「わーい、こんどは、おおきな、くるまー!」
男は、ジーンに頭に銃を突きつけられたままの姿勢で、大型ホバークラフトの運転席に座っていたが、カナデがアイリーンを連れてきたのを見て、ぽかん、とした顔になり、そしてまた苦笑いを顔に浮かべた。
「おやおや、なんだい、こんな嬢ちゃんまで乗るのかい。まったく変わった乗っ取り犯だなあ、お前さんら」
「つべこべ言わずに、早く車を動かせ。時間がないんだ」
ジーンは銃を構えたまま、やや乱暴な口調で男に命じたが、いまいちその声には凶悪な乗っ取り犯、というには粗暴感が足りない。図らずも芝居の台詞のような不自然な声音になってしまい、男がたまらず吹き出しながら、運転席のパネルを操作する。
「笑うんじゃない」
「いやあ、脅されているはずなのに、なんだかな、違和感。せめて名前でも呼び捨てにされてみないと、緊迫感出ねえもんだな」
――緊迫感がまるでないのは、俺が脅しているはずのこの男も、まったく同様なのだが。
そう思いながらも、ジーンは思わず、生真面目に男に名前を尋ねてしまう。
「……なら、あんたの名を教えてくれ」
「そうだな、まだ名乗っていなかったな。俺はヴァンス・ウィルスン」
「じゃあ、ウィルスン、早く車を動かせ」
「お、いいね、兄ちゃん、様になってきた。でも、そんな他人行儀でなく、名前で呼んでくれてもいいんだぜ」
「……ヴァンス、早く行け」
「よし、では、乗っ取り犯さまに敬意を表して、出発だ」
そうヴァンスは言うと、エンジンを思いっきり作動させた。途端にホバークラフトは、月面を勢いよく走り出す。
その時、後部座席でアイリーンをあやしながら、ふたりの会話を聞いていたカナデが耐えきれぬというように、ぼそり、と漏らした。
「あなたたち、まるで漫才ね」
ジーンは思わず、銃を取り落としそうになった。
その頃、難民収容所ではクオが苦い顔で、特命部隊の隊長からの報告を聞いていた。
「ジーン・カナハラの遺体が見当たらないだと?」
「はっ、全ての研究員の遺体の、顔写真と指紋を照合したのですが、それらしき遺体がなく……」
「奴には娘がいただろう。そっちの遺体は調べたか?」
「アイリーン・カナハラですな。調べました。ですが、こちらも該当の遺体はなしです」
「本当かよ、あの優男め……」
血の匂いがまだ色濃く充満する研究所内の廊下にて、クオは思わず長髪をかきむしった。
「どうします、例の被験体の、カナデ・ハーンも行方不明となると、もしやこれは」
「奴ら、三人で逃げやがったか。してやられたな、俺としたことが」
それから、数秒の沈黙の後、クオは勢いよく踵を返す。もはや、その肩書きとは不釣り合いになった白衣が、ふわり、揺れる。
「ケセネス准佐。どこへ」
「将軍に報告してくる。この失策は、この作戦の根本にも関わってくることだからな」
クオはそう言い捨てると、ひとり、通信室に向かって、いまだ赤黒く染まったままの床を、靴音も高く歩き始めた。
十数分後、通信室のスクリーンに現われたのは、ユーラシア革命軍政府のセルジオ・タハ将軍であった。
タハは、クオからのジーンとカナデ逃亡の報を無表情に聞いていたが、報告を終えたクオに投げかけた声は、重く厳しいものだった。
「クオ・ケセネス准佐。君を、長年に渡りそこに送り込んでいたのは、私の間違いだったのだろうか。私は、君がそんな重大な失敗を犯すような人物とは、思ってはいなかったのだが」
「申し訳ございません。将軍」
クオは粛々と答えた。
幼い頃から慣れ親しんだタハの顔が、声が、今日ほどクオの心に重くのしかかかったことはない。スクリーンにまっすぐ投げた視線にも、口元にもいつものような不敵さはなく、彼は淡々と語を継ぐしかなかった。
「まったく言い逃れのしようのない、私のミスです。いかようにも、処遇して下さって結構です」
「君はいつものことながら、忠実で、真面目だな」
タハの顔が、僅かに柔和に緩んだ。
「准佐、まあ、良くはないが……。今回のミスは大目に見よう。我が陣営に厳しい状況が続くいま、君のような忠誠心の厚い人物を失うのは痛手なのでな」
「御大のご容態は、そんなにお悪いのですか?」
含みを持たせたタハの声に、思わずクオの声は震える。
それに対し、タハは重々しく顎を縦に振る。それを見て、クオはユーラシア革命軍政府が大きな混乱の淵にあることを、深く心に留めざるを得なかった。スクリーンの上に掲げられた、レ・サリの肖像画の慈愛に満ちた表情が、クオの心にいつも以上に大きく染み入る。
「ケセネス准佐。そういうわけだ」
「はい」
「だからこそ、我々にはなんとしても、あの薬、ターンの効能をしっかりと、我らのものにせねばならない」
「了解です」
「ならば、君のすることは、ただひとつだ。分かるな」
「逃亡した被験体を追うこと、それが私の新たな任務というわけですね」
「君は相変わらず、もの分かりが良い。子どもの頃からそうだな。朗報を、期待しているぞ」
そう言い残して、タハとの通信は切れた。
静寂の戻った通信室の中、クオはしばらくの間、漆黒の、何者をも映し出さぬスクリーンを凝視していたが、やがて、ぽつり、とその唇から決意の呟きを漏らした。
「カナデ・ハーン。それにジーン・カナハラ。逃げ切れると思うなよ。俺は、どんな手を使っても、お前らを捕えてみせる」