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第28話 思い出すは

 ごごご、ご。

 ご、ごごごごご。


 夜の風が森林を乱す。


 雪に埋もれた診療所のなか、夜勤中のことである。眠ることもできず、ランプのひかりの下で電子カルテの整理に勤しんでいたジーンは、吹き荒ぶ雪のなか、軍用橇のエンジン音が建物の前で止まったことに気が付いた。


 ――急患か。でも、珍しいな、こんな時間に巡視用の橇で運ばれてくるとは。


 ジーンは手にしていたカルテを机に戻すと、白衣を翻しつつ、急いで玄関へと足早に向かう。すると、顔馴染みの巡視兵のふたりが担架で、いま、まさに患者を運び込むところだった。開いたドアの隙間から、びゅう、と雪混じりの冷たい風が吹き込む。


「カナハラ中尉! こんな時間にすみません! 基地の近くの森の中で、倒れていた民間人を発見しまして!」

「分かった。意識はあるのか?」

「かろうじてあります。だいぶ、朦朧としていますが」


 彼らと会話をしながら、ジーンは運び込まれた患者を一瞥する。すると、意外なことにそれは小柄な女性だった。しかも、腹の膨らみが、毛布の上からも顕著に目立つ。

 ジーンは思わず、独り言つ。


「若い女、しかも妊娠しているのか? この腹の大きさだと臨月か?」


 すると女は微かに目を開いた。

 菫色の瞳が、ジーンを射る。ジーンは慌ててその瞼が閉じぬうちにと、女に声をかけた。


「お嬢さん、名前、それに年齢は?」

「レベッカ・バドトワ……。十八歳です」

「なんで、こんな時間、基地近くの森などに?」

「……仲間とはぐれてしまって」

「そうか、仲間というのは、難民のグループか?」


 レベッカは弱々しく頷いた。


 ――戦争難民か。


 ジーンはひとり納得する。このような辺境の基地には、こういった他の紛争地域から迷い込む難民は珍しくない。

 そんなことを考えているうちに、レベッカが呻き声を上げた。ジーンは、はっ、とした。気が付けば、彼女の下半身の毛布がしっとりと濡れている。


「破水?」


 すると、レベッカが苦悶の表情を浮かべつつ、消え入りそうな声で言った。


「はい……今日、あたり、産ま、れるか、と」

「そうか」


 ジーンは正直困ったことになったな、と思いつつ、慌てて頭の中で医学書の産科のページを捲る。産科の医官を呼んでいる暇はなさそうだ。


 ――俺が取り上げるしかないか。


 ジーンは腹を括り、顔を顰めるレベッカの手を握り、囁いた。


「安心していてくれ、レベッカ。私が、元気な赤ちゃんを取り上げてみせるから。だから頑張ってくれ」


 すると、レベッカは、微かに笑った。


 診療所に元気な赤子の声が響いたのは、翌朝遅くのことだった。



 赤子は女子だった。

 レベッカはその子にアイリーンと名をつけた。


 産後の経過が思わしくなかったレベッカは、診療所に併設された軍病院に暫く入院し、その間にその身柄をどうするか、入管局によって判定されることとなった。


 その入院期間、およそ一ヶ月半にわたり、ジーンは図らずもアイリーンを取り上げた縁から足繁く、レベッカを見舞った。そのうち、ジーンの心中に、レベッカに対し、単なる患者に対する感情とは違った念が浮かんだのは、自然なことだったといえよう。


 ジーンは、レベッカに次第に惹かれていった。

 くりっ、とした菫色の瞳、茶色のくせ毛。静かに響く鈴のような笑い声。彼女と出会って以来、殺伐とした基地勤めのジーンには、レベッカとアイリーン母娘が、日々の癒しそのものになった。


 そして、レベッカの退院の日取りが見えてきた頃、ジーンは心を決める。


 その日、彼女のベッドの上に、ばさり、と基地の外から取り寄せた紅い薔薇の花束を置いて、彼は恐る恐る、レベッカを見つめながら告げた。


「レベッカ、私と……結婚して……くれないか」


 レベッカは、はにかみながらも、菫色の瞳を潤ませて、こくり、と首を縦に振った。



 ジーンとレベッカが基地内でささやかな式を挙げ、同じ宿舎で暮らし始めてから、約二年が経った。


 結婚してからも、ジーンはアイリーンの父が誰であるかを敢えて、問わなかった。彼女の言葉の端々から想像するに、レベッカがアイリーンを望んで妊娠したわけでないことは、想像に難くなかったからだ。


 だが、そんなことはさして問題にならないほどに、三人は、仲睦まじく暮らしていた。

 少なくとも、ジーンは幸せだった。

 これ以上望むものも、ないほどに。


 しかし、それが覆るのも、唐突であった。

 春の兆しが見えた三月のある日、ジーンはいきなり基地の軍上層部に呼ばれた。訝しがりながら、入室した彼に伝えられたのは、意外、且つ、残酷極まりない現実だった。


「ジーン・カナハラ中尉。君の妻であるレベッカに、連合軍のスパイ疑惑が掛かっている」

「先に逮捕されたスパイが、彼女と協力関係にあったと、自白した」

「その男は、おそらく、彼女の娘の父親に当たる人物だ」


 突然のことに唖然としながら、ジーンは家路を辿る。

 ジーンは、家に帰るや否や、彼を満面の笑顔で迎えたレベッカを質した。


「レベッカ、嘘だよな。お前が、連合軍のスパイで、アイリーンの父と通じていたなんて」


 ジーンは信じていた。レベッカが、そんなことあるわけないじゃない、と、ころころと鈴の音のように笑い、否定することを。

しかし、彼の前でレベッカは俯いて、顔を顔張らせた。そして、しばらくの後、震える声でちいさく、囁いた。


「ジーン……許して」


 ジーンは呆然としつつ、無意識に腰から銃を手にとる。そして、気がつけば、ジーンはレベッカの身体に銃口を押しつけていた。


「嘘だよな、嘘だよな」

 だが、レベッカは悲しげな顔で、わなわな、と顔を震わせるのみだ。


「嘘だ、嘘だよな! ……嘘と言ってくれ! レベッカ!」


 レベッカは怯えて、その身を硬直させたままだ。

 ジーンは慄然とした。


 そして、渦巻く感情のまま、大声で何かを叫ぼうとした。そのとき、思いもよらず、銃の引金に置いた指に、力が入った。


 響き渡った銃声の後、レベッカの身体が、ゆっくり、ゆっくりと床に崩れていくのを、ジーンは他人事のように見つめる。そう、スローモーションの、映画の一コマのように。

 レベッカの胴から血が噴き出すのも、まるで、夢の中の、出来事であるかのように。


 そして、彼女が首から下げた、銀のロケットペンダントが赤く染まりながら、ゆらり、ゆらりと、揺れるのも。

 隣の部屋から聞こえてくる、アイリーンの泣き声も、どこか虚ろに、耳に響く。


 だが、レベッカの掠れた声が、鼓膜を打ったとき、彼は我に返った。

 彼女の、最期の言葉は「ありがとう」だった。

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