ごごご、ご。
ご、ごごごごご。
夜の風が森林を乱す。
雪に埋もれた診療所のなか、夜勤中のことである。眠ることもできず、ランプのひかりの下で電子カルテの整理に勤しんでいたジーンは、吹き荒ぶ雪のなか、軍用橇のエンジン音が建物の前で止まったことに気が付いた。
――急患か。でも、珍しいな、こんな時間に巡視用の橇で運ばれてくるとは。
ジーンは手にしていたカルテを机に戻すと、白衣を翻しつつ、急いで玄関へと足早に向かう。すると、顔馴染みの巡視兵のふたりが担架で、いま、まさに患者を運び込むところだった。開いたドアの隙間から、びゅう、と雪混じりの冷たい風が吹き込む。
「カナハラ中尉! こんな時間にすみません! 基地の近くの森の中で、倒れていた民間人を発見しまして!」
「分かった。意識はあるのか?」
「かろうじてあります。だいぶ、朦朧としていますが」
彼らと会話をしながら、ジーンは運び込まれた患者を一瞥する。すると、意外なことにそれは小柄な女性だった。しかも、腹の膨らみが、毛布の上からも顕著に目立つ。
ジーンは思わず、独り言つ。
「若い女、しかも妊娠しているのか? この腹の大きさだと臨月か?」
すると女は微かに目を開いた。
菫色の瞳が、ジーンを射る。ジーンは慌ててその瞼が閉じぬうちにと、女に声をかけた。
「お嬢さん、名前、それに年齢は?」
「レベッカ・バドトワ……。十八歳です」
「なんで、こんな時間、基地近くの森などに?」
「……仲間とはぐれてしまって」
「そうか、仲間というのは、難民のグループか?」
レベッカは弱々しく頷いた。
――戦争難民か。
ジーンはひとり納得する。このような辺境の基地には、こういった他の紛争地域から迷い込む難民は珍しくない。
そんなことを考えているうちに、レベッカが呻き声を上げた。ジーンは、はっ、とした。気が付けば、彼女の下半身の毛布がしっとりと濡れている。
「破水?」
すると、レベッカが苦悶の表情を浮かべつつ、消え入りそうな声で言った。
「はい……今日、あたり、産ま、れるか、と」
「そうか」
ジーンは正直困ったことになったな、と思いつつ、慌てて頭の中で医学書の産科のページを捲る。産科の医官を呼んでいる暇はなさそうだ。
――俺が取り上げるしかないか。
ジーンは腹を括り、顔を顰めるレベッカの手を握り、囁いた。
「安心していてくれ、レベッカ。私が、元気な赤ちゃんを取り上げてみせるから。だから頑張ってくれ」
すると、レベッカは、微かに笑った。
診療所に元気な赤子の声が響いたのは、翌朝遅くのことだった。
赤子は女子だった。
レベッカはその子にアイリーンと名をつけた。
産後の経過が思わしくなかったレベッカは、診療所に併設された軍病院に暫く入院し、その間にその身柄をどうするか、入管局によって判定されることとなった。
その入院期間、およそ一ヶ月半にわたり、ジーンは図らずもアイリーンを取り上げた縁から足繁く、レベッカを見舞った。そのうち、ジーンの心中に、レベッカに対し、単なる患者に対する感情とは違った念が浮かんだのは、自然なことだったといえよう。
ジーンは、レベッカに次第に惹かれていった。
くりっ、とした菫色の瞳、茶色のくせ毛。静かに響く鈴のような笑い声。彼女と出会って以来、殺伐とした基地勤めのジーンには、レベッカとアイリーン母娘が、日々の癒しそのものになった。
そして、レベッカの退院の日取りが見えてきた頃、ジーンは心を決める。
その日、彼女のベッドの上に、ばさり、と基地の外から取り寄せた紅い薔薇の花束を置いて、彼は恐る恐る、レベッカを見つめながら告げた。
「レベッカ、私と……結婚して……くれないか」
レベッカは、はにかみながらも、菫色の瞳を潤ませて、こくり、と首を縦に振った。
ジーンとレベッカが基地内でささやかな式を挙げ、同じ宿舎で暮らし始めてから、約二年が経った。
結婚してからも、ジーンはアイリーンの父が誰であるかを敢えて、問わなかった。彼女の言葉の端々から想像するに、レベッカがアイリーンを望んで妊娠したわけでないことは、想像に難くなかったからだ。
だが、そんなことはさして問題にならないほどに、三人は、仲睦まじく暮らしていた。
少なくとも、ジーンは幸せだった。
これ以上望むものも、ないほどに。
しかし、それが覆るのも、唐突であった。
春の兆しが見えた三月のある日、ジーンはいきなり基地の軍上層部に呼ばれた。訝しがりながら、入室した彼に伝えられたのは、意外、且つ、残酷極まりない現実だった。
「ジーン・カナハラ中尉。君の妻であるレベッカに、連合軍のスパイ疑惑が掛かっている」
「先に逮捕されたスパイが、彼女と協力関係にあったと、自白した」
「その男は、おそらく、彼女の娘の父親に当たる人物だ」
突然のことに唖然としながら、ジーンは家路を辿る。
ジーンは、家に帰るや否や、彼を満面の笑顔で迎えたレベッカを質した。
「レベッカ、嘘だよな。お前が、連合軍のスパイで、アイリーンの父と通じていたなんて」
ジーンは信じていた。レベッカが、そんなことあるわけないじゃない、と、ころころと鈴の音のように笑い、否定することを。
しかし、彼の前でレベッカは俯いて、顔を顔張らせた。そして、しばらくの後、震える声でちいさく、囁いた。
「ジーン……許して」
ジーンは呆然としつつ、無意識に腰から銃を手にとる。そして、気がつけば、ジーンはレベッカの身体に銃口を押しつけていた。
「嘘だよな、嘘だよな」
だが、レベッカは悲しげな顔で、わなわな、と顔を震わせるのみだ。
「嘘だ、嘘だよな! ……嘘と言ってくれ! レベッカ!」
レベッカは怯えて、その身を硬直させたままだ。
ジーンは慄然とした。
そして、渦巻く感情のまま、大声で何かを叫ぼうとした。そのとき、思いもよらず、銃の引金に置いた指に、力が入った。
響き渡った銃声の後、レベッカの身体が、ゆっくり、ゆっくりと床に崩れていくのを、ジーンは他人事のように見つめる。そう、スローモーションの、映画の一コマのように。
レベッカの胴から血が噴き出すのも、まるで、夢の中の、出来事であるかのように。
そして、彼女が首から下げた、銀のロケットペンダントが赤く染まりながら、ゆらり、ゆらりと、揺れるのも。
隣の部屋から聞こえてくる、アイリーンの泣き声も、どこか虚ろに、耳に響く。
だが、レベッカの掠れた声が、鼓膜を打ったとき、彼は我に返った。
彼女の、最期の言葉は「ありがとう」だった。