞼をこすりながら、ライラはアルが昨夜にくれた本を開いた。朝食まではまだ時間がある。
難しい言葉は知らないこともあるが、基本の読み書きは育ての親である里長•グレンが教えてくれていた。
文字を学び、本を読む機会を彼は惜しまず与えてくれた。とはいえ職務で忙しい人だったので、ライラの教師といえるのはもっぱら、本棚に並ぶ物語や図鑑だったのだが。
ライラがいま手にしているのはプロの訓練士の本だ。上流階級ともなると、飼い犬の躾にも専門家がつくものらしい。躾の方法や犬との正しい接し方が図や挿絵、さらに持論を交えて易しく紹介されている。
一通り読み終えて、ベッドから下りる。
「……シュシュ、起きて!」
白いふわふわの毛をもぞもぞ動かしながら、これまた眠たそうな碧眼と目が合う。
「おはよう、特訓に行くよ!」
♦ ♦ ♦ ♦ ♦
屋敷の前にある広場は爽やかな風が吹き抜けて、重たい瞼をほんの少し軽やかにしてくれた。
「おすわりはすぐに覚えられたから、次はお手をがんばって覚えていこうね!」
首を傾げるシュシュに早くも心をへし折られそうだが、ライラはそれでもシュシュに改めて向き直った。
「もし成功できたら、この干し肉をあげちゃいます!」
空腹ゆえにか、シュシュの目が爛々と光る。次の瞬間には飛び掛かられてしまい、その勢いでライラは地面に押し倒されてしまった。ひゃあ、と思わず悲鳴を上げる。
「ダメだってば! お、お手ができたらだよ、めっ! ……ふふっ、舐めないでよ、くすぐったいよっ」
戯れるライラとシュシュの姿は、カーテン越しのアルにしっかり目撃されていた。
これまた重たそうな瞼に濃い目の下のクマ。深紅の髪は陽光を受けて、きらきらと眩しく反射している。
日が昇るより早く、アルの屋敷にキッドが足を運んでいた。二人とも、眠気覚ましにとジュリエットから差し出されたハーブティを口にする。人払いを済ませると、ようやくアルはキッドに昨夜の出来事を打ち明けたのだった。
「へえ、体質のことバレちゃったんだ、ライラちゃんに。珍しいこともあるもんだねえ。モンブラン隊の隊員にも、悟らせたことすらなかったのに」
のほほんと微笑むキッドに、アルは苦々しげな表情を浮かべる。
「成り行き上、仕方なく、だ。うまく誤魔化せるような状況じゃなかった」
「まあ、ライラちゃんなら大丈夫でしょ。人の秘密をベラベラ話すようなタイプの子じゃなさそうだし。口止めだってしたんでしょ?」
「ああ。……奴にも念押ししておいたが、迂闊にこの話題は出すなよ」
「わかってますって」
流れるような会話に小休止。窓の外からライラの歓声があがる。
「すごい! シュシュ、偉いねえ! これがお手だよ、よくできました!」
どうやらシュシュは“お座り”に続き“お手”もいち早くマスターしたらしい。
大げさなほど褒め称えるライラに、尻尾をぶんぶん振り回しご褒美に食らいつくシュシュ。
一人と一匹の姿を窓から眺め、キッドは頬を緩めた。
「はは。若者は朝から元気だこと」
「……なんだってアイツは、ああも全力なんだろうな」
対して、アルは相変わらずの仏頂面だ。
「俺に対してだってそうだ。別段、親切にしてやってるわけでもないのに。なぜか後ろから付いてくるだろう、犬みたいに。……鬱陶しくて仕方ない」
これは愚痴に聞こえるが実のところそうではない、問いかけだ。そしてそれをいち早く理解し、丁寧に拾い上げるのがキッドだ。彼は首を傾げると、言葉をひとつひとつ選ぶように、
「ライラちゃんは、今……何も持っていないからね」
静かに、続けた。
「人間ってのは、社会でなにかしら役割を与えられることで、ようやく自分というのを確立できるものなんじゃないかな。それが例えば身分とか職業とかじゃなくて、『誰かの何か』でも良い……『誰かの恋人』でも『友達』でも。故郷が滅んだ今、ライラちゃんはそれらがすっかりなくなっちゃった状態なわけだから。……『誰かの何か』に早くなりたくて、焦っているんだよ」
アルはいまいちピンと来ていないらしい。何も言わずにキッドの次の言葉を待っている。
「それじゃあさ……うーん、例えばだけど国が滅んで、自分が王子様じゃなくなったら、って考えてみたら、アルくんもライラちゃんの気持ちが少しはわかるんじゃない?」
琥珀の瞳が瞬く。
「想像したこともないな、そんなこと」
「だろうねぇ。想像を絶するほどの孤独感だと思うよ。……だからさ、アルくんも、ライラちゃんに優しくしてやんなさいよって。もう少しでいいからさ」
キッドはライラの境遇を密かに憐れんでいた。
故郷が滅んだこともそうだがそれ以前に、唯一の家族であった里長を十歳で亡くし、以降五年間は独りで生活していた……そんな背景を聞かされていたからだ。
しかしアルはといえば、
「気が向いたらな。そういうのは得意な奴が大いにやればいい。誰かに親切にするだの親身に接するだのは、おっさんの専売特許だろう」
取り付く島もないとはこのことか。鍛錬に行ってくる、その一言を残してアルは部屋を出て行った。キッドは天井を仰いで首を伸ばす。
「わかってないなあ。ライラちゃんにとっての『誰か』は、おっさんじゃ務まりませんて……」
ライラにとっての『誰か』はアルで、『何か』は友達なのだ。
けれど自信満々にそんなことを口に出せるほど、ライラも身の程知らずではない、なにせ相手は一国の王子だ。当のアルもまた、その気持ちを察せられるほどライラに関心があるわけでもない。
このままでは平行線だ。
「友情にも、片想いってあるのねえ」
ティーカップから漂う湯気を視線で追いながら、キッドは深い溜め息を吐いた。