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第29話 我が元首

 ざーん、ざーん。ざざーん。

 遠くから森の木々が風に揺れる音が聞こえる。


 ――い、や、違う。あの音は、違う。


 ざーん、ざざーん。ざーん。ざざーん。


 ――あれは、あれは、波の音だ。それも、オホーツク海の荒い波の音だ。


 その残響に導かれるように、ジーンはゆっくりと目を開けた。見知らぬ木の天井が、視界に溶け込んでくる。


 ――ここは、どこだ。


 彼は不確かな意識のまま、身じろぎしようとした。が、その途端、腹部に燃えるような痛みが走る。


「ぐっ!」


 ――そうだ、俺はレベッカに刺されて、海に落ちて……それから……どうなった? どうなった?


 そこまで思考を巡らせて、初めて彼は腹部に包帯が巻かれているのに気付く。包帯からは、消毒液の匂いが漂ってくる。


「気が付いたか」


 急に枕元で男の声がして、ジーンは、びくり、とその方向に顔を動かした。そこには、琥珀海岸にてユーリと名乗った村人が椅子に座ってこちらを窺っていた。室内にはサモワールの湯気が漂っているところをみると、ここは彼の家なのだろうか。


「……あなたが、私を?」

「浜じゃ、騙すようなことをしてすまなかった」

「騙す……ような、こと……」

「お前さんたちを引き止めておけという、ケセネス准佐の命令だったんだ。許してくれ、俺らは、ここの奴らには逆らえん立場でな」

「ここの奴ら?」

「研究所の連中だよ」

「え、じゃあ、ここは研究所……なのですか?」


 驚きを隠せないジーンに向かって、ユーリは頷く。


「ああ、離れだがな。俺はこの村の世話役として、研究所の管理人もしている。あんたを匿うのにどこが良いか迷ったのだが、まあ、灯台もと暗し、ということで、お前さんを、ここに連れてきたわけだ」


 ぼんやりとしたまま、ユーリの言葉を、譫言のように復唱していたジーンの頭の中に、改めて、気を失う直前までの出来事が蘇ってくる。


「……! アイリーンとカナデは!」

「連れて行かれた。ケセネス准佐とその部下の女にな。いまごろは、おそらく研究所の本部に監禁されているだろう」


 それを聞いてジーンは大きく息を吐いた。やはり、クオとレベッカからは逃げきれなかったのか。ふたりとも、殺されてはいないだろうか。寝台に横たわりながらも、ジーンの心は黒く淀む。

 すると、ユーリが思いがけないことを言った。


「あんたの娘は分からないが、あの女性は、まだ無事だと思う」

「カナデのことですか? その根拠は?」

「ジーン、あのカナデってのは、ターンの被験体だろう?」

「そのとおりです。良く分かりますね」

「俺もターンの被験体だ。仲間同士ってのは、ま、だいだい勘で分かる」


 そこでようやく、ジーンは、この村全体が被験体で構成されていることを思い出す。


「ターンの完璧な被験体っていうのは、なかなか貴重なんだ。俺はこの目で見てきたから、知っている。何人もの村人が、ターンの実験をされては、死んでいった。俺だって生き延びてはいるものの、いつ死ぬかは分からん。それでも、被験体としては重宝されている。……ほら、この通りだ」


 ユーリは右腕の袖をまくった。そこには無数の注射痕がある。思わず目を背けたくなるほどに、痛々しく。


「ついでに言えば、リ・ターンの薬っていうのは、もともとはターンの被験体の延命のための薬を作る副産物で生まれたやつなんだ。ほら、あんたを刺した女も打たれていた薬だ。あと、うちの孫娘もそうだが」

「なんてことを……」


 ジーンの心に怖気が走る。


 噂には聞いていたが、結局、月の裏側、だけではなかったのだった。軍は、このような辺境の村でも、大々的にターンの人体実験を行っていたのだった。ターンの実験拠点は、月の収容所のみならず、複数、ユーラシア革命軍掌握地に存在していて、各地の研究所が競ってその成果を上げようと、人体実験に狂奔していたのだ。


 そして、その副産物で、リ・ターンなる薬まで生まれ、死んだとばかり思っていたレベッカも、知らぬうちにその被験体となっていた。


 ――なぜ、我が国は、こんなことを、のだろう。


「すべては、レ・サリ元首のためだ」


 ユーリがジーンの自問自答を見透かしたように、唐突にそう漏らした。ジーンは目を見開く。それからしばしの間、サモワールが湯気を立てる音だけが、ふたりの間に響き渡っていた。


 やがて、ユーリは声を一段とちいさくして、なんとも驚くべきことを言ってのけた。


「元首はいま、ここの研究所の一室に入院している。詳細は分からないが、容態は思わしくないと、つい先日、研究員が漏らしていた」

「レ・サリ元首が、ここに?」

「そして、こうも言っていた。……だから、我々はターンの薬の完成を、一刻も早く成し遂げねばならない、と」


 そこまでユーリが話し終えたとき、複数の人間の気配とともに、部屋の扉が乱暴に押し開けられた。

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