前日のことを思い出す。下町から貴族街に入る時には、相当な数の警備がいたはずだ。けれど今日、城の敷地から貴族街に出る時は門番の簡単な手続きだけで済んでしまった。
頑丈な鉄柵が上がるのと同時に滑り込むように橋を渡ると、眼前には美しい街並みが広がる。よく整備されたレンガ道。広場の噴水を中心に左右対称に彩られた庭園。視界に入る屋敷のひとつひとつが、隅々まで磨き上げられているかのよう。
それにとても静かだ。通りを挟んだ向こう側から僅かに人の気配、馬車の走る音。
吹き抜ける風の冷たさに、すっかり秋が深まっているのを実感する。風に乗るように歩いていけば、ようやく人通りの多い道に出てきた。行き交う人々の格好を見て、ライラは首を傾げる。
「貴族街って聞いていたから少し緊張していたんだけど……こう、わかりやすくお金持ち! って感じの人はあまりいないんだね」
「買い物や雑用なんかは執事やメイドに任せているからな、ここらを出歩いているのは大抵がそれだ。貴族が屋敷を出るのは仕事か旅行か、どこぞのパーティにでも出席する時くらいだ」
なるほど、貴族というのはなかなかお目にかかれない人たちなのだな。ライラはそう解釈した。
(貴族ですらそうなのに、王子様のアルくんとこうして街を出歩けるなんて、なんて巡り合わせなんだろう)
アルと巡り合えたのも、命を救ってくれた“天使”のおかげだ。
あの天使に抱く気持ちは感謝でしかない。いや、感謝でしかなかった。昨夜までは。
人気のない公園に差し掛かり、ベンチに二人で腰かけた、その時だった。
「で? 報告しなきゃいけないことってのは、なんだ?」
煙草に火を点けるアル。バニラに似た、甘い香りが風に乗る。
「あのね、まずはコレなんだけど」
ライラは包帯を取った。昨夜、自ら切り付けた指先をアルに見せつける。そこには真新しい傷跡がはっきりと残されていた。
「アルくんとボクは、窮地に追いやられたなかで同じ羽根を手にして、命を救われたのが共通点だった……。だけど、ここで相違点が出てきちゃったね。君みたいな特殊な能力は、ボクには与えられていないみたい」
「……そうか」
誰もいないところでこの情報を共有すべきだとライラは考えた。
アルはどんな怪我を負っても短時間で治ってしまう。ただし、毒に対してだけは耐性がない──なんて、誰に聞かれても信じられはしないかもしれないが、用心に越したことはない。このことはアル本人とライラ、キッドの三人しか知らないのだから。
「でも、どうしてアルくんにだけその能力があるんだろうね?」
「さあな。大方、お前の言っていた“天使”とやらに気に入られでもしたかな」
神も天使も存在を信じていないその口で、冗談めかしてそんなことを口にする。
ここで頭を捏ね繰り回したところで解答が見つかるわけでもない。ついに本題に入らなくてはいけないのかと、ライラは息を呑んだ。
「あのね。その、天使のことなんだけど。実は、昨夜アルくんの部屋でお話した後に部屋に戻ったら……窓の向こうに“天使”が来ていたんだ」
わざとか否か、アルは片方の眉をぴくりと動かす。けれど彼は話を遮ろうとはしない、だからライラは続けることにした。
「どうやってお城の敷地内に入ってこられたのか聞いてみたんだけど、答えてくれなくて。でも背中に翼があったから、たぶんどこかから飛んできたんだろうなって思った」
アルはやはり何も言わない。黙って話を聞いてくれているというより、じっとライラを見つめている。煙草の続きを吸うこともなく。まるで、話の真偽を見破ろうとしているみたいに。
「それでね、アルくんのことも話題にしたんだ。……あ、名前は出していないよ! 長いこと羽根の持ち主を捜している人がいるから、会ってほしいって、何か知っているなら教えてほしいって言ってみたんだ。だけど断られちゃって」
ライラは思い返す。沈黙したまま、彼は首を横に振るだけだった。
「それで、せめて名前だけでもと思って聞いてみたんだ。そしたら、初めて声を聴かせてくれた……“カノア”って」
ライラがそれから沈黙を守っていると、アルは再び煙草を咥えた。一呼吸し、ようやく口を開く。
「……そいつは、何を訊かれても答えなかったのに、自分の名前だけは口にしたんだな?」
頷くと、アルは口元を手で覆うような仕草を見せた。考え事をするときの、彼の癖なのかもしれない。
「お前が何を訊いても沈黙していたのに、名を告げたのには意味がある」
「意味?」
「『名乗る必要があった』か『どうしても名乗りたかった』か。そのどちらかだ」
アルの発言に、ライラは密かに衝撃を受けていた。もし彼の見立て通りだとすれば、
──「ライラ。キミの秘密を知っているよ」──
──「キミのことは、カノアが必ず、すくってみせるからね」──
カノアが別れ際に口にしたこの二つのセリフも、ライラに告げる必要があったか、どうしても告げたかったこと、ということになる。
どちらであったにせよ、まるで身に危険が差し迫っているようじゃないか。
押し黙るライラに、アルは再び問いかける。
「ヤツは、他に何か言っていたか?」
ライラは迷った。けれどそれも、わずかな時間でしかなかった。
「……『キミのことは、カノアが必ず、すくってみせるからね』って。それだけ言って、すぐに消えちゃったんだ」
ぽつり。
隠し事が、ひとつ増える。ライラは自身の胸に拳を押し当てた。アルに嘘をつきたくはないのに、つかなくてはいけないのが心苦しくて。
「ボクには何のことか、わからなかったんだけど」
「…………」
アルは再び、今度は俯きながら考え込んでいるようだ。目の下の青隈が陰に重なり、より色濃く見える。ただでさえ忙しい彼に気苦労をかけている気がして居た堪れない。膝小僧四つ分の距離が、ひどくもどかしい。
「……一つ、はっきりさせておくことがある」
アルがそう口にした、その時だった。劈くような悲鳴が、静かな貴族街に木霊したのは。