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第39話 罪人が天に召された日

 カナデは白い息を冷気に散らしながら、ただひとり、人気のない村のちいさな墓地に足を踏み入れた。そして迷いのない足取りで雪を踏みしめ、まっすぐに目的の墓へと歩を進める。


 辿り着いた黒い墓石には、すでに雪の結晶が凍り付いていた。降りしきる雪の中、カナデはその上にかがみ込むと、手袋を外し、皺が深く寄った素手で墓石の表面から雪を取り除く。すると、墓石に刻まれた文字が姿を現した。


「ジーン・カナハラ 二六一一―二六四四」


 カナデは淡い琥珀色の瞳でその文字を追いながら、凍えきって感覚を無くした指先で刻印をなぞる。そして、携えてきた百合の花束をそっ、と供え、両手を組んで祈りを捧げる。


 雪が地面に落ちる音しか響かぬ静かな空間で、カナデは長いことその姿勢のままでいた。冷えた空気が、コートの下の彼女の老いた身体に、容赦なく染み渡る。それでもカナデは、祈り続けることを止められなかった。

 やがて、彼女はちいさく唇を動かした。白い息とともに、故人への懺悔の言葉が漏れる。


「ごめんね、ジーン。今年もアイちゃんを連れてこられなくて」


 そう囁きながら、カナデは再び、墓石に刻まれたその名前を指でなぞった。


「でも、あなたがどんなにアイちゃんを愛していたかは、この私が知っているから。彼女もきっと、それを分かってくれる日がきっと……来ると思う。だから……ジーン、哀しまないでね」


 びゅう、と強い風が雪を巻き上げる。天候はすでに吹雪の様相だ。頬を冷たく白い粉に叩かれ、カナデはよろよろと立ち上がった。地表に置かれたユリの芳香だけが場違いな華やかさで匂い立ち、カナデの鼻腔をくすぐる。

 カナデは激しくなる一方の雪に打たれながら、その瞳を白い不機嫌な空に向けた。


「あなたが天に召された日の空も、こんな色をしていたわね、ジーン」


 むろん、その声に答える者はいない。しかし、カナデの胸の内では、ジーンの申し訳なさそうな声が聞こえたような気がした。


 ――そうでしたね。カナデ。私は、あなたには最期まで、情けないところを、見せてばかりでした。


 カナデの淡い琥珀色の瞳がやりきれなさに濡れる。彼女の脳裏には、十三年前の出来事が鮮やかに蘇りつつあった。




「カナデおばちゃん、ねぇ、今日おとーさん、おそいねぇ」


 湯気を立てるサモワールを見ながら、アイリーンがぽつり、と呟いて、カナデは編み物に集中していた手を止めた。そう言われて時計に目をやれば、もう十七時を過ぎている。金曜日の今日、診療所は十六時に閉めるはずだから、たしかにいつもだったら、ジーンはもう帰宅していても良いはずだ。窓の外はすでに夕闇に閉ざされ、室内にも雪が降る気配がしんしんと伝わってくる。


「今日は週末だから、患者さんで混んだのかしら。アイちゃん、じゃあ、おばちゃんとお父さん迎えに行こうか」

「そーする! おとーさん、おしごといっぱいして、えらーいって、アイちゃんほめてあげるんだー!」


 カナデの声にアイリーンはにかっ、と満面の笑みで答えた。それから、ちいさな足を動かして、玄関に掛けられていた自分のコートを取りに行く。そして足早にリビングに戻ってきた時には、カナデのコートをも手にしていた。


「アイちゃん、ありがとう!」


 カナデはコートを受け取りながら、アイリーンの茶色いくせ毛を撫で回した。撫でながら、アイリーンの身長が五歳の誕生日を迎えた先日より伸びていることに気づき、カナデは思わず目を細める。コートに袖を通しながらカナデは、リビングの隣にあるレベッカの寝室に視線を投げる。いつも様子が分かるようにと、細く開けられたドアの隙間からはレベッカの寝息が聞こえた。それは規則正しいもので、カナデは安心してレベッカを置いて家を留守にすることにする。


 アイリーンと並んでドアを開けると、びゅう、と冷気と雪が吹き込んでくる。しかし、大好きな父にもうすぐ会えるアイリーンの顔は、心から嬉しそうにほころんでいた。カナデはアイリーンの手を握り、頼りない照明に照らされた夕暮れの田舎道を歩き始める。


 異変に気付いたのは、十分ほどジーンの診療所に向かって歩を進めた頃であろうか。田舎道に沿う人家が一旦絶え、林と丘陵が道の両側に広がっている箇所に差掛かった時である。そんな場所であるから、いつもは人気など無いのに、なぜか、その日は暗くなった道の中央に黒い人だかりが出来ているのが見える。

 カナデは、ふと不吉な予感がして、アイリーンの手を咄嗟に強く握り、立ち止まった。


「カナデおばちゃん?」


 急に立ち止まったカナデの頬に、アイリーンの菫色の瞳が投げられる。だが、その時、既に、カナデは風に乗って運ばれてくる、大きな男の声に意識を奪われていた。人だかりの中心に立ったふたりの覆面の男が、声高になにかを叫んでいる様子が夜目にもはっきりと分かった。

 そして、その男たちの手にはライフルが握られており、なにかの液体で黒く澱んだ彼らの足元には、人らしきものが横たわっているのも。


 カナデの神経は凍り付いた。

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