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episode7 ふまじめな初恋

 昔は、兄のことを「ゆず兄」と呼んでいた。しかし、十三歳になってからは、めったに呼ばなくなった。「杠葉」と呼ぶようになった理由を、睡蓮はよく思い出せない。たぶん、深い意味はなかったように思うし、まったく逆のような気もする。

 杠葉が自分にする態度が、とても妹にするものとは思えないことを自覚したのはいつだったろう。とたんに、あまり深く考えないようにしようと思ったのは、いつだったか。

 いつから、自分はこんなにも、目の前の物事を道端に置き捨てるようになったんだろう。

 どんな感情を受け取るにも、睡蓮にとっては、持ってやることが難しかった。そんな責任も覚悟も、なかったから。相手に対して、返せるものも、ささやける言葉も、持っていない。

 もらった花すら、すぐに枯らしてしまう。やさしく愛でてやることのできない、冷たい人間だから、相手を傷つけてしまうくらいなら、深く関わらないほうがお互いのためだと思っていた。そしてそれは、実の兄に対しても、同じだった。

 夜、ベッドのなかに入ると、これまでにあったことが、ぐるぐると頭のなかで渦を作る。この時間がきらいだった。「寝不足は肌にわるいぞ」という杠葉の声が聞こえてきそうだ。ごそごそと寝返りを打つ。あと何十分たったら、眠りにつけるだろうか。はんば諦め気味で、からだのちからを抜いたときだった。

 コンコンと、ドアがノックされた。とうぜん、今この家には、自分と兄しかいない。どうぞ、というまもなく、杠葉は部屋のなかへ入ってきた。

「……スイ」

 杠葉はあきらかに、憔悴しきっていた。杠葉は暗がりの室内を、慣れた足取りで近づいてくる。そのまま、ベッドに腰を下ろすと、ギシ、とスプリングをしならせ、睡蓮の顔を覗きこんできた。

「起きてるか……?」

 ベッドからからだを起こすと、待ちかまえていたかのように、杠葉に抱きしめられた。

「眠れないのか?」

「断りもなく部屋に入ってきておいて、そんなこというの?」

「うう……ごめん……」

 睡蓮の手に、自らの手を絡める、杠葉。すべらかな妹の手の甲に、杠葉はくちびるを押しつけた。観念したように、睡蓮は息をつく。

「もう十一時だよ。いつも、寝ろ寝ろうるさいのに」

「ごめん」

「話があるなら、ちゃんといって」

「……ぼくがいいたいことなんて、わかっているくせに。いじわるだ」

 そう苦しそうに吐き捨てた杠葉は、睡蓮の細い体を抱き締めた。

「ぼくは、おまえが家にいない日があるなんて、辛くて耐えられないんだよ」

「大げさ。たった一日だけだよ」

「なあ。そっけなくしないでくれよ。こんなにもおまえのことを愛しているのに……」

 肩口に顔をうずめ、懇願してくる杠葉。睡蓮は、子どもをあやすように、その背中をさすってやる。

 杠葉は、まるで存在を確認するように、睡蓮の美しい鎖骨に鼻先をこすりつけた。睡蓮の花のようなにおいに、泣きそうになる。

「杠葉。わたしが学校に行っているときも、そんなことを考えてるの?」

 顔をあげた杠葉は、小動物のように目を丸くしていた。なんでそんなことをいうんだ、とでもいいたげに。

「当たり前だろう。ぼくとおまえのなかには、誰にも入りこめるような隙間なんてないんだ」

「だったら、ちょっとくらい離れている時間があっても平気でしょ?」

「だめだ。ぼくは、耐えられないよ。食事の時間だって、ほんとうは向かい合わせじゃなくて、おまえの隣に座りたいのに」

「そんなのへん。隣に座ったら、お互いの顔が見えないでしょ」

 そういうと、沈みきっていた杠葉の表情がいっきに、ぱあっと明るくなった。睡蓮が、とつぜんどうしたんだろう、とふしぎに思うと同時に、再び杠葉にきつく抱きしめられた。

「ああ……スイ……。おまえはなんて可愛いんだ」

「ど、どうしたの。なにかあったの」

「ふふ、鈍感なところもたまらなく可愛い」

 杠葉は、睡蓮のくちびるに小鳥のような口づけを落とした。

「もう。わたしたち兄妹なのに……」

「今さら。ぼくたちは特別な兄妹なんだから、問題ない」

「特別って、どこが?」

「理解していないところも、とてつもなく、いい。おまえは、ずっとそのままでいろ」

 ひとりでわかったようになっている杠葉に、睡蓮は思い出したかのようにいう。

「それで、お泊りはしてもいいの?」

 いやなことを思い出した、と杠葉は深く息をついた。睡蓮を抱きすくめたまま、その妹に負けず劣らずの美しい容姿を、悪魔のように歪ませる。

「本当に、行くのか。相手は、あの子なんだろう」

「いちおう……行かないといけないでしょ。誘われたんだから」

「おまえは……とても残酷なことをしていること、わかっているのか?」

 睡蓮は少し驚き、杠葉のその宝石のような瞳を見つめ返した。杠葉の、色素の薄い瞳が、光の結晶のようにきらめいた。

 睡蓮の、夜の闇のように深く、濃い瞳。

 そんなふたりが、見つめあう。お互いの瞳が、そのなかで重なりあい、溶けあう。杠葉は一瞬、自分が不機嫌なことも忘れて、睡蓮の瞳のなかに吸いこまれそうな心地になった。

「杠葉」

 睡蓮に名前を呼ばれ、息をのむ。気を取り直し、杠葉はあからさまに視線をそらした。

「スイ。おまえの世話をできるのは、ぼくだけだ。いい加減、わかってくれよ」

「それは、じゅうぶんにわかってる」

「わかってない! わかってないから、いってるんだ。いま、おまえの衣食住をかんぺきに整えてるのは誰だ? おまえの好みを把握して、おまえの理想を理解して、おまえの未来を予測して、すべてを揃えているのは、ぼくだけだ。一生、おまえに添い遂げられるのは、ぼくだけだろうが――そうだろう?」

 睡蓮が自らの腕のなかで、しょんぼりとうなだれると、杠葉はあわてて、その丸い頭をよしよしと撫でくりまわす。

「す、スイ。落ちこんだか?」

「……杠葉に怒られたんだから、そりゃ、落ちこみもする」

「ごめんな。お前のためなんだ……」

 泊まることを告げた時点で、こうして杠葉が癇癪を起こすことをは、わかっていた。

 自分だって、どうしても泊まりたいわけじゃない。ただ、夜桜の癇癪がこわいから、いうことを聞こうとしただけだ。同じ癇癪とはいえ、杠葉の癇癪は可愛いものなので、いっしょにはしない。杠葉のは、いくら癇癪を起こしたところで、大半は睡蓮のことを優先してくれるし、常にやさしい。だから、どれだけだって許せてしまう。家族なのだから、当たり前だ。

 でも、夜桜は違う。夜桜は、睡蓮をすきだといっても、彼女はいつだって、自分の感情が優先なのだ。だから、こわい。どうしたらいいのか、わからなくなる。

「わたしは、いつだって、杠葉のいうことを聞きたいって思ってるよ」

「……ほんとうか?」

「うん。だから、もう少し考えてみる」

「……ああ。うれしいよ。ぼくのために、たくさん考えてくれ」

 うっとりとした満面の笑みで、額に、くちびるを落とされた。杠葉は、もう一度、全身で睡蓮を抱きしめた。そして、名残惜しそうにからだを放すと、ベッドから立ちあがる。

「……もう、遅いよな。おやすみ、睡蓮」

「おやすみ、杠葉。また明日」

「ああ、いい夢を……」

 部屋の電気が消されると、一気に眠気が訪れた。さっきまで、あんなに眠たくなかったのに、ふしぎだ。

 布団から、杠葉のにおいがする。

 睡蓮は、ゆっくりと、眠りの世界へと落ちていった。


 ■


 夜桜の家に泊まる日取りが決まらないまま、五月になった。葉桜から差しこむ日差しを、睡蓮はぼんやりと浴びていた。春のおわりが、そこまで来ていた。

 現在、睡蓮は、夜桜と杠葉の感情の板挟みになっていた。どちらかを選び、どちらかを捨てるという選択肢を迫られていた。

 どうすれば、お互いが納得できる結末にできるのか、ということを考えるたび、それはとても無理難題なことだと思い知らされた。少なくとも、睡蓮には想像もつかない難問だった。

 ここ最近は、ずっともやもやとしたものを抱えながら、生活していた。今できる最善の選択肢がないか、悩みに悩み、頭を抱えた。

 それが正解なのかは、いつまでたってもわからなかった。


 ■


 夜桜とのお泊りの予定が立たないまま、数日がたった。

 五月の最初の月曜日。その日の目覚めは、いっそうわるかった。まぶたがとても重く、気分がすぐれない。食欲もあまりなかった。

 眠い目を擦りながらリビングに行くと、杠葉はキッチンで調理道具を洗っていた。テーブルには、出来立てのお粥と味噌汁が湯気をたてていた。

「……今日、お粥?」

「食欲、ないんだろう」

「どうして、わかるの?」

「昨日、いつもよりも百三十二グラム、食べる量が少なかった」

「……ほんとうに、すごいね。杠葉って」

「お粥は胃に優しい。味噌汁も朝からバランスよく栄養が摂れる。汁だけでも、飲んだほうがいい」

「……わかった」

 睡蓮は、仕方なくテーブルにつき、朝食を摂りはじめた。はじめは気乗りしなかったが、やはりあたたかいものを食べると、じょじょに気分が良くなってきた。

「少し顔色が良くなったな」

「……ねえ」

「なんだ?」

「わたしのこと、どれくらいすき?」

「……どうした? 珍しいな。おまえが、そんなことを聞くなんて」

 作業を終えた杠葉は、濡れた手をタオルで拭きながら、睡蓮の隣のイスに腰掛けた。睡蓮の顔を覗きこみ、まぶしそうに微笑む。

「この世でいちばん。知っているくせに」

「どうして、わたしのこと、そんなふうに大切に思ってくれるの?」

「妹だからだよ。何より大切なのは、当たり前だろう」

「妹じゃなかったら、ちがうの?」

「おまえは、おまえだ。ぼくとおまえが、同じ世界にいる。これで愛さないわけがない」

 杠葉は、茶碗を支える睡蓮の手を絡め取った。睡蓮の細い肩を抱き寄せ、耳元で熱っぽくささやく。

「なあ。ぼく、今日は仕事が休みなんだよ。おまえは、学校……行くのか?」

「当たり前でしょ」

「ああ、そう……」

「学生なんだから」

「なあ、スイ」

 肩を抱く杠葉の手に、力がこめられた。痛い、と思ったが、睡蓮は何もいわなかった。

「今日は、ぼくといっしょにいてくれ」

「だめ」

「どうして?」

「今日、テストがあるの」

「おまえの生活は、ぼくが保証する。だから、勉強なんかできなくたっていい。汚い世の中のことなんか、理解しなくてもいいんだよ。お前は美しいものだけ、知っていればいい」

「まったく、そんなこといって。さみしいだけでしょ。ちゃんと、すぐに帰ってくるから」

「スイ……」

 杠葉の顔が、近づいてくる。鼻先がつくほどに、吐息がかかるほどに。

「ぼくがさみしいって、わかっているくせに、冷たいな……」

 杠葉の手入れされたくちびるが、睡蓮のまろやかなくちびるに重なる。吐息のような声で名前を呼んでくる杠葉の手が、睡蓮の肩にかかった。

 睡蓮は冷静に、杠葉のその手を握る。

「ごはんを食べなくちゃ。遅刻しちゃう」

「休めばいいだろ」

「だめっていってる。わかってよ」

「スイ……」

 落ちこむ兄を置いて、さっさと食事を終えると、そうそうに身支度を整え、玄関へと向かった。

「行ってきます」

 呼びかけると、杠葉がふらふらと玄関へやって来た。泣きそうな顔をして。

「おまえと離れたくない……」

「もう」

 睡蓮は、ぐいっと杠葉の手を引いて、ふわりと背伸びをした。睡蓮の花のかおりが、杠葉の心をくすぐる。

 自分よりも背の高い杠葉を、せいいっぱい背伸びして抱きしめる睡蓮。その事実だけで、杠葉は天にも昇る心地になった。

「それじゃ、急ぐから」

 羽でも生えているのかと思うほど、あっというまに、睡蓮は行ってしまい、ドアが重々しく閉まる音だけが、玄関に響いた。

 放心状態の杠葉は、いまだに全身に残る睡蓮の感触だけを糧に今日一日を乗り切ろうと決めた。

「……リビングの窓でも磨くか」

 妹にふさわしい兄でいなければ、彼女に呆れられてしまう。


 ■


 睡蓮が、家の門を出ようとしたときだった。とたん、からだが凍りつくのを感じた。目の前に、なぜか放心状態の椎名夜桜が立っていたからだ。

 春待家の門の前で、まるで凍りついたように体を硬直させている夜桜に、睡蓮はいやな予感がした。

 なぜ、夜桜がそんなことになっているのか、瞬時にいくつかの予想をたてる。だが、どんな予想も、ろくなものにならなかった。

 夜桜は、憎くて、憎くて、堪らないといったようすで、春待家の玄関を凝視していた。両手で拳を作り、強く握りすぎているせいか、頬は紅潮しきっている。

 どれほどの沈黙が続いたのか、わからない。長いようにも、短いようにも感じた。先に沈黙に耐えかねたのは、睡蓮のほうだった。

「椎名さん、おはよう」

 無意識に、夜桜をあやすような声色で、話しかけていた。

「えっと、いっしょに学校に行く? 待っていてくれたの?」

「――春待さん。あたし、これまで……とてもいい子にしてたよね」

「うん……? そう、だね」

「うれしい……。春待さんに、そういってもらえて……もう、あたし、もうむりかもしれない」

 夜桜は、持っていた学生かばんを、どさりと落とした。どんな顔をしているのかは、俯いていてよくわからない。

「スイ」

 そのとき、玄関のドアが開いた。杠葉が、呆れたように外に出てきた。

「まだ、家の前にいるのか。どうかし……」

 門の前にいる実の妹と、椎名夜桜のすがたを見て、杠葉は瞬時に状況を把握したようだった。

 睡蓮の肩に手を置くと、さりげなく自分の後ろのほうへと押しこんだ。そして、夜桜と向かいあう。

「椎名さん……だったかな。妹を迎えに来てくれて、ありがとう。だが、そろそろ登校時刻のタイムリミットが近い。ぼくは妹を、車で学校へ送って行くとするよ。きみも急いだほうがいい。きみのこともいっしょに送っていきたいけれど、あいにく、うちの車は二人乗りなんでね……」

「あんたの気づかいなんて、いらない」

 夜桜の手が、伸びた。大きく一歩、踏み出したかと思うと、睡蓮の手を、強く掴んだ。

「春待さんを返して」

 恨めしそうに杠葉を睨みつける、夜桜。それは、とても辛そうで、悲しそうで、恐ろしかった。夜桜は、興奮からか、息を荒げている。目じりには涙をため、今にも溢れそうだった。

「睡蓮は、ぼくの妹だ。返すも、返さないもない。ぼくの妹だよ」

 冷静に返す、杠葉。それは、夜桜の神経を逆なでた。

「何いってんの、おかしいでしょ! だって、兄妹きょうだいなんでしょうッ?」

「それが、どうかしたのか」

 杠葉は淡々と、何でもないことのようにいう。それは、夜桜が次につむごうとしていた言葉を、やすやすと喉に詰まらせるほどの効果があった。杠葉が、軽々と睡蓮との関係を主張するたび「常にいっしょにいる家族だから」、「兄と妹だから」、「繋がりは誰よりも深いのだ」といわれているようで、鈍器で頭を殴られているような気分になった。不快感で、気が狂いそうだった。

 自分は、まだ出会ったばかりで、家族でもないし、呼び方も名字のまま。なのに、兄のほうは「スイ」なんて呼んでいる。

 夜桜は、怒りを堪えるために、以前よりも毛艶の良くなったストレートロングヘアを、ぐっと握り締めた。

 嫉妬が、疎外感が、劣等感が、ふつふつと胃のあたりから込みあげてきて、吐き気がした。

「止めて……止めてよ……取らないでっ! 家族だからって……独占していいと思ってるのっ? 春待さんは、あたしの恋人なの! だから、触るなんて、許されるわけがない! あたしの春待さんを、けがさないでよっ!」

 長い髪を振り乱すと、目じりから涙が飛び散った。涙が、次から次にあふれてくる。

 夜桜は、すがるように睡蓮を見つめた。なのに、睡蓮はこっちを見ていない。

 どうして。こっちを見てよ。こんなにも、辛いのに、苦しいのに。夜桜は気が遠くなっていくのを感じた。

「ぼくたちには、おかしいことなんて、なにもない。ぼくたちにとっては、これが当たり前なんだ。どうして、きみにそれを決めつけられないといけないんだ。それがおかしいんだと、わかってくれ」

「うるさい……」

「ぼくたちは、何十年もこの家で、家族だけの世界を生きている。それが当たり前だから、何がおかしいのかなんていうのは、へんな話だ。他人が勝手に決めた価値観で、ぼくたちを決めつけようなんて、ばからしいことなんだよ」

「うるさい……」

「きみにだって、きみの世界があるんだろう? だったら、ぼくたちのことは放っておいてくれないか?」

「うるさい! うるさいうるさいうるさいうるさいうるさい! 黙ってよ! お願い、死んでっ! 今すぐ死んでよッ!」

 夜桜が、足元に転がっていた自らの学生かばんを開けた。なかに手を突っこみ、何かを取り出した。それは、十八センチほどのナイフだった。

 夜桜は、華奢な両手でナイフを握りこむと、刃先を杠葉に向けた。瞳が血走っている。再び涙があふれ出し、頬を伝っていく。錯乱したようすで、金切り声をあげた。

「あああああんたなんかに、春待さんは渡さないっ! あたしのほうが、春待さんのこと、知ってるもん! 名前も、住所も、好きな食べ物も、好きな本も、好きな映画も、好きな音楽も……な、なんだって知ってる! 春待さんのためなら、なんだってするし! がまんもッ! いうこともきくっ! だから……だから……」

 肩で息をする夜桜は、半狂乱だった。震える手で、ナイフを掲げ、にたりと笑みを作った。

「あんたなんて、いらない。あたしと、春待さんの世界には」

 夜桜が吐き捨てるようにいうと、杠葉が「はあ」と息をついた。

 睡蓮の耳元にくちびるを寄せ、愛おしそうにささやいた。

「おまえは、ほんとうにまるで悪魔のようだ。こういう人間を、何人作り出すつもりだ?」

 杠葉は、長い足を動かし、一瞬で夜桜に歩み寄る。そして、正常な判断すらできなくなっているらしい夜桜の手の甲を、慣れた手つきで思いっきりはたいた。ナイフがトサ、と乾いた音を立て、地面に落ちた。黙って、ナイフを拾いあげる、杠葉。

 夜桜は放心状態で、その場に立ち尽くしていた。

 動けなくなっている夜桜に、睡蓮はいった。

「椎名さん。以前にも、こんなことがあったね」

「……え」

 ゆっくりと顔をあげた夜桜に、睡蓮は続ける。

「癇癪を起したあなたが、うちの花壇の花を踏みつけにしたり、わたしが美術部に入ったときは〝なぜ、追いかけて来てくれなかったの〟と、わたしの頬を叩いた」

「あたし……あたし……」

「やっぱり、なかなか治らないみたいね」

 夜桜は、その場で蹲り、子どものようにわんわんと泣き出してしまった。

 どうしたものかと思っていると、杠葉が、睡蓮の肩にそっと手を置いた。

「時間。まずいんじゃないか」

「でも……」

 いいよどむ睡蓮の腕を、杠葉が引っぱり、車庫のほうへと連れていく。門の前で、変わらず泣き続けている夜桜を、ふたりは離れた距離から見つめた。

「まさか、あの子もぼくの車に乗せるつもりか?」

「うーん……」

「ふたり乗りだっていってるだろう。三人も乗せるのは、違反」

「もう一台持ってるでしょ。車種はよく知らないけど、あっちなら……」

「それ以前に、ぼくの車には、おまえしか乗せない」

 杠葉がこう答えるであろうことは、想定の範囲内だった。なので睡蓮は、とくに表情を変えることはなかった。

「……そう。じゃあ、仕方ない。今日は学校、休む」

「テストがあるっていってたじゃないか」

「小テスト。だから、問題ない」

「ぼくが行くなっていったときは、だめっていったくせに……」

 ふてくされる杠葉を知ってか知らずか、睡蓮は耳をすます仕草をした。

「なにかいった?」

「別に……それよりも、あの子、どうするつもりだ?」

「お茶でも出してあげてよ」

「本気か」

「どうして?」

「ぼくは、あの子に殺されかけたんだぞ」

「日常茶飯事でしょ」

「やさしくするから、依存されるのがわからないのか。家にまであげる必要はない」

「だって……ひどくしたら、かわいそうでしょ」

 杠葉は、いよいよ深いため息をついた。

「おまえ、あの子のこと、いうことしか聞かない犬のようにしか思っていないんだろう」

「ひどいいわれよう。それじゃあ、杠葉は、どう思っているの?」

「ばかな。ぼくは、おまえしか視界にいれていない」

「あっそ。それじゃあ、彼女のことは見ないのだから、家にあげても問題はないってことね」

「へんなところで賢いことだな。呆れてものもいえない」

 話がついたと、睡蓮は夜桜の前に立ち、そのつむじを見下ろした。

「椎名さん。お茶でも出すよ。うちにどうぞ」

 瞬間、向日葵がさんさんと煌めく陽光に照らされ、花開くような笑みが、夜桜を彩った。喜びが全身からあふれだし、うるんだ瞳がきらきらと光った。

「はっ、春待さんの家に……家に……い、いっ、行って、いいのっ?」

 過呼吸気味に肩を揺らす、夜桜。それを見た杠葉は、心底面倒くさそうにしながら、さっさと家のなかへ入っていった。

「うれしい……。あ、あんなこと、しちゃったから、あたし……」

「いいよ。今までも、何度かああいうことはあったから、慣れ……」

「あんなことしたのに、まだこんなに優しくしてくれるなんて……! やっぱり、あたしにだけは、特別ってことだよね? ねっ……!」

 夜桜は立ちあがると、飛びつくように睡蓮のからだを抱きしめた。うっとりと頬を火照らせ、くちびると寄せようとする。しかし、睡蓮はぐいっと夜桜の肩を押し返した。

 口付けを拒否された。夜桜は喪失感に、お腹の奥が冷えるのを感じた。

「は、春待さ……」

「ごめん。兄がいるし……」

「……そ、そっか」

「うん」

「じゃあ、いつならいい? 春待さんの部屋? いうとおりにしていたら、ご褒美もらえる?」

「……そうだね」

 睡蓮が困ったように美しくささやくので、夜桜は夢見心地でうなずいた。

 玄関扉では、杠葉がふたりの会話に耳をそばだてていた。先に家に入ったふりをして、夜桜の行動を警戒していた。妹に異常な執着を向ける夜桜も対外だが、人をもてあそぶような妹の行動にも、いい加減、頭が痛くなってきていた。

「さっさと高校を卒業して、ずっと家にいてくれるようになってくれればなあ」

 定期的に人間関係でトラブルを起こす妹に、手を焼いている杠葉は、学校に連絡を入れるため、スマホの電話帳をスライドしながら、ようやく靴を脱いだ。


 睡蓮の家のなかへと案内された夜桜は、終始うれしそうにしていたが、リビングで兄と鉢合わせたとたん、表情をぐにゃりと歪ませた。

 当然、杠葉のほうも不機嫌そうにお茶の用意をしている。さっきから漂っているジャスミンのかおりは、睡蓮のすきな銘柄のものだ。妹がいる手前、ちゃんと準備をするが、睡蓮がいなければ、夜桜のお茶に毒でも盛りそうな雰囲気だった。

 ソファに座る睡蓮に、夜桜はいら立ちを堪えるようにいった。

「ねえ、春待さんの部屋って、二階? あたし、そこで、ふたりっきりになりたいな……」

 夜桜が、睡蓮にあざとくねだる。

 すると、キッチンからガンッ、という音が響いた。杠葉が、ポットをセラミックのキッチン台に乱雑に置いたのだ。

 妹の前では、決してしない杠葉の粗暴な行動に、睡蓮は目を見開いた。杠葉は、夜桜に、冷ややかな視線を送り続けている。

「お兄さん、どうかしました?」

 夜桜はあからさまに、杠葉をからかいだす。

「……お兄さんと呼ぶな」

「ねえ、春待さん……お兄さん、何か怒っているみたい。こわいから、部屋に行こうよ」

 夜桜は、犬がじゃれるように、睡蓮にすり寄った。とたん、杠葉の眉間に、深いしわが刻まれる。

「椎名さん。きみ、ぼくがあのナイフを警察に届けたら、どうなるかわかっている?」

「おとなが、高校生をおどす? 春待さんのお兄さんって、おとなげないんだね」

「ふう……きみ、ことの重大さがわかっていないみたいだ。視野が狭すぎる」

「あたしのこと、ばかにしてるの?」

「そのとおりだ」

 一気に頭に血がのぼるが、隣にいる睡蓮の温度を感じ、夜桜はハッとする。ゆっくりと呼吸をし、必死に自分を落ち着かせた。

 杠葉は、平然とした面持ちでトレイに三人分のジャスミンティーを乗せた。銀紙に包まれたチョコレートもアカシアのボウルに入れ、いっしょにテーブルに運ぶ。

 睡蓮と夜桜の前にコースターを置き、ティーカップを置いた。英国老舗ブランドのストロベリー柄のカップは、睡蓮に似合うと杠葉が選んだものだ。

 睡蓮の、はす向かいに座った杠葉などは、眼中にないかのように、夜桜はくちびるをとがらせる。

「お茶なんていらない。春待さん、ふたりっきりになりに行こうよ」

 睡蓮の制服のすそを、きゅ、とつまむ夜桜。杠葉はそれをギロリと睨んだ。

 睡蓮は猛獣を手なずけるように、夜桜をやさしく諭した。

「椎名さん。杠葉が淹れてくれるお茶はとてもおいしいんだよ。飲んでみて」

「まあ……春待さんがそういうなら、飲むよ」

 あまりにも素直に、カップを持つ夜桜。そっとカップに口をつけると、「うん、おいしい」と頷いた。

「でしょう?」と、目を細める睡蓮に、夜桜はまぶしそうに笑う。

 それを杠葉は面白くなさそうに、見つめていた。お茶を飲んだら、さっさと帰ってほしい。せっかく、睡蓮が学校を休んだのだから、ふたりでゆっくり過ごしたい。つまらない気分を隠さないまま杠葉が、包み紙を剥がしたチョコレートを口のなかに放りこんだときだった。

「春待さん。いつ、うちに来てくれる? もうあたし、今日でもいいくらい!」

 杠葉の眉が、ぴくりと反応する。

「ねえ、いつにする? 来週?」

「スイ」

 杠葉は、持っていた銀紙をくしゃりと握りつぶすと、睡蓮へと目を鋭く光らせた。杠葉のようすに気づいた睡蓮は、面倒くさそうにしつつも、夜桜のほうに向きなおる。

「椎名さん。わたしたち、まだ高一だし、外泊はまだ早いんじゃないかな」

「は?」

「申し訳ないけど……」

「ああ、お兄さんね?」

 夜桜が肉食獣の眼孔で、杠葉を睨みつけた。華やかなジャスミンのかおり漂うリビングに、お互いをけもののように威嚇しあうふたりの構図は、とても似つかわしいものではなかった。

「お兄さん。もう春待さんを束縛するのは、止めてくれない?」

「笑える冗談だ」

「どこが?」

「自分の胸に手を当てて聞いてみたらどうだ」

 杠葉の牽制を、夜桜は忌々しげにねめつけた。

 自分をはさんで火花が飛び散るのを、睡蓮は肩身の狭い思いで黙りこんでいた。

「うーん……」

 睡蓮のため息のような甘い声に、ふたりの荒んだ空気が一瞬、和らぐ。

「それじゃあ……今度、三人で出掛ける?」

「は?」

 予想外のばかげた提案に、杠葉は呆然とした。

「冗談だろ、スイ」

「そんなのいや!」

 夜桜も、真っ青な顔をして、睡蓮にすがりつく。

「今度ね、動物の彫刻で有名な作家さんの個展が、十六夜美術館であるの。わたし、行きたいと思ってたんだ」

 睡蓮が何を考えているのかわからない、と夜桜はくちびるを噛みしめた。

 長い睫毛は伏せがちに、憂いを帯びた瞳は、ふたりの諍いを悲しんでいるように見えた。艶やかな黒髪が揺れると、さらりと涼やかな音が聞こえてきそうだった。

 部屋に漂うジャスミンのかおりは、睡蓮のすきな香りだった。杠葉は、前に睡蓮がいっていたことを思い出す。

 ジャスミンは、気持ちを和らげ、官能的な感情を呼び覚ます。心を穏やかにし、ゆとりをもたせてくれるんだ、と。

「スイ。ぼくは、おまえのいう通りにするよ」

 杠葉の言葉に、夜桜は目を光らせた。そして、負けじと睡蓮の制服の裾をきゅう、と掴んだ。

「わかった……。あたしも……行く」

「そう。よかった」

 睡蓮がカップを手に取り、ジャスミンティーを飲む。濡れた、赤いくちびる。あたたかなお茶に、ほてった頬。

 杠葉も、夜桜も、その表情に、しずかに見とれた。彼女と入れる空間があるなら、もうどこでもいい。

 今だけは、そう思った。

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