悲鳴のあがった瞬間、ライラは見た。
視界の奥から、こちらに向かって一心不乱に駆けてくる大柄な男の影を。その背後には道に蹲る女性の姿。どうやら先ほどの悲鳴の主のようだが──。
ライラには何が起こったのかわからなかった。けれど何かが起きたらしいことだけはわかった。
一方のアルは、何が起こったのか、まで瞬時に理解してしまったらしい。
「持ってろ」
吸いさしの煙草を預け、ベンチにライラを残して立ち上がると、彼は大男に向かって歩を進めた。視界の彼方にいたはずの大男は、その巨体に見合わないスピードで向かってくる。対してアルは、まるで散歩でもするかのような緩やかな足取りで大男の動線に近づいていった。
危ない、ぶつかる、と声にならない声でライラが叫んだ、二人のすれ違いざまの刹那の時。目にも止まらぬ早業、アルの左足は大男の軸足を蹴り上げていた。己のスピードを相乗効果に、巨体は大きく宙を舞う。
同時に宙に浮かぶのは、これまたその巨体に見合わない小さなカバンだ。カバンがライラの手元にすっぽりと落ちてくるのと時を同じくして、背後から水飛沫が上がる。振り返れば、巨体の持ち主は頭から噴水に突っ込んでしまったらしい。足の裏が天を向いている。
アルも噴水に足を突っ込み、巨体をどうにか引き上げる。どうやら大男は気絶してしまっているようだ。
いつの間にか噴水の周りには、どこからともなく人だかりができていた。アルは人だかりの中から若者をひとり選出し、
「城の者を呼んでこい」
そう指示する。
すぐに現れた兵たちはアルの指示のもと、気絶した巨体を六人がかりで抱え上げる。実に迅速な手際だ。ライラはまだ、何が起きたのかも把握しきれていないというのに。
「あ、あのっ!」
人だかりの中、若い女性がおずおずとライラに声をかけてきた。
「そのカバン、私のなんです! 先ほどあの男にひったくられてしまって!」
「あ……っ、そういうことだったんですね!」
この女性は服装からしてどこかのメイドだろう。戻ってきたカバンを抱きしめ、目に涙を溜めながら事情を説明してくれる。
「助かりました、今月のお給料が全部入っていたんです。も、もし盗られていたら生活できなくなるところでした!」
「わあ、無事に返ってきてよかったです、ね……」
などと話しているうちに、ひったくり犯はどこかへ運ばれていった。人だかりは霧散。感激に打ち震えていたメイドの女性も、アルの姿を見るなり頭を下げて短く礼を述べるだけ。そのままどこかへいなくなってしまった。
「あれ?」
ライラは混乱した。おかしい、この状況はおかしい。
まるで何事もなかったかのよう。何も起きなかったかのように、再び公園にはライラとアルの二人、そして静寂だけが残された。
「……返せ。煙草」
「え⁉ あ、はい、どうぞ!」
煙草を受け取ったアルもまた、濡れてしまった足元を気にするそぶりも見せずにしれっとベンチに座り直すものだから。ライラは混乱した頭のまま、彼の話の続きを待つ。
「…………今のを見て、どう思った?」
アルの問いかけにライラは、ほとんど反射的に口を開いた。
「え……? すっごくかっこよかったよ! あんな一瞬でひったくりって判断できて、あっという間に助けられちゃうなんて、さすがアルくんだなぁって……!」
キラキラ瞬くエメラルドの瞳を見て、アルは溜め息を吐く。
「そういうことじゃなくて、だな……。民の反応だ。おまえの目にはどう映った?」
「……うん。なんか変だなって思った。アルくんは人助けをしたのに、拍手されて胴上げされてもいいくらいのことをしたのに。どうして皆、何も言わずにいなくなっちゃったの?」
「助けたのが、俺だったからだ」
どういうことだろうと首を傾げる。
「ユーシュヴァルで声をかけた男も言っていただろう。モンブラン隊は縁起が悪いと噂されている、と。あれは、モンブラン隊が何かしでかしたわけじゃない。モンブラン隊が俺の近衛騎士隊だから、そんな悪評がついてしまった」
「……どういうこと? どうしてアルくんの近衛騎士隊だと、縁起が悪いことになるの?」
「俺の父である国王陛下は、死ぬまで寝たきり状態だったと前に言ったことがあったな。奴が倒れたのが、ちょうど俺の生まれた日だったんだ」
自分が生まれた日のことなど、当然アルも覚えていない。
けれど何度か周囲の大人たちに吹き込まれたのだろう、物心がつく頃には理解していた。「自分の産まれた日に父が倒れた」ことを。そのせいで、アルヴィン王子は呪われているのではないか、と城の内外で囁かれていることも……。
「待って、そんなのおかしいよ」
アルの回想を、そう言って遮ったのはライラだ。
「そんなの、ただの偶然じゃない。アルくんにはどうしようもないことでそんな風に言われるなんて」
「次期国王を誰にするべきかを神託に、一神官に委ねる……そのことに疑問も抱かないような国民性だからな。信心深い奴が多いんだ。……信心深いということは、神の加護や祝福と同様に、祟りや呪いなんかも信じてしまうということだ」
そこまで言って、アルの琥珀の目がライラを捉えた。
「お前だってそうだろう。毎朝、欠かさず朝日に向って祈っているが。そうしなくてはいけない、祈らなくては罰が下る、そう言われてきたからじゃないのか」
ライラは唖然とした。その通りなのだ。幼い頃から繰り返してきた儀式。遥か昔の世代から継がれてきた慣習であり、今となってはライラだけの習慣。
けれど思い返せば、「祈らなくては竜神様の怒りを買ってしまうかもしれないからね」と周囲の大人から教わってきたのだ。
「敬虔な信者であるお前にこんなことを言うのは酷かもしれないが……はっきり言っておく。俺は神なんてものは信じていない。信じたい、そう思ったこともあったが、どんなに祈りを重ねても、奴は俺を救ってはくれなかった。だから俺は呪いだって信じない、存在を認めるわけにはいかない。呪われているだの縁起が悪いだの、だから疎まれても仕方ないだの、そんなものは糞喰らえだ……!」
強い、強い瞳だった。失望にも似た怒りに満ちた、見ていて思わず息苦しくなるほどの目力に、足が竦んだ。彼がこれまでに、どんなに周りから疎まれてきたのか想像してしまう。
アルの指が、おもむろに王城の頂上を差す。
「あの頂上からは、この王都を障害物なしに一望できるそうだ。唯一、国王になった者だけがあそこに立つことを許される。この国を見下ろすことができる。……さぞや気分がいいだろうな。想像しただけでも血が滾る」
「……それが、アルくんの夢……?」
彼が次期国王の座を狙っていることはわかっていた。けれど……これではまるで、己を疎んできた人々を、見返したいがためのようではないか。
「そうだ。俺は必ずこの国の王になってみせる。俺を軽んじ蔑み見下してきた奴らを、今度は俺が見下ろしてやる」
これまでにライラが出会ってきた、誰よりも強い口調と視線。
怒りと復讐。その二つが煙となって、アルの体を渦巻いているのだ。
けれどライラは思う。それを纏いながら生きるのは、とても苦しいことではないのかと。
彼に何か言わなくてはいけない。そう思ったけれど、ライラにはどんな言葉も思いつかなかった。アルが長年抱いてきた苦しみは、そう簡単に氷解することはないとわかっていたから。彼の苦しみを和らげる言葉を、ライラは持ち得ていない。
夢を叶えることで報われるのなら。ならばせめて、アルの抱く夢の邪魔だけはしたくない。
ずぶ濡れの足元が、彼の優しさを物語る。怒りと復讐を抱え、けれど強さと優しさも併せ持つ彼が、夢を叶える瞬間を見届けたい。
……まだ二番目の王子と謁見すらできていないのに、そんな風に思ってしまう。どうしたってアルのことは贔屓目に見てしまうのだ。ライラも自覚はしていた。
「……その夢が叶うことで、アルくんの心が救われるのなら、ボクは応援するよ、心から」
そう、アルの心が救われるのなら。
そして、今になってようやく理解した。
「アルくんがボクの話を信じない理由も、よくわかったよ。神様も呪いも信じない……信じたくないのなら、天使の話なんて信じられるわけがないよね」
悲しいことだけれど、仕方ないことだと溜め息を吐く。
「……お前の話の真偽は、俺にはわからない。正直、初めて聞いた時から胡散臭いとは思っていた」
アルの言葉に、ライラは首を傾げた。「思っていた」、とは。
「しかし『カノア』、か。その名前には聞き覚えがある。……明日、ジャノメイル教会に向けて出発することはおっさんから聞いているな? 実にタイミングの良いことだ」
そう言って、にやり。そこには純粋な、とか無邪気な、などとは程遠い、むしろ真逆の笑みがあった。
「胡散臭いことは、胡散臭い連中に聞くのが一番だ。そうだろう?」
おそらく多くの人は彼の笑顔を見て、「凶悪」の文字が頭に浮かぶことだろう。