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夏 - the temperature

episode8 この慈愛の潔白

 夜桜と杠葉と、三人で出掛ける――。

 昨日、自分でいったことなのに、睡蓮は悶々と、そのことばかりを考えてしまっていた。自分がなんであんなことをいい出したのか、わからない。あのときは、その場をおさめたくて、ただ思いつきをいってしまった……のだと思う。

 われながら、ひどい提案だな、とあらためて思う。

 そろそろ、気温の高い日が多くなってきたので、模様替えをしようと、クローゼットを開けた。ひどい気分が、さらにひどい気分になる。

 夏が来てしまう。あの、鬱陶しい夏が。

「何もかもが、わずらわしい――もう、外に出たくないな……」


 ■


 夕方の、美術室。今日の美術部の活動も、そろそろ終わりという時間。

 マーサが、生徒会から呼び出だされた。部費についての話があるとのことで、あわてて、荷物を持って、美術室を出て行ってしまった。

 おそらく、顧問と示しあわせて買った、彫像の件だろう。予算オーバーにも関わらず、顧問とふたりで盛りあがり、むりやり買っていた。マーサは美しいものを前にすると、見境がなくなる。いや、この学校の美術部部員、全員かもしれない。その最たるが、美術部顧問だ。顧問がああだから、マーサもあんな感じなのだろう。今日は生徒会室で、顧問といっしょに、こってり絞られてくるかもしれない。

 他の部員たちも、ぞろぞろと帰りはじめているなか、睡蓮は美術室の隅にある小さな本棚の前で、画集を広げていた。

「春待さんって、趣味が多そうだね」

 白銀しろがねミレーのほうから、睡蓮に話しかけてくるのは、とても珍しいことだった。思わず、画集から顔をあげ、睡蓮は目を見開き驚いた。

「そう、ですかね」

「春待さんって、どんなものがすきなの?」

「えっと、絵とか、音楽とか。映画を見たり、読書も、すきですね……他にもいろいろすきなものは、ありますけど……」

「いいね。だからきみは、感性豊かなんだ」

「感性、豊かですかね」

「うん」

「わたしが、いろいろすきなのは……人生において何より大事なのは、価値観を広げることだって、むかし本で読んだんです。わたしの人生を最大限に謳歌するために大事なことはこれだ、って、そのとき、すごく感銘を受けたんです。だから、やりたいことはぜんぶやろうって、そう思っているだけですよ」

「なるほどね。そういう考えかた、ぼくもすきだな」

 ウェーブがかった長い黒髪に、高い鼻、涼やかな瞳。ミレーには、美しい魔女といった表現が、なにより似あった。睡蓮より、頭ひとつぶん以上ある身長は、この学校のどの男子よりも、飛びぬけていた。楽器のような低音のウィスパーな声は、周りにいる女子を虜にした。ミレーの誕生日やバレンタインは、毎年多くの女子からの贈り物であふれているらしい。この学校の王子、それが白銀ミレーだった。

 ミレーは、画集を棚に戻す睡蓮の隣に立つと、したたる水滴のような声色でいった。

「春待さん、島袋部長と仲がいいよね」

「はあ。仲良くさせていただいているとは、思っていますけど」

「はっきりいうんだね」

「え?」

「ああ、ごめんね。何でもないんだ……」

 ミレーはそれだけいうと、自分のかばんを持ち、足早に美術室を出て行ってしまった。何か用事があって、話しかけてきたのかと思ったのに。何だったのだろうと、睡蓮はふしぎに思った。

 自分もさっさと帰ろうと思ったとき、教卓の上に置かれたままのこの教室の鍵に気づく。いつの間にか自分ひとりになっていた、美術室。つい、重い息を吐いた。最後に部室に残った人間が、教室の鍵を閉めなくてはならないのだ。

 帰り支度を整え、施錠を確認した睡蓮は、一階の職員室へと急いだ。急がないと、校門が閉まってしまう。学校の門は重いから、開けるのが面倒くさい。でも、誰かに手伝ってもらうのは、もっと面倒くさい。だから、急がなくては。

 そんなさなか、つい、進路指導室の前で立ち止まってしまう。

 なかから、聞きなれた声がしたのだ。この声は、ミレーと美術部顧問の丸山仁奈ニーナだ。

 しかし、立ち聞きはよくない、と立ち去ろうとしたときだった。

「ミレー。あなた最近、春待さんのこと、見すぎ」

 丸山先生の不満そうな声が、扉越しに届く。ついに、睡蓮はその場に足を留めてしまった。

「はは……先生ってば。ほんと、ぼくのことをよく見てるね。かまってちゃんなの?」

「はあ? 子ども扱いしすぎ」

「さみしがり屋だね、っていってるんだよ」

 進路指導室で、囁きあうふたり。夕日に染まる進路指導室で、教師と生徒が熱っぽく言葉をかわしている。それはあまりにも、学校という場に似つかわしくないものだった。

「ミレーが、他の子に目移りするからでしょ」

「へえ……」

「放っとかれるのは、きらい」

「……おとななのに?」

「当たり前。ねえ、ミレーが何を考えているのか、先生が当ててあげようか。……マーサのことでしょ」

 ミレーが息を飲むようすが、空気で伝わってくる。

 睡蓮は進路指導室の扉に耳を貼りつけ、なかの会話を聞き入っていた。手に持っている美術室の鍵を取り落としてしまわないよう、細心の注意を払った。

「……うん、すごいや。さすが先生」

「いったい何年、片想いをする気なの?」

「そうだな。幼稚園のころからだから……」

「もういい。他の子の話なんて聞きたくない」

 丸山先生はうんざりしたようすで、ため息をついた。ミレーが微笑ましげに、ころころと笑っている。

「先生がいい出したのに」

「ふん。おとなをばかにしすぎ」

「先生って、現代文の先生なのに、話し方が子どもっぽいんだもん」

「う、うるさい」

 進路指導室のなかで、ふたりの空気が重なるように、布の擦れる音がした。

「ミレーが、すき……。なるべくでいいの、わたしを見ていて。これ以上はいわない。なるべくでいいから……」

「先生がそれでいいなら……ぼくはそうするよ」

「うれしい。ミレー、すき……」

 睡蓮は足跡を立てないよう後ずさり、その場からようやく立ち去った。遠回りになるが、東側の階段を使い、職員室へ向かうことにした。

 鍵を握り直し、外を見あげると、夕日が赤々と燃えていた。


 夜桜はひとりきりで欝々としながら、家への帰路を歩いていた。睡蓮に、「今日は画集を思い切り読みたいから」と、先に帰らせられたのだ。

 ふたりで帰りたかった。でも、いうことを聞けば後日、睡蓮に優しくしてもらえるだろうと思ったので、我慢をした。

「春待さん……。どうして……あたしだけを見てくれないの……。お兄さんと一緒に出掛けるだなんて……いや……。どこでもいいから、ふたりっきりに……なりたい」

 夜桜はストレスを感じると、ひとりごとが多くなった。

 睡蓮に出会ったことで、これまで夜桜の世界はいっぺんした。

 今まで何も感じなかった夕日が、きれいだと感じるようになった。

 この年まで、まともな読書なんてしたことがなかったのに、本を読んでみた。

 むかしの有名な映画を観るようになった。

 美術館でどんな展示をやっているのか、調べるようになった。

 すべては、睡蓮に自分の存在を気にしてもらいたいから。褒めてもらいたいから。睡蓮の世界のいちばんになりたいから。

「春待さん……。春待さん……」

 うわ言のように、つぶやきながら、ふらふらと道路を歩く。おぼつかない足取りの夜桜を、通行人の女が迷惑そうに避けて行った。でも、睡蓮以外の人間なんて、どうでもいい。

「ねえ」

 睡蓮以外の声は、心に響かない。誰が、自分に声をかけているのか知らないが、振り向く気力すらなかった。

「ねえったら」

 強く肩を叩かれ、夜桜はようやく歩みを止めた。仕方なく、のろのろと振り返ってやる。

 どうやら、今さっき、すれ違った女のようだった。同じくらいの年齢みたいだが、チャラチャラした派手めな服装、こんがり焼けた肌に、夜桜はつい、睡蓮と比べてしまう。そして、「下品だ」と、顔をしかめた。

 しかし、夜桜の反応を、彼女が気にするようすはなかった。けだるそうに長い髪をかきあげ、クリアピンクのリップが塗られたくちびるを開いた。

「あんたさ、春待さんのこと、聞いてまわってた人だよね」

 とたん、夜桜は彼女の顔を思い出した。

 今年の三月ごろは、睡蓮のことを多く知るため、彼女の中学時代の同級生の家をまわり、情報を集めていた。この女の家をたずねたこともあった。そのとき、いわれた言葉が、呪いのように頭のなかを反芻する。

――また春待さんのストーカー? 止めてあげたら? あの子、そういうのきらいだよ?

 ずくずくとした、いら立ちが、ぶり返す。嫌悪感が渦を巻き、夜桜のイラ立ちが、いよいよピークに達しそうになる。

「他の連中にも聞いたんだけどさ、うちらの中学時代のクラスメイト全員に聞きまくってたんだって? すごい執念だね」

「何なの、あんた。わざわざ、あたしに文句いいに来たわけ?」

「いや、偶然すれ違っただけだけど」

「うそ! 後をつけてたんでしょ!」

「ストーカーは、あんたのほうでしょ」

「あたしはストーカーなんかじゃない! いいがかりは止めて!」

「あんたさあ。自覚ないかもだけど、まじ……おかしいよ?」

「うるさい……」

「自分で気づかないの?」

「……黙って」

「まわりの友達とかに、そういうこと、いわれない?」

「あたしは、おかしくなんてない!」

 夜桜は、早鐘を打つ動悸を抑えながら、せき止めていた何かを放出するように、むかつく女の言葉を振るい落とすかのように、叫んだ。

「あたしは、小さいときからみんなに〝かわいい、かわいい〟っていって、育てられて! パパからもママからも欲しいもの、なんでも買ってもらって! ふたりは何でもかんでも、あたしのいうこと聞いてくれた! わがままも、何でも許してくれた! だから、あたしが間違ってるなんて、ありえないの! あたしがおかしいことなんて、そんなばかなこと、あるわけない! あたしは……おかしくない、おかしく……なんて……!」

 夜桜は、目じりに涙をためていた。髪の毛をぐしゃぐしゃとかき回すと、肩で息をし、ここではないどこかを見つめた。

「うう……うう……あたしは……あたしは……」

「そんなにパパとママがすきなら、春待さんに依存する必要ないでしょ」

 どうでもよさそうにいう女を夜桜は、けもののように睨みつけた。

「あんなふたりのことなんか……どうでもいいよ……」

 いよいよ、これ以上関わるのは面倒そうだ、と女は踵を返した。

「まあ、いいや。勝手にすれば。ごめんね、勝手いってさ。あたし、もう行くよ」

 ストレッチジーンズをまとった長い足を大股に動かし、ブラックのパンプスを鳴らしながら、彼女はあっというまに、走り去った。まるで、嵐のようだった。

 夜桜は、自分の目から涙がぼろぼろと溢れていくのを感じた。気づくと、くちびるの端から、血が流れている。怒りのあまり、くちびるを噛みしめてしまっていたようだ。とてつもない疲労感に、その場で蹲った。

「うう……春待さん……春待さんに、会いたい……」

 睡蓮の美しい肌に触れたい。睡蓮の柔らかな膝に寝かせてもらいたい。睡蓮に頭を撫でられたい。

 夜桜はうめくように、何度も睡蓮の名前を呼んだ。

「うわあ。ほんとに春待さんがすきなんだねえ」

 敵襲にでもあったかのような勢いで、夜桜は顔をあげた。

 そこには、さっき行ってしまったはずの、女が立っていた。

 さっきの怒りに任せ、夜桜は獅子のように女に飛びかかった。しかし、軽々と避けられてしまう。流れるような動作で、女に足を引っかけられ、転ばされてしまった。軽く膝を打ち、夜桜は顔を歪めた。

「なんで、戻ってきたっ?」

「いや、いいたいことができたから」

「はあ?」

「春待さんって、美人じゃん? だからさ、中学でも大変そうだったよ。みんなが、みんなね」

 女のいわんとしていることがわからず、夜桜は首を傾げた。

 まだ道路で横たわったままの夜桜に顔を突き合わせ、女はニカッと白い歯を見せた。

「春待さんのこと……教えてあげるっていってんの」


 ■


 家に帰ってからも、リビングのソファで、睡蓮は進路指導室でのことを考えていた。 

 ミレーのことも、マーサのことも、睡蓮はまだ、よく知らない。ましてや、自分よりもずっとおとなである丸山先生のことなんて、もっと知らない。

 しかし、自分以外にもさまざまな世界があるのだということを、これほど強く感じたのは、人生で今日が初めてだった。自分以外の人間も、ちゃんときれいだったり、汚かったりする感情を持って、他人と関わっている。

 睡蓮は自分の心が、揺さぶられているのを感じていた。それは、これまでにない感情だった。これがいったいどういう種類の感情なのかは、まだよくわからなかった。

 スマホの着信が震えた。ディスプレイを見ると、ぶわりと喜びが込みあげた。美綴みつづりからだった。

「は、はい……」

 爽やかな新緑に似た、美綴の声。少し、久しぶりに聞いたのもあって、自然と心が安らいだ。

『春待ちゃん。元気かい?』

「美綴さん……。はい」

『初夏のアイテムを作ったけど、店に来ない? ……なんていったら宣伝のために電話したようだね。最近、どうしたかなと思って。高校生になったんだから、忙しいんだろうな、とは思ったんだけど、がまんできなくてさ』

「ふふ、うれしいです。でも、そろそろ行きたいなと思ってましたよ」

『そうか。ねえ、明日は木曜日、うちは定休日なわけなんだけれど……どうかな? 夕方、わたしに一時間だけ、きみの時間をくれない? 一緒に、お茶でも。けっきょくピクニックには行けずに、初夏になってしまったからさ』

「あ……それじゃあ、うちの近くに、すてきな喫茶店があるんですけど、どうですか? 『異邦人』という店なんですけど」

『もちろん、いいよ。時間はどうしようか』

「わたしの帰りは、夕方五時くらいになりそうなんですけど」

『それじゃあ、校門の前まで、迎えにいっていいかな』

「いいんですか?」

『こちらから誘ったんだから、当然だよ。じゃあ、明日。楽しみしているから』

 スマホの通話終了アイコンをタップし、一呼吸置く。さっきの会話を、もう一度思い出すと、自然と顔がにやけた。明日、夕方五時。『異邦人』で、美綴とお茶。迎えに来てくれるといっていた。

 でも、せっかくの美綴とのお茶なのに、制服のまま? 美綴とのお茶なんだから、制服よりも、もっと可愛い服で行きたい。でも、学校で着替えるよゆうなんてない。諦めるしかないんだろうか。

「スイ」

 スマホの画面を見つめながら、黙りこくっていた睡蓮に、杠葉がからかうようにいった。

「美綴か?」

「うん」

「やっぱりな。おまえを洋服で釣る、ずるい人間だ」

「……またそんなこといって」

「ふふ」

 こんなことをいいつつも、杠葉は美綴に対しては、幾分か信頼を置いていた。美綴が、睡蓮のことを特別可愛がっているのは明白だが、それよりもおとなな対応が前提だということを理解していたからだ。睡蓮が望まないかぎり、美綴との進展は決してない。それを杠葉はわかっている。なので、美綴に関してだけは、警戒する必要はないと安心しているようだった。

 それでも、杠葉の機嫌はわるくなる。これは、いつものことだった。

「美綴から、誘いの電話でもきたのか」

「明日、いっしょにお茶することになった。だから、帰りは十八時くらいになる。たぶん、うちまで送ってくれると思うから、安心して」

「安心はしてるよ。あいつはおとなだから」

「でも、なんか怒ってない?」

「おまえといっしょの時間を過ごすんだろう。嫉妬はするよ」

「……ねえ、お腹空いた」

「話をそらすな。わかったよ。用意するから」

 杠葉は睡蓮のそばへと寄ると、その手を取り、食卓のテーブルへと招いた。いつもの睡蓮の席、そのイスをゆっくりと引き、座らせてやる。今日の食事内容にあう、木のプレイスマットを引き、蓮の花を模した箸置きを置いた。

「今日のごはん、なに?」

「ひじきご飯に豚汁、レンコンのコロッケ、ホウレンソウのおひたし」

 とたん、睡蓮の顔が曇る。小さい花びらのようなくちびるを尖らせ、傍らに立つ杠葉をムスッとしたようすで見あげた。

「ひじき、いや」

「だから、白米に入れて食べやすくしたんだろう」

「それでもいや」

「栄養がある。だから、がまんしろ」

「いーや」

「いつもながら、強情な……」

「なんで、きらいなものを食べさせようとするの?」

 しつこく訴えてくる妹に、杠葉は決まり文句とばかりに、睡蓮の丸い頭に手を乗せた。

「食後のデザートは、かぼちゃのプリンだぞ」

「……えっ」

「すきだろ? 生クリームも、乗せてやる」

「ほんと?」

「駅前の『カフェ・ジュンヌフィユ』のプリンを研究して、そのままの味を再現した。かんぺきにな」

「すごい!」

「どうだ? 食べるか?」

「食べる! でも……ひじきは、いらない」

「おまえのすきなプリン、せっかく作ったのにな?」

 睡蓮は一気に不機嫌になってしまったようで、眉間のあいだをキュと寄せる。杠葉は、それを愛おしそうにながめつつ、伸ばしてやろうと手を伸ばした。

 すると、ふわりと睡蓮のかおりが近づく。急に鼻先があたるほど、顔を近づけてきた睡蓮に、杠葉は戸惑う。

「な、なんだよ……?」

「ひじきを食べなくちゃいけない理由は?」

「そりゃあ、お前。栄養があるからだよ。カルシウムも、食物繊維も、マグネシウムも豊富だし、皮膚を健康に保つビタミンAも含まれてる。ぼくは、お前の健康管理を気にしてだな」

「ふうん。でも、栄養のためというなら、発芽玄米でもいいんじゃない? わざわざ、ひじきのごはんにする理由が気になるの。まさか、わたしをいじめたいの?」

「そ、そんなことあるわけない」

「……あやしいなあ」

「うう……」

「杠葉、白状しなさい」

「たしかに、おまえがいやがる表情を見るのは、すきかもしれない」

 すると、睡蓮は極上の笑みを浮かべた。

「妹にいじわるだなんて、だめでしょ。杠葉には罰として、わたしのひじきも食べてもらいます!」

 最近は、憂いを帯びた表情ばかりだった睡蓮の、愛らしい笑顔。これを見れただけでも、今日は最高の日だ。

「仕方がない。ぼくの負けだ」

「ふふ。杠葉のプリン! はやく~」

「ええっ? いま食べるのか?」

「見るだけ!」

 妹にせがまれ、杠葉は思わず顔がにやけてしまう。冷蔵庫から、用意しておいたプリンを取り出す。トレイに乗せ、執事よろしく、「お待たせしました」と睡蓮の前へと持っていく。仰々しく、睡蓮の前に置くと、プリンが魅惑的に揺れた。

「すごい。香りもジュンヌフィユ、そっくり!」

「だろう?」

「いつのまに、お菓子作りまでうまくなったの?」

「おまえだけのためさ」

 満足そうに微笑む、杠葉。

 それから、次々に食事が運ばれて、いつもの食卓が完成した。もちろん、睡蓮の前には、ひじきはない。代わりに、杠葉のぶんのプリンが置かれていた。二個、置かれたプリンに、睡蓮は目を輝かせている。妹のその顔を見れただけで、杠葉はもう死んでもいいと、本気で思った。

「いただきます」

 ふたりで摂る食事の時間が永遠に続けばいい。明日なんて来なければいい。睡蓮が、この家ではない時間を過ごす明日なんて。

 自分が作った食事を摂る睡蓮の表情を目に焼きつけながら、杠葉は箸を茶碗に沈めた。


 ■


「ねえ、朝からそんな態度、やめてよ」

「……わかってる」

 不満そうに食卓につき、兄の作った朝食に手を合わせる。トウモロコシと枝豆のお粥に、豆腐と大根の味噌汁、塩昆布のだし巻き卵に梅干し。木のプレイスマットには、本日もきっちりと、杠葉のかんぺきな献立が並べられている。

「いただきます」

 食事の挨拶をするが、杠葉からは何も返ってこない。

 間違いなく、今日の予定のことで拗ねている。

 味噌汁のおつゆで起きぬけのからだを温めると、睡蓮はキッチンの奥で調理道具を拭いている杠葉を見あげた。

「いやなら、いやっていえば?」

「いっても、おまえは行くんだろう」

「約束なんだから、仕方ないでしょ」

「だから、何もいわないんだよ」

 杠葉はそのまま、黙りこくってしまう。睡蓮も、もやもやする気持ちを抑えながら、食事を続けた。

 そろそろ、夜桜が家の前に、迎えに来る。

 食事を終え、身支度を整える。かばんを持って玄関に向かうと、杠葉がこそこそと後を着いてきた。

 睡蓮は気を取り直したように、杠葉を振り返った。

「行って来るね」

「うん……」

 心ここにあらずで返事をする杠葉に、睡蓮はいよいよ呆れてしまった。

「なんか最近、すぐに機嫌がわるくなるよね」

「……おまえが、わるい」

「……なにそれ?」

 いつまでたっても機嫌が直らない杠葉に、睡蓮はだんだんいら立ちを隠せなくなってくる。今日の杠葉は特に、じめじめしていて、鬱陶しい。

 くるりと杠葉に背を向けると、睡蓮は不満をぶつけるように吐き捨ててやる。

「朝からなんなの? もういい。今日の夕食はいらない。美綴さんと食べて帰るから!」

 逃げるように、家の外へと飛び出した。背後で、杠葉に名前を呼ばれた気がしたが、睡蓮は振り返らなかった。

 今日はどうしても、杠葉をなだめる気分になれなかった。せっかく、久しぶりに美綴と出かける日なのに。杠葉のせいで、楽しい気分が台無しだ。

「杠葉のばか!」


 その日の放課後。部活動が終わると、睡蓮はすぐに学校を出た。

 夜桜に見つからないよう、細心の注意を払い校門へ行くと、美綴が待っていた。睡蓮のすがたを見つけると、嬉しそうに駆け寄ってきてくれる。

 美綴に案内され、近くのコインパーキングに停めているという車に案内された。シルバーの外国の車だった。「イタリアの車だよ」と教えてくれた。左ハンドルで運転する美綴は、いつもの彼女じゃないみたいで、なんだかドキドキしてしまう。独特のエンジン音を感じながら、緊張して身を任せていると、あっというまに目的地に着いてしまった。

『異邦人』は、昔ながらの純喫茶だ。

 レジ横の、ケーキのショーケースには、宝石のようなフルーツが乗せられたケーキたちが並ぶ。ショーケースの上のタルト皿には、キラキラ光るアメリカンチェリーがビッシリと入れられていた。

 案内されたのは、フェイク暖炉のそばのテーブル席だった。暖炉の上には、アンティーク風のドールが二体、座っている。店のあちこちに、古い文庫本や単行本が置かれていた。流れている音楽は、睡蓮が聴いたことのない、フランスのシャンソンのようだった。

 向かいに座った美綴を前に、睡蓮はつい、スカートの皺を直したり、セーラーの襟を正したり、前髪をいじったりしてしまう。

「どうしたの? 緊張してる?」

「は、はい」

「いつも来てるんじゃないの?」

「いえ、ここに来たのは初めてです。ずっと、来たいと思っていただけで」

「そうなんだ。わたしはね、春待ちゃんと来れるっていうんで、このお店のこと、かなり調べちゃった。ふふ、子どもみたいでしょ」

 美綴が、ほほえましそうに笑う。その笑顔に、睡蓮はさらに心臓の鼓動が早まるのを感じた。

 店内を歩く、紳士風の店員が、睡蓮たちの席に注文を取りに来た。美綴はブレンドコーヒー。睡蓮は柚子茶を注文した。

「ケーキは?」

「えっと、夕ごはんが食べられなくなりそうだから」

「ふふ、小食なんだね。食べているところ、見たかったな」

「また、今度……」

「うん、そうだね。また、いっしょに来ればいいか」

 店員が去ると、美綴はテーブルに身を乗り出し、囁くようにいった。

「この喫茶店、面白いんだ。ほら、見てみて。あそこになんで食器棚が置かれているんだと思う?」

 美綴が指差す先に、確かに食器棚が置かれている。店の一番奥に入った、窓際の隅。キッチンではなくホールに、食器棚が置かれていた。

「食器棚が、キッチンに入りきらなかった、とか?」

「いや、違うんだよ。あそこには、大量の古本が入ってるんだ」

「え、食器棚に本を?」

「そう。本好きなマスターでね。本棚に入りきらなくなった本をどうするか悩んで、要らなくなった食器棚にしまっているんだよ」

「でも、食器棚だから、本をたくさん入れても強度は心配なさそう。おしゃれな食器棚だし、いいアイデアかも。わたしもやってみたいな」

 真剣な面持ちで答える睡蓮に、美綴は優しい笑みを浮かべた。

「ふふ、良かった」

「え?」

「電話したとき、元気がないのかな、と思ったから」

「あっ、えっと」

「悩みがあるなら、相談してほしいな」

「そんな……」

「わたしじゃ、力不足かも知れないけど」

「まさか。そんなわけないです。でも……ちょっと複雑で」

「複雑?」

 睡蓮は、いっていいものかと、しばらく考えた。でも、美綴と自分の悩みを共有できることに、とても魅力を感じてしまうのも、事実だった。

 ブレンドコーヒーと柚子茶が届くと、睡蓮は美綴の目を見つめた。

 そして、ぽつぽつと心のもやもやを、吐き出した。

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