ざーん、ざーん。ざざーん。
遠くから森の木々が風に揺れる音が聞こえる。
――い、や、違う。あの音は、違う。
ざーん、ざざーん。ざーん。ざざーん。
――あれは、あれは、波の音だ。それも、オホーツク海の荒い波の音だ。
その残響に導かれるように、ジーンはゆっくりと目を開けた。見知らぬ木の天井が、視界に溶け込んでくる。
――ここは、どこだ。
彼は不確かな意識のまま、身じろぎしようとした。が、その途端、腹部に燃えるような痛みが走る。
「ぐっ!」
――そうだ、俺はレベッカに刺されて、海に落ちて……それから……どうなった? どうなった?
そこまで思考を巡らせて、初めて彼は腹部に包帯が巻かれているのに気付く。包帯からは、消毒液の匂いが漂ってくる。
「気が付いたか」
急に枕元で男の声がして、ジーンは、びくり、とその方向に顔を動かした。そこには、琥珀海岸にてユーリと名乗った村人が椅子に座ってこちらを窺っていた。室内にはサモワールの湯気が漂っているところをみると、ここは彼の家なのだろうか。
「……あなたが、私を?」
「浜じゃ、騙すようなことをしてすまなかった」
「騙す……ような、こと……」
「お前さんたちを引き止めておけという、ケセネス准佐の命令だったんだ。許してくれ、俺らは、ここの奴らには逆らえん立場でな」
「ここの奴ら?」
「研究所の連中だよ」
「え、じゃあ、ここは研究所……なのですか?」
驚きを隠せないジーンに向かって、ユーリは頷く。
「ああ、離れだがな。俺はこの村の世話役として、研究所の管理人もしている。あんたを匿うのにどこが良いか迷ったのだが、まあ、灯台もと暗し、ということで、お前さんを、ここに連れてきたわけだ」
ぼんやりとしたまま、ユーリの言葉を、譫言のように復唱していたジーンの頭の中に、改めて、気を失う直前までの出来事が蘇ってくる。
「……! アイリーンとカナデは!」
「連れて行かれた。ケセネス准佐とその部下の女にな。いまごろは、おそらく研究所の本部に監禁されているだろう」
それを聞いてジーンは大きく息を吐いた。やはり、クオとレベッカからは逃げきれなかったのか。ふたりとも、殺されてはいないだろうか。寝台に横たわりながらも、ジーンの心は黒く淀む。
すると、ユーリが思いがけないことを言った。
「あんたの娘は分からないが、あの女性は、まだ無事だと思う」
「カナデのことですか? その根拠は?」
「ジーン、あのカナデってのは、ターンの被験体だろう?」
「そのとおりです。良く分かりますね」
「俺もターンの被験体だ。仲間同士ってのは、ま、だいだい勘で分かる」
そこでようやく、ジーンは、この村全体が被験体で構成されていることを思い出す。
「ターンの完璧な被験体っていうのは、なかなか貴重なんだ。俺はこの目で見てきたから、知っている。何人もの村人が、ターンの実験をされては、死んでいった。俺だって生き延びてはいるものの、いつ死ぬかは分からん。それでも、被験体としては重宝されている。……ほら、この通りだ」
ユーリは右腕の袖をまくった。そこには無数の注射痕がある。思わず目を背けたくなるほどに、痛々しく。
「ついでに言えば、リ・ターンの薬っていうのは、もともとはターンの被験体の延命のための薬を作る副産物で生まれたやつなんだ。ほら、あんたを刺した女も打たれていた薬だ。あと、うちの孫娘もそうだが」
「なんてことを……」
ジーンの心に怖気が走る。
噂には聞いていたが、結局、月の裏側、だけではなかったのだった。軍は、このような辺境の村でも、大々的にターンの人体実験を行っていたのだった。ターンの実験拠点は、月の収容所のみならず、複数、ユーラシア革命軍掌握地に存在していて、各地の研究所が競ってその成果を上げようと、人体実験に狂奔していたのだ。
そして、その副産物で、リ・ターンなる薬まで生まれ、死んだとばかり思っていたレベッカも、知らぬうちにその被験体となっていた。
――なぜ、我が国は、こんなことを、
「すべては、レ・サリ元首のためだ」
ユーリがジーンの自問自答を見透かしたように、唐突にそう漏らした。ジーンは目を見開く。それからしばしの間、サモワールが湯気を立てる音だけが、ふたりの間に響き渡っていた。
やがて、ユーリは声を一段とちいさくして、なんとも驚くべきことを言ってのけた。
「元首はいま、ここの研究所の一室に入院している。詳細は分からないが、容態は思わしくないと、つい先日、研究員が漏らしていた」
「レ・サリ元首が、ここに?」
「そして、こうも言っていた。……だから、我々はターンの薬の完成を、一刻も早く成し遂げねばならない、と」
そこまでユーリが話し終えたとき、複数の人間の気配とともに、部屋の扉が乱暴に押し開けられた。