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5-2.ライラと、お出かけ

「アルくん、アルくん! ねえ、聞いて聞いて!」


 朝食を済ませた後、ライラはアルの自室を訪れていた。とはいえ昨夜とは異なり部屋に入るようなことはしない。かすかに聞こえる衣擦れの音に少しだけ緊張しながら、扉越しでの会話となった。


「どうした」

「シュシュってすごいんだ! お手もすぐに覚えたんだよ。アルくんが貸してくれた本のおかげだね!」


 ライラの腕の中には、満足そうに腹を膨らませるシュシュの姿があった。胃の中にはご褒美がたっぷりと収まっている。


「……狼の中でも、そいつはとりわけ賢い種と言われてきた。人の言葉を覚えるのも早いとされている」

「そっかぁ。シュシュは賢いんだね。『アルくんに噛みつかないように』も早く覚えてくれるといいんだけどな……」

「どうせなら、特定の合図を出した時に、任意の相手にのみ噛みつくように訓練してみたらどうだ」


 アルの名案に、ライラは目を丸くした。

 噛みつくのを止めさせるのではなく、噛みついていい相手とタイミングをこちらから指定してあげることができれば、いざというときの戦力にもなるかもしれない。なにより、これ以上のアルへの被害も抑えられるかもしれない。


「それ、すごくいいね。早速また明日から訓練してみるよ!」

「……まあ、頑張れ。成果はある程度、期待しておく」

「うん!」


 扉を隔てているためアルの視界には入らないが、ライラは思い切り破顔してみせた。「頑張れ」だったり、「期待しておく」だったり。今日の彼のひとつひとつの言葉が、やけに優しく聞こえたから。


「あ、それと」


 この嬉しい気持ちに水を差すことになりそうで、ライラの笑顔はほんのり翳る。


「アルくん、今日って忙しい?」

「午前中なら時間はある」

「よかった。あのね、報告しなきゃいけないことがあるんだ、それも二つも。もしかしたら、このお屋敷の中より、外で話したほうが良いかもしれないんだ」


 どんな話題なのか、ある程度察せられたのだろう。アルは軽く扉を開くと、頭一つ分は高い身長からライラを見下ろした。


「外に行くぞ」

「えっ?」

「行けたとしても、貴族街までだがな。王都の散策はほとんど出来ていなかっただろう。案内する」

「……! うん、行く!」


 ライラは再びぱあっと表情を明るくして、「外出の準備してくるね!」と廊下を駆けていった。


 躍動感たっぷりに左右に揺れる翡翠のロングヘアーを見送ると、アルも薄手のコートを羽織る。


「アルヴィン様、お出かけでございますか?」


 声をかけたのはメイドのジュリエットだ。茶請けのクッキーをトレイに乗せている。


「ああ。王都を案内してくる」

「馬車の用意はいかがいたしましょうか」

「徒歩でいい。午後には戻る」


 ジュリエットとのすれ違いざま、アルの左手は一枚のクッキーを掴んだかと思えば、すぐに口元へそれを運ぶ。流れるような早業にジュリエットが目を丸くしているうちに、彼は咀嚼を終えていた。


「焼き立てか、美味いな」

「は、はい。ジンジャー入りでございます」

「そうか。帰宅した時の楽しみにしておく」

「アルヴィン様! 玄関までお見送りいたします」


 ジュリエットの申し出を片手で制して、アルもライラ同様、廊下の奥へと消えていった。


 廊下には、頬をほんのり朱に染め上げたジュリエット。

 ──と、キッドが取り残されていた。実は彼もまだこの階にいたのだ。


「あのー、ジュリちゃーん? ハーブティーごちそうさまでした~」

「! キドリー様っ⁉ こちらにいらしたのですね⁉」

「うん、まあね。おっさんね、気配消すの得意なんだ、悲しいことに」


 空のティーカップを受け取りながら、ジュリエットは慌てたように弁解を始めた。


「申し訳ございません。てっきりキドリー様も、アルヴィン様に同行されるものと早合点してしまいました。モアカンダーのメイドともあろうものが、確認を怠るなんてお恥ずかしい」


 キッドは首を横に振って笑った。彼女が気恥ずかしさから頬を染めているわけではないことくらいお見通しだ。


「貴族街までならおっさんの護衛なんて要らないでしょ。それにあの二人にはもっと距離を縮めてもらいたい、し……」


 言い終えて、しまったとばかりに口を塞いでももう遅い。案の定、ジュリエットは息を詰まらせている。まるで矢にでも射抜かれたかのように。


「……アルヴィン様はライラ様のこと、どう思っていらっしゃるのでしょう? その、なんと申しましょう。出会って日が浅い割には、ああして二人でお出かけになって。アルヴィン様も、ライラ様にはお心を砕いておられるような気がしてなりません」

「……竜人族の生き残りだからね。貴重な一票の持ち主だもの、多少の接待くらいアルくんだってするさ」

「……そうですね」


 少し落ち着きを取り戻したらしい。畳みかけるように、キッドは続けた。


「大体、ライラちゃんはああ見えて男の子だし。そんなに焦ったり、変に勘繰ったりしなくても……」


 そう言うと、一転。ジュリエットはいつもの上品な笑みを浮かべていた。由緒正しい、モアカンダー家のメイドの顔だ。


「嫌ですわ、キドリー様。少し気になっただけじゃありませんか。ライラ様が男性だろうと女性だろうと関係ありません。焦ったり勘繰ったりなんて致しません。私は……アルヴィン様の、ただのメイドなのですから」


 にっこり、ほんのり口角を上げた笑み。アルとの会話に頬を赤らめていた彼女も、気を取り乱していた彼女も、最初からどこにもいなかったかのようだ。


「それでは、失礼いたします」


 定規を当てたかのようにまっすぐな背筋のまま頭を下げると、ジュリエットはその場を去っていった。ほろ苦いジンジャーの香りだけが、いつまでもそこに残っている。


「……片想いばかりで見てて辛いわ。罪な男よねえ、アルくんって」


 キッドの声は長い廊下に、しんと染み渡るだけだった。


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