『英雄物語』。
主人公は後に英雄となるアルフォンス。旅の仲間の一人であり、語り部でもある魚人族の女性・アマネ。
その二人が……作中で致していた。
何を致していたかといえば口づけやら肌を重ねる行為やらを、これでもかとばかりに仔細に。しかもそういった描写は一度や二度ではない。読んだことのない肉感的な描写の数々に、ライラの脳味噌は沸騰しそうだ。
黙りこくったライラを見て何かを察したのだろう。アルはため息混じりに切り出した。
「……おまえが読んでいたのは、児童向けに訳された簡易版だろうな」
「じ、児童向け? 簡易版? え、じゃ、『英雄物語』って、え……?」
「二千年近く前に書かれた、この国で最古の物語だ。……歴史的な文学作品ではあるが、官能的な……子供には少々刺激が強い描写も多い。だから児童向けに編集されたものも出版されている」
「へ、へぇ。そ……そうだったんだぁ……」
なんてことだ。アルの目の前で、そうとは知らずにそんな作品を読んでしまった。
けれどライラが慌てていたのは、それだけじゃない。
主人公のアルフォンスに好意を抱く女性は多い。その中の一人がお別れの場面でこう発言するのだ。「お慰みを」と。
偶然に開いたページに記されていたそのセリフ。どうやら作中でアルフォンスは情に流されて、その女性と肉体関係を築いてしまうらしい、のだが。
「お慰みを」……ジュリエットも口にしていた言葉だ。つまり彼女の言葉の真意とは文字通りの慰める、などではなくて。
「抱いてほしい」、ということに──。
「……うわあああっ!?」
気づいてしまったが最後、声を抑えることは不可能だった。なぜならその会話がされたのはちょうどこの部屋だったのだから。そういえば昨夜のジュリエットは胸元のリボンに指をかけていたような気もする。
欠けていたピースが嵌っていくたびに、ライラの心臓が大きく跳ねる。
『英雄物語』の生々しい描写の数々を思い出しては、今まで思いもよらなかったことを想像してしまった。何でもかんでもアルに関連して考えてしまうここ最近のクセが災いしたのだ。
アルは、好いた相手にどんなふうに口づけるのだろうか、とか。
彼の裸──とはいえ上半身だけではあるが──を見たことがあるだけに、余計なイメージが頭の中に湧いてしまう。
夜の彼を想像してしまう。きっとジュリエットも同じように想像したのだろう。彼に触れられることを、心から望んであのような発言を──。
「……お前は、すぐに顔が赤くなるな」
「むぇ!?」
気がつけば背後にアルが佇んでいた。これ以上ないくらい頬を真っ赤に染めたライラを、興味深そうに見下ろしている。互いの心臓の音が聞こえてきてもおかしくないくらいの至近距離だ。……まるで、キスでもされかねないほどの。距離を取ろうにも本棚とアルに挟まれた状態では、どうすることもできない──。
「あ、あ。アルくん。き、急に後ろに立たれるとびっくりするよ……っ!」
「……ほらよ」
「へっ……?」
ライラの頭上にすとんと下ろされたのは、一冊の本。受け取ってタイトルを見れば、見慣れた表紙と厚さ。……児童向けの『英雄物語』だ。
「お前には、まだこっちだろ。……エロガキ」
「!」
来年には一応成人なのに、だとか。子ども扱いしないで、だとか。エロガキなんかじゃないんですけど、だとか。声に出して反論したかったがそれもできない。わなわなと唇を震わせながら、真っ赤に染め上げられた頬を本で隠すことしかライラにはできなかった。
己を落ち着かせようと、児童向けの『英雄物語』を開く。クライマックスのアルフォンスとお姫様のキスシーンは、挿絵の効果も相まって感動的だ。後の創作にも大きな影響を与えたらしい、というアルの談も頷ける。
「……それにしても……呪われたお姫様を救うのはどうしていつも、王子様のキスなんだろうね?」
冷めたタイミングを見計らったのだろうか。ハーブティーの注がれたカップを手に取った彼。
「……さあな。サマになるからじゃないか」
「ふふ。なんだかそれって、夢がないなぁ……」
そのまま口に運んだ──途端、顔を顰め始める。
「……うっ……」
「ど、どうしたの、アルくん?」
「……ずいぶん、苦いな。よく眠れるとか言っていたがむしろ……目が冴えそうだぞ」
「え、そんなに苦いの?」
「過去最高にな。なんだってこんなものを淹れるんだ……。ジュリが茶葉を変えること自体、滅多にないことだろうに」
「へえ、そうなん、だ……」
その時、ライラは見た。
アルの背後の窓から覗く景色──。逆さまの巨塔が再び姿を現していたのだ。
巨塔が姿を見せるのは今日で二度目だ。これまでに、同じ日に二度姿を見せることは稀だったはず。
(あれ、また? 珍しいな……)
途端、ライラの背後に悪寒が走った。
(……今日、何回思った? 『
ここ最近はあまり出現していなかった天空の巨塔が、今日は二度も姿を見せた。
珍しい茶葉が手に入ったと口にしたジュリエット。茶葉を変えることもどうやら滅多になさそうなのに……なぜ、今日に限って。
さらに、今朝のダイニングルームにて、珍しくトレイを落としたジュリエット。あの時の話題はたしか、「毒」に関するものだったはず。
山育ちの勘が告げていた。「いつもと何かが違う」、「珍しい」は──危険だ。
そういう日は、決まって何かが起きる。それもたいていの場合は悪いことだ。
ライラは吸い寄せられるように、ティーポットの蓋を開けた。途端に強まる苦い香り。ひと粒だけ……たったひと粒だけ、煎じきれなかった何かが浮いている。
──イツシの種。
ティーポットの中身がそれだとわかった瞬間。
見間違い、勘違い。そんな希望的観測が脳内を駆け巡る。けれどもしそうじゃなかったら。これが本当にイツシの種だったとしたら。否、このティーポット内に漂う黒い粒がすべて、そうだったとしたら。
「──アルくん!!」
ライラは急いで振り返る。この短時間で、普段白いはずのアルの肌はどんどん土気色を増していく。吐き気を抑えているのか、唇を覆う仕草まで。
「だめ! 我慢しちゃだめ! 早く吐いて! 早く……!」
とうとう床に膝をついたアル。しかし彼はまだ何が起こっているのかよくわかっていないらしい。嘔吐に抵抗があるのか、肩を掴むライラを振り解くような動作をし始めた。
けれど事は一刻を争う。一秒、一瞬たりとも惜しい。
だから仕方なかった。
ライラはカバンから、王妃に貰った水筒を取り出す。中身のグミミジュースを一気に口に含むと、アルの首を掴んで固定させた。
サイファーに教わったことだ。こうすれば、顔を逸らされることはない。
唇を重ね、固く閉ざされたそこを無理矢理に開かせて、グミミジュースを注ぎ込む。
「──!?」
驚きに見開かれる琥珀色と目が合う。
勘違いならそれでいい、それが一番いい。どんなお叱りだって受けよう。そう覚悟しながら、アルの喉仏がしっかり上下したのをライラは手のひらの感覚で知る。
途端、唇が離れた。より正確に言うならアルに突き飛ばされたのだ。珍しく動揺した様子の彼は、乱暴に口元を袖で拭っている。しかし──、
「おま、え、なにを……っ!」
続きが紡がれることはない。苦悶の表情。アルの片手が、再び唇を覆う。
「っう……!」
「我慢しちゃダメだよ! 吐いて! 全部吐いて!!」
床に広がっていく吐瀉物。けれど一度の嘔吐では足りない。もっと、可能ならあと五回は吐かせたい。廊下に飛び出し、
「キッドさん! キッドさん!! 急いで! 急いでこっちに来て!」
ライラは叫ぶ。人生の中でもこんな大声を出したことはない。
「ライラちゃん、どうした!?」
ティーカップを片手に戻ってきたキッド。その表情は焦燥に満ちていた。
「お水を持ってきて! 毒です! 全部吐かせます!」
その一言からキッドの行動は素早かった。どこかへ失せたと思えば、即座に戻ってきた彼の手にはキッチンから持ってきたのだろう複数の水差し。
キッドと協力し、水を飲ませては吐かせ、吐かせては飲ませ……を何度も繰り返す。吐くものが胃液だけになるまで。