ホバークラフトは月の地表の凹凸を巧みに避けながら走行していく。だが、それでも時々、車体は、がたり、と大きく傾く。
「ねー、なんで、お月さまのじめんって、こんなに、がたがた、しているのー?」
不思議そうに首をかしげて、アイリーンが、言う。
すると、黙りこくったままのジーンに代わって、カナデが微笑みながら口を開いた。
「それはね、むかしむかし、お月さまには兎さんのお姫様が住んでいたのよ。そのお姫様には、たくさんのお婿さん候補がいたのだけれどね、みーんな、いざ、お月さまにやってくると、“こーんな暗い星でくらすのは、いやだー”って逃げていってしまったんたんだって。そのたびにお姫様は怒って、じたばた、地面の上で暴れたの」
そのカナデの言葉にアイリーンが瞳を、きらり、と輝かす。
「あー、アイちゃん、わかった! だからそれで、ますます、じめんが、がたがたになっちゃったんだねー」
「うふふ。アイリーンちゃん、頭良いね! そのとおり!」
カナデは宇宙服越しにアイリーンの頭を撫でる。
褒められたアイリーンはまんざらでもないという表情で、にかっ、と笑った。
「おねーちゃんこそ、ものしりだねー!」
「ありがと、アイリーンちゃん」
「ねえ、おねーちゃん、なんていう名前?」
「カナデおばさんよ」
アイリーンが再び、首をかしげる。
「……おばさん?」
「そうよ、カナデおばさん、よ」
「えー? なんで? おねーちゃんでしょ? ねえ、カナデおねーちゃん、って呼んでいい?」
するとカナデは一瞬、戸惑いの表情を閃かせたが、すぐに笑顔を戻し、アイリーンの顔を覗き込みながら言った。
「……うーん、まあ、そっか。まあ、いいか。いいよ、アイリーンちゃん」
「ありがと! あのね、私のことはアイちゃん、って呼んでいーから!」
「うふ。ありがとう、アイちゃん」
ジーンはそんなアイリーンとカナデの、たわいない会話を聞きながら、ただただ、車窓を、ぼーっ、と脱力したかのように眺めていた。
いや、実際には、ぼーっ、としていたわけではない。頭の中には、先ほどのニュース映像とナレーションが繰り返し、流れている。
同僚たちの血まみれの死体。変わり果てた姿のドロシーとデュマ。
おそらく、クオも殺されたのだろう。
しかし、どこか、現実感がない。
残虐すぎる光景を見ると、かえって意識は呆けてしまうものだな、と、ジーンは考える。
――
だが、あのときと異なるのは、今回の残酷な現実は、自分ひとりの問題ではない、ということだ。
ジーンは再び、ニュースのナレーションを思い返す。
あれが事実なら、自分たちを攻撃してきたのは、ユーラシア革命軍、つまりは自国の政府なのだ。
それが、収容所の職員を皆殺しにした。
つまり、国家反乱という無辜の罪を着せて、国は収容所の人間をまるごと抹殺したのだ。そして、その標的の中には、間違いなく、ジーン自身も含まれていたに違いない。
――国は、自分たちを、都合の悪い存在として消しにかかったのだろうか。
そう考えてみて、思い当たるのは、やはり、人体実験のための施設という、収容所の恥ずべき真の姿だ。その事実は、たとえ、戦地では公然と噂されているとはいえ、国家機密中の機密であることにはかわりないだろう。
そうすると、国は、人体実験の事実を隠蔽するために、自分たちを襲撃したのだろうか。そう考えれば腑に落ちる。
――だが、なぜ、このタイミングで?
ジーンは宇宙服の上から、ダークグレーの頭を軽く叩いた。
考えてみても、分からないことは分からない。だが、ジーンの推測が正しいとすれば、国に捕えられれば、間違いなく、少なくとも自分とアイリーンも、殺される運命にあるということだ。
カナデはどうなのであろうか。
彼女は人体実験の被害者では、ある。だが、ターンを遂げた今、カナデの存在は人体実験のまたとない証拠だ。そう考えると、やはり国にとっては都合の悪い存在に違いない。ならば、彼女も狙われていると思った方が良い。
なんせ、国は、職員の子どもたちでさえも容赦なく殺したのだ。難民だからといって、見逃すことはまず、ないだろう。
ともあれ、今の自分の任務は、愛娘アイリーンと、人体実験に巻き込んでしまったカナデ・ハーンを守ること、それしかない。そう、ジーンは覚悟を決めて、心に刻む。
――そのためには、ひたすら逃げるしかない。少なくとも、この月面からは。
そのとき、フロントガラスになにか、巨大な物体が映った。
途端に、ホバークラフトが急停車し、がたん、と大きく車体が揺れてカナデとアイリーンが悲鳴を上げる。
見れば、大型のホバークラフトが月面上に傾いて停車している。見たところ、軍用ではなく民間の車両のようだ。
だがジーンは油断せず、車内に持ち込んだ銃を咄嗟に掴んだ。
「外に出て、様子を見てきます。絶対に、車から降りないでいてください」
ジーンはそうカナデに言って、銃を構えながら、ホバークラフトの扉を慎重に開け、月面に、ふわり、と滑り出た。
傾いたホバークラフトの傍らでは、運転手であろうか、宇宙服を着た体格の良い男性が、傾いた車を元に戻すべく、ひとり、奮闘していた。
どうやら、月面のちいさなクレーターに車の足を取られ、車体ごと傾いてしまったらしい。
ジーンはひとまず、男性がユーラシア革命軍の関係者らしき人間ではなく、物資輸送の業者と判断して、銃を腰のホルダーに戻す。
そして、ジーンは、ふわりふわり、と慣れぬ月面を歩き、男性に近づいた。すると、ジーンの気配に気付いた男性が手を振る。手を貸して欲しい、との合図だ。
ジーンはこのアクシデントにどう対応すべきか迷った。
自分たちは、おそらく、追われている身である。果たして手を貸している暇があるのかどうか。事態は一刻を争っており、下手な情けは命に関わるのではないか。
しかし、こうして運転手と顔を合わせてしまった以上、このままこの場をやりすごし、逃走の続きに戻ったとしても、追っ手に自分たちの目撃情報を教えられてしまう恐れもある。
――ならば、この男を殺すべきなのか。俺たちが逃げ切るためには。
だが、結局、ジーンは短い逡巡の挙句、男性に手を貸すことにした。ジーンが傾いた車両に手を掛けると、男性の低く大きな声が宇宙服の通信マイクを通じて、ジーンの耳に飛び込んできた。
「おお、兄ちゃん、悪いね。どうも月の裏側は悪路でいけねえ」
それに対し、ジーンは無言で頷く。
こんなときでも、どこまでも
――こうなったからには、なんとかしてこの場を早く脱して、また逃げるだけだ。そうしないと、アイリーンとカナデの命にも関わる。
その一念でジーンは男の隣に陣取り、ホバークラフトを力一杯押した。その甲斐あって、程なく車体は平衡を取り戻す。
男性が心からの安堵の声で、ジーンに礼を述べる。
「ありがとう、兄ちゃん。これで動くはずだ」
ところが、問題はそれからだった。
男性がエンジンを何度ふかしても、何故かファンが空回りするばかりで、車体は正常に駆動しようとしないのだ。思わず男性とジーンは、どうしたものかと顔を見合わす。
そのとき、背後から急に声がした。
「私も、手伝いましょうか」
ジーンが驚いて振り向いてみれば、そこにはカナデが、いつの間にかにホバークラフトの外に出て、月面に立っていた。
「カナデ、危険だから、車の中にいてくださいと……」
ジーンは、慌ててカナデに言った。が、その言葉を遮ってカナデが、車体を一瞥するや、鋭く呟く。
「車体前部、右側のスカートに、石が数個挟まっているのが見えます。おそらく、それを取り除かないと、この車両は動かないかと」
「右スカートに?」
ジーンは半信半疑でカナデの示した箇所に、目を向ける。だが、砂埃にまみれたスカートに目をこらしても、ジーンの視界にはそれらしき石は見えない。
すると、戸惑うジーンの横に、二人の会話を耳にした男が近づいてきた。そして、その大きな身体をかがみ込ませ、素早く、車体のスカートを覗き込む。そして、驚いたように叫んだ。
「おー! 本当だ! 石が面倒な部分に何個も挟まってやがる。こりゃあ、動かないはずだ」
そして男性は一旦車内に戻り、バールのような器具を手にして出てくると、慣れた動作で、問題の箇所の石を細かく粉砕し、除去した。
そしてカナデに向かって言葉を放る。
「いやあ、姉ちゃん、良く気付いたねぇ」
「いえ。たまたま……見えたものですから」
「いやいや、普通の視力じゃ、あんな石、見えねえよ。ほんと、なんと礼を言ったら良いか。これでなんとか地球まで戻れるよ」
「地球?」
それまで、一連の男の作業をただ見つめるばかりでいた、ジーンの目が鋭く光った。
「あなたは、地球に向かう途中なのですか?」
すると男性は、ジーンの問いに応じ、こう答えた。
「ああ、そうだよ。俺は、ほら、この月面の裏側の軍施設に食糧やらを届ける、地球からの貨物便の運転手さ。いま、一仕事終えて、そこから戻ってきたところなんだよ。そしたら、宇宙港に戻る途中で車が傾いちまって、難儀していたってわけだよ。それが、なにかあんのか? 兄ちゃん?」
男はジーンを怪訝そうに見やる。
それを聞いた途端、ジーンは腹を括った。賭けかもしれないが、この成り行きに身を任せるしかない、と。
「頼みがある。俺たちを地球まで連れて行ってくれないか」
「ほぅ? 追われてでもいるのか、兄ちゃん?」
「ああ、そうだ。追われているんだ」
今度は、男の目が妖しく光った。宇宙服越しでも、明らかに分かるほどに。
「あんたらは、もしかして、今日、
「そうだ」
ジーンは震える声で男に答える。
そして、答えつつ、腰に下げていた銃を勢いよく手に取る。
「もし、断るなら、あなたをここで殺す」
そう言いながら、ジーンはゆっくりと銃口を男の大きな身体に向けた。
我ながら、様にならないことをやっているなと、意識のどこかで声がしたが、彼は必死だった。
だが、対する男は慌てる様子もなくジーン、そしてカナデに視線を投げつつ、数十秒ほど、その場に立ちつくす。やがて男がゆっくりと口を開いた。
「……まあ、いいだろう。もっとも、そんな危ないブツで脅されちゃ、選択肢はないがな」
「礼を言う」
すると男は、呆れたように低く苦笑した。平衡を取り戻した大型ホバークラフトを、ぐっと、右手の親指で指さしながら。
「えらい礼儀正しい乗っ取り犯だなあ、兄ちゃん。まあいい、乗れよ」