暗がりのコケが生い茂り空虚な乾きがしきりに流れる、静かな水路があった。

　そこにはたゆたう汚水のせせらぎと人の急いた呼吸が反響していて、耳を澄ませばその音がだんだん近づいてきているのが分かった。

　小さな水滴により広がる波紋たちがその音で優しく揺れ、そして暗がりから、壁にかけられた灯りに目掛け一人の少年が頭を出した。

　少年は虚ろな瞳をしていた。

　身から発する疲れと、深みのある絶望のオーラがそこにあるかのように感じられ、貧相でやせ細った体は今にもぱたりと倒れて死んでしまってもおかしくない。人によっては目を覆いたくなるような、痩せて臭く泥が体の所々で固まっている極めて不潔な姿をしていた。

　ただ少年はそれでも、いつ倒れてもおかしくない風貌でも、瞳の中に小さく蠢くものにはっきり突き動かされて、朦朧と灯りを目指しおぼつかない歩みを続けた。

　その瞳には、まだあの激しい地獄が焦げ付くように残っていて、脳裏にちらつく罵声と理不尽な慟哭が少年の心を蝕み……しかし少年はそれでも、今すぐ命を絶ちたい苦しみを感じていても決して止まろうとはしなかった。

　はっとした。眼前に現れた人影をみつけ、少年は止まった。

「――――」

　少年は人影を焦点を合わせず視界の端の方で発見した。

　そして刹那、全身が凍りつくような戦慄を覚えた。

　口を開こうとしたが言葉が出ない。

　震える唇だけがパクパクと動いた。

　するとその人影はゆっくりと少年の元へ歩いてきて。

「――ゎ」

　少年の服を掴み上げて、真っ赤な眼光を向けてきた。

　その赤い瞳には、少年の知らない激情が、宿っていた。

　＊

　西のカシーアのとある宿。真紅の瞳に細い体つきをした女が、イラついた顔で宿に入った。

　彼女は入口付近で無意味にたむろしている他の冒険者に舌打ちをし、灰色のローブを脱いで水滴を叩き払う。

　外で降っていた大雨のせいで服がびしょびしょになってしまった事が、彼女の余裕を奪っていた。

　彼女はひとつため息をつき息を整えた。

　そうして表情を作って、カウンターへと歩を進めた。

「一〇二を借りているシャルロットよ。鍵を貰っても？」

　彼女は『シャルロット』と名乗りカウンターにいる女店員に話しかけた。

　女店員は気が付くと「お帰りなさいませ」とはにかんで云う。

「一〇二のシャルロット様ですね。合言葉を」

「西のカシーアには馬鹿ばっか」

「そんな合言葉にした覚えはありません」

　シャルロットの悪戯顔を女店員は無視し、慣れたように悪ノリを捌いた。

　そんな女店員に味気なさを感じたのか、シャルロットは「ちぇ」と言葉を吐き捨てる。

「もう、釣れないわね」

「こちらは仕事ですので」

　店員の一本線の細目はまるで一寸たりとも緩まる事はなかった。

　彼女はひとり落ち着く雨音が響く廊下を歩いてバーの二階へと移動した。

　受け取った鍵に刻まれた数字の部屋へ到着すると、その部屋の前で濡れたローブを畳んでから、扉の鍵を開いた。すると中から声がした。

「あ、おかえりなさい」

　あどけなさを隠し切れていない可愛らしい容姿をした、ブロンド髪の少年が椅子に座っていた。

　その手には『輝かしき魔術の旅よ』というタイトルの本を開いていた。

　シャルロットはローブを腕にかけ、レザーアーマーを脱いで水滴を拭きながら口を開いた。

「ただいまカル。ご飯は食べた？」

「食べたよ。まだ食べられるけど」

「それならよかった。丁度私もお腹が減っていたから一緒に食べましょ」

　シャルロットはそう言いながら部屋の奥へ進んだ。

　そんな彼女に少年は背を向け本を捲りながら呟く。

「でも、シャルロットご飯食べて来たんだよね？　食べ過ぎは太っちゃうよ」

「うるさいわ～」

　他愛のない会話をして、シャルロットは個室に入った。

　白いシャツと灰色の短パンを脱ぎお風呂の準備を始める。

　今借りている部屋には風呂、キッチン、寝床、机とそれなりに住める一式が揃っていて、このあたりの宿の中でも贅沢な部屋となっている。

　料金は高いが、少なくとも彼女にとってお風呂付きというのは大切な要素だった。

　彼女にとって風呂は必要な『儀式』だ。

　故に、たまにお金がないのに無理にこういった高級宿に泊まろうとする。

　それのせいで貯蓄が少なく、未だに日々外へ繰り出しせこせこ依頼をこなしているのだが。

　そういう散財をとくに少年は不満に感じているが、譲れないものも人にはあると無理やり通されている。

「ねえシャルロット、まだ依頼は終わってないよね」

　とつぜん脱衣所に顔を覗かせたのは、少年だった。

　少年は目を丸くした。シャルロットは何も着ていなかった。

「え、ちょ！　見ないでよ！」

　そうあたふたと身をよじり全裸のまま急いで浴槽に駆け込んだ。

　その必死な様子をみて少年は息を落とした。

「誰があんな細い体に欲情するの……？」

「ハアン⁉　うるっさいわね！　カル！」

「やべ」

　ぼそっと言ったつもりだったのに、シャルロットの地獄耳は恐ろしい。

　とカルは収斂してそそくさとリビングへ身を引いた。

　＊

　蒸気を頭から吹かして小言を呟く彼女を横目に、カルは椅子に座った。

　そのカルの座った机には見た目がいい料理が並んでいて、少年はお腹を鳴らす。

　とはいえ、眼前の彼女が怒り心頭なのは見て取れた。

「そんなに怒ることなの？」

　カルは首を傾げる。

「当たり前でしょ、レディなのよ、淑女なのよ」

　とシャルロットは憤慨した。

　面倒だという感想を内面に仕舞い、カルは言う。

「……別に僕は何も思わないからいいじゃん？」

「カルが何も思わなくても、私は気にするの」

　と語気を強めて彼女は椅子に乱暴に座った。

　少年にとってシャルロットの裸なんて大した欲情も感じないが、だとしてもシャルロットにしてみればそれは憤って然るべき事項だったらしい。

　カルは反省した。二度と安易に顔を覗かせない、と。

「それで、今日の依頼はまだ終わってないんだよね？」

　カルはスープを一口啜って、澄んだ目でシャルロットを見た。

　シャルロットは逡巡してから息を落とす。

「そうよ、まだ終わってない。今チビに監視させてる」

「またチビ？」

「悪い？」

　チビとは、シャルロットが従わせている小さいドラゴンである。

「悪いとは思ってないけど、使い魔をこき使うと愛想尽かされちゃうよ？」

「いいのいいの」シャルロットは右手をひらひらさせる「逆に頼らなくていじけられる方が困るから」

「そういうものなの？」

「うん」

　シャルロットは水を一口飲んでからカルを見る。

「読書はどう？」

　シャルロットの言だ。

　カルは考える様子を見せてから口を開いた。

「面白いけど退屈だった。あれって有名な奴なんだよね？」

「もちろん。みんな冒険者になりたくなるって有名の本だよ」

「へえ、そうなんだね」

　何気ない会話はオチもなく自然と消滅した。

　しばらくは静寂と食器とスプーンが衝突する音が響いていた。

「……今日の体調はどう？」

　話題を切り出したのはまたシャルロットだ。

「酷いときよりかは大丈夫だよ。『侵食値』も、大きな変動はない」

　言いながらカルは首にかけていた金属製の機械を右手で握って蓋を開けた。

　そこには黒い針がわずかに震えながら数値を指している。

　針は『二十五』の値から動いていない。

「変動があったら、すぐ私に連絡するのよ」

「分かってるよシャルロット。……そういえば、この街にはどのくらい居る予定なの？」

「どうだろ。もうちょっと依頼を受ける必要があるかもね」

「この街に来てもう四ヶ月だけど、まだなんだ」

「そういうものだよ。『お使い屋』の仕事も物によっては報酬が少ないしね」

「ふうん」カルは目を細める「大体あとどのくらいこの街にいるつもり？」

「そうだね、今やってる依頼が終わったら目標額手前になるから、あと数件で……ッ！」

　言いかけたところでシャルロットの表情が急変した。

　席から立ち上がり、目を見張るように部屋にある窓を凝視する。

　驚いたカルが彼女を心配そうに見つめると次の瞬間、彼女はカルに振り返って言った。

「チビが反応してる」

「……！　つまり？」

　シャルロットは真剣な顔で言った。

「ネズミが罠にかかったようね」