目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

episode9 あたたかな幸福への誓い

 美綴に、すべてを話してしまいたい。でも、美綴はどこまでを受け入れてくれるだろう。睡蓮は、悩んだ。

 ぜんぶを話して、美綴の自分に対する印象が変わってしまったら。美綴との、これまでの関係性が変わってしまったら。そんなのは、いやだ。美綴が、自分に対してどんなイメージを持っているのかは、わからない。それでも、『悩みを相談』して、これまでの、美綴と自分の未来が変化してしまうことが、こわかった。

 美綴は睡蓮にとって、『だいすきなお店の店長』という存在だけではないのだから。

 睡蓮は、悩みに悩んでやっと、ぽつりとつぶやいた。

「……美綴さん。わたし今、椎名夜桜って女の子になんというか――依存、されているみたいで」

 乾いた喉を潤したくて、つい柚子茶を口にする睡蓮。カップをソーサーに戻すと、美綴の整った顔立ちと目があった。

 睡蓮の言葉に、美綴は驚くことなく、静かにうなずいた。美綴のおだやかな水面のような反応に、睡蓮は視界が潤むのを感じた。

「最近、なんだか無性に不安になるんです。具体的に、なにかがあったわけでもないのに、ふと欝々としたものに襲われるんです」

 美綴が、ゆっくりとコーヒーを飲む。ソーサーの上にカップを戻したとき、軽やかなカチャ、という音がした。

「春待ちゃん。わたしも、そういう気分になるときがあるよ」

「美綴さんも……?」

「そういうとき、人はどうすればいいと思う? そう。気分転換をするべきだ」

「気分転換……。たしかに兄にも、たまには外に出かけたらどうだ、とよくいわれます」

「そういうことだね。ほどほどな日光浴は、なにより健康にいい。それじゃあ、わたしがこれから春待ちゃんにいうことは、たったひとつだ。なにか、わかるかな?」

「……ピクニック?」

「大正解」

 ふわりとほほえむ美綴に、睡蓮は心が華やぐのを感じた。美綴になら、何でも話せる。何をいっても、自分のすべてを受け入れてくれる。そんな、信頼を感じた。

「わたしの車は六人乗りだからね。思いっきり楽しもうじゃないか」

「え?」

「お兄さんもお友達も、誘うといい。今度の日曜日は、どう? ちょうど、今朝の天気予報を見たんだけれど、その日は風もなさそうだし、気温も湿度もいい具合だった」

「……そう、ですか」

 二人きりじゃ、ないんだ。そう思うと、睡蓮は胸の奥がずっしりと重たくなるのを感じた。

 冷めはじめていた柚子茶をゆっくりと飲み干すと、美綴は満足そうにほほえみ、伝票を持って立ちあがった。

「さて。そろそろ時間かな」

 店の時計を見あげると、お茶を飲みはじめてから、一時間が経とうとしていた。

「春待ちゃん」

「はい……」

「これ、今日の記念に」

 美綴が差し出したそれは、『LOVER'S FOREST』のショップバッグだった。なかには、店で見たことのない商品が入っていた。

 睡蓮は心臓がどきどきと鼓動をはじめるのを感じながら、ていねいにそれを取りだし、広げてみた。

 美しい円を描いたアイレット・レースの純白のワンピース。気品あふれる上品なデザインでありながら、清楚な少女性に満ちた印象を受ける。

「すてき……」

「春待ちゃんは夏がきらいだっていっていたから。きみに、気にいってもらえるようなものを作りたかったんだ。きみといっしょに、夏を楽しみたかったから」

「美綴さん……」

 もう緊張なのか、わからない。どきどきと飛び跳ねる心臓がうるさくて、睡蓮はぎゅ、と瞳を閉じた。

 美綴は、そんな睡蓮のようすを勘違いしたのか、あわてて両手を振った。

「もちろん、お代はいらないよ。きみに着てほしくて、わたしが勝手に作ったんだから」

「い、いいんですか?」

「もちろん。きみがそのワンピースを着ているすがたを、わたしの瞳に映してもらえるだけで、光栄なことだよ」

 睡蓮はワンピースを胸に抱き、美綴を見あげる。ゆるやかにほほ笑むおとなの瞳はどこか憂いを帯び、寂しさをたたえていた。

「さあ、そろそろ出よう。お兄さんが待っているだろうから」

 そこで、思い出した。

 今朝、兄とけんかをし、家を飛び出したことを。イスから立ちあがらない睡蓮に、美綴は首傾げた。

「春待ちゃん、どうかしたかい」

「今朝……兄とけんかをしたことを思い出して」

「きみがお兄さんと? 珍しいこともあるものだ」

「そう、なんですかね……」

「帰りづらい?」

「怒りにまかせて、『夕食は食べて帰る』って、いってしまったんです。だから帰っても、わたしのごはんはないかもしれなくて」

「きみのお兄さんだよ。そんなこと、あるはずないさ。送ってあげるから、ゆっくり用意しておいで」

 そういうと、美綴は伝票を持って、レジのほうへと歩いて行ってしまった。睡蓮は、いわれてとおりに身支度を整えると、のろのろとイスから立ちあがった。

 美綴はすでに支払いを済ませ、レジ前のソファに座り、待ってくれていた。

「あの……」

「さあ。行こうか」

「はい」

 にこやかにソファから立ちあがり、睡蓮の背を押す美綴のエスコートは、清潔な紳士そのものだった。

 店を後にしたふたりは、喫茶店の駐車場で待つ、美綴の愛車のもとへ向かった。ルージュ・ルビのシトロエンDS3。

 美綴はキーレスエントリーでロックを外すと、右側にまわり、助手席のドアを開けた。

「どうぞ、春待ちゃん」

「お邪魔します」

「まさか。大歓迎だよ」

 睡蓮の視線にあわせほほ笑み、ていねいにドアを閉めると、自身も運転席に乗りこみ、エンジンをかけた。

「左ハンドルだと、不便なことないですか?」

「うーん。ドライブスルーとか駐車券くらいかな。右ハンドルにも変えられるみたいだけど、最終的には好みの問題だと思うよ」

 美綴がアクセルを踏みこむと、しなやかで力強いエンジン音が、革のシートから伝わってくる。ざら、ざら、とタイヤが駐車場の砂利をゆっくりと踏みつけていく音がする。

「それじゃあ、出発するよ」

「……はい」

「お兄さんと顔をあわせるのが、こわい?」

「憂鬱、です」

「――夕食は、わたしと食べる?」

 つい、ぱっ、と顔をあげる。ずっと、それが本当になればいいのに、と思っていたからだ。

 しかし、美綴は困ったように眉を下げ、睡蓮を見つめていた。美綴にこれ以上、迷惑はかけたくないのに。

「い、いえ。大丈夫です」

「遠慮しないでよ」

「兄が、怒りますから」

「まさか」

「ほんとうです。嫉妬に狂って、あなたをナイフで刺してしまうかも」

「ふふふ。そうか。それは、こわいな」

「……それだけ?」

「きみのお兄さんのことは、それなりに理解しているつもりだよ。きみと店で長々と談笑していると、お兄さんが店に直接電話をかけてきたこともある。『帰りが遅い!』 とね」

「いつのまに、そんなこと。だから、連絡用の自分のスマホがほしいって、いつもいってるのに」

「スマホ? きみに、あんなものは必要ないよ」

「だって、みんな持ってるのに」

「人との繋がりを持ちすぎることは、とても恐ろしいことだよ。だから、きみには不要のものだ」

「わたしだって、みんなと同じになりたいんです」

「きみは、みんなとは違う。同じだなんて、とんでもない」

 夜になりかけている景色を赤い車が走っていく。冷たい夜の気配が深まっていくにつれ、睡蓮の帰るべき場所が近づいてくる。

 帰りたくない。このまま、どこかへ行ってしまえばいいのに。どれだけ睡蓮が強く願っても、誰も願いを叶えてはくれない。

 車は、あっというまに春待家に着いてしまった。美綴によって、あっけなく助手席のドアが開けられてしまう。睡蓮は、取り繕うように顔をあげ、座ったままゆっくりと顔をあげた。

「ありがとうございました、美綴さん」

「わたしが誘ったんだ。そんなことをいう必要はないんだよ」

「美綴さん……」

「なんだい? 春待ちゃん」

「あの……」

 ガチャリ、という重々しい音が響いた。春待家の玄関ドアが開き、なかから杠葉が飛び出してきた。

 家の門を開け放つと、助手席側に立っている美綴の胸倉をつかみ、ギロリと睨みつけた。

「スイに、何をした?」

「おいおい。何もしていないよ」

「じゃあこれはいったい、どういう状況なんだ」

「見たままだ。彼女を送って来たんだ」

「彼女、だと……?」

「早とちるな。女性を指すときに『彼女』と表現するのは、おうおうにしてあることだ」

「他意があるに決まっている」

「おとなとしての責任感でもって、家に送って来たまでだ」

「スイをこれ以上、色目で見るな」

「色目だなんて、心外だな」

「さあ、スイ。さっさとここから出るんだ」

 杠葉にそういわれ、睡蓮は『LOVER’S FOREST』のショップバッグと学校かばんを抱え、美綴へお辞儀をすると、黙って車から降りた。

 杠葉は睡蓮が大切そうに抱いている、ショップバッグを恨めしそうにねめつける。

「また、プレゼント攻撃か。小賢しい」

「インスピレーションのためだ。クリエイターとして、彼女に似合うものを見繕っているだけ」

「男だろうと女だろうと、ぼく以外の人間がスイに近づくことは許さない」

 杠葉の言葉に、美綴は氷のような冷気をたたえ、目を細めた。

「……あなたは、狂っているよ」

 その瞬間、杠葉は、美綴の首へと手を伸ばした。美綴は、あくまで冷静に、杠葉の手首を制するように、ゆったりと、しかしきつく掴んだ。

 杠葉の息をのむ音が、やけに鮮明に聞こえた。顔色が、紙のように真っ青になり、こめかみには脂汗も浮かんでいた。いまにも、美綴の細い首を絞めあげそうな眼孔に、睡蓮は立ちすくんだ。

 美綴は、強く掴んだ杠葉の手を下におろすと、何でもないことのようにいった。

「春待ちゃん。それじゃあ」

「あ……はい」

 そういうと美綴は、遠い異国の車に乗った。重厚なエンジン音を響かせ、薄暗がりの淡い闇のなかへと、消えていった。


 ■


 椎名夜桜は、いらだっていた。

 以前会った、日焼けをした女。あれからあいつに、むりやりチャットアプリのアカウントを交換させられた。

 その夜、すぐにチャットが送られてきた。

『ども! よろしく~』

 もちろん、返信なんて送る気にならなかった。無表情で、スマホをベッドに放り投げた。

 しかし、無視しているにも関わらず、次々と通知が送られてくる。

『んでさあ、春待さんのことだっけ?』

 そうだ。自分が知りたいのは、睡蓮のことだけ。そういわんばかりに、夜桜は彼女にすぐ返信を打った。

『さっさと、教えて』

『いや、あのさ。そいや、あたし。まだ、あんたに名乗ってなかったわ』

 正直、女の名前など、どうでもいい。

 夜桜が返事をしないでいると、そんなことはお構いなしに、女はチャット上で名前を名乗った。

『あたし、纐纈こうけつ恵真エマ。よろしく。あんたは?』

 会話を進めるために、夜桜はすぐに名前を送った。

『椎名夜桜』

『へえ。んでさ、春待さんの事なんだけど。あの子、中学の頃、付き合ってた子がいたんだけどね?』

 その文章を読んだだけで、夜桜を目を剥き、吐き気をもよおした。エマが送って来た文章の意味を理解するのに、何秒かを要した。そして、そんなわけはない、と自分にいい聞かせた。あれだけ自分の足で、睡蓮が中学のころの同級生たちに、彼女のことを聞いてまわったのに、こんな話は出なかったじゃないか。

 嘘だ、嘘に決まってる。

 こいつが、嘘をついているんだ。

『くだらない』

『はあ? あたしが嘘ついてるっての?』

『信じられるわけない』

『あのさ。嘘だったら、なんで見ず知らずのあんたに時間つかってまで、こんなことしてんの? あたしは』

 いままでも、これからも、夜桜の気持ちは、たったひとつに占められている。睡蓮のことを知りたい。これだけだ。ゆえに、エマのいうことが嘘であれ、真実であれ、最後まで聞いてみる価値はあるんじゃないか。嘘だったら、こいつが睡蓮の敵だと、確信できるだけ。

『わかった。さっさと、全部話して』

『ったく。まあ、結局、何がいいたいのかってさ。春待さんは、その子をこっぴどくフッたのね。中学時代、ずっと浮いてたのは、そういう理由ってわけ』

 夜桜は、はらわたが煮えくり返りそうなのを必死に押さえつけながら、なんとか返信内容を打ちこんでいく。

『それで?』

『いいたかったことは、いまので全部かな』

『あっそ。その女、なんでフラれたの? 今、その女はどこで何をしているの?』

『うわ、急にテンション高。ああーその子、今は、音信不通だよ。なんで、フラれたのかも知らない。ふたりにしかわからない、理由があったんでしょ』

 エマの漠然とした説明に、夜桜は、もはやこの時間は無意味だと思いはじめた。これ以上続けても、時間の無駄。

 だが最後に、一番重要だと思える質問をしてみた。

『その女の名前は?』

『ああ。まだ、いってなかったか』

『知ってるなら、さっさといって』

加島かしま有栖アリス。……あたしがあんたにこうして連絡してんのは、春待さんのフリ方が、まじでひどかったから注意勧告のためなの。それだけだから。ほんと、感謝してよね』

『そもそも頼んでない』

『あのさ、まずはその態度、なんとかしたら? 春待さんにすきになってほしいんじゃないの?』

 ここで、夜桜はアプリを閉じた。既読無視だが、そんなことはもう、どうでもいい。

 睡蓮はスマホを持っていない。彼女からの連絡も来ないのに、これ以上スマホを持っていても、手が疲れるだけだ。

 近ごろ、夜桜はいよいよ、睡蓮以外の人間とのコミュニケーションが面倒くさくなっていた。一学期の最初こそ、夜桜はクラスメイト達に人当たり良く接していた。だが最近は、睡蓮が他のクラスメイトに話しかけられると、番犬のように、そのクラスメイトを睨みつけてしまう。

 まだ、初夏になったばかりだというのに、夜桜はクラスから浮きはじめていた。だが、夜桜はむしろそれを歓迎していた。中学の睡蓮と同じ、この状況。さらに、睡蓮を独り占めできる環境へと、自動的に整いはじめている。クラスメイトが自分に話しかけてこなくなったぶん、自分のすべての時間を睡蓮に捧げられる。

 自分には、睡蓮さえいれば、それでいい。

「春待さん。今、何してるかな」

 そのとき、ブブブ、とスマホのバイブレーションが鳴った。ディスプレイを見ると、チャットアプリの電話機能を使って、エマが電話をかけて来ていた。

 まだ、用事があるらしい。気乗りしないが、睡蓮の話かもしれないと思うと、通話ボタンをタップするしかなかった。

「はい?」

『なんで、既読無視?』

「わるい?」

『既読無視とか、ありえないんですけど』

「もう、あんたに用事ない」

『こっちは、あんの! アリスはあたしの親友だったの』

「だから?」

『あんた、夜桜、だっけ? あんたさ。アリスにそっくりなんだよね。性格とか、行動パターンとか』

「……はあ?」

『あんた、このまま行くとぜったい……アリスと同じ目にあうよ』

 言葉の意味を理解するや否や、夜桜はスマホを壁に投げつけていた。ゴトンッ、と鈍い音がして、そのまま薄い機械の板は、固い床に叩きつけられた。通話がまだ続いていたので、夜桜は迷わずそれを終了した。

「出なくても、よかったな」

 呟くと、夜桜はスマホの電源を切った。


 ■


 その日、夜桜は幸福な時間のひとつである、睡蓮とともに下校するという予定を苦渋の表情で断った。

「あの、春待さん……。あたし、今日は一緒に帰れないの」

「そうなの? わかった」

「ごめんなさい」

「べつに、いいよ」

「春待さんも、さみしいよね? 明日は、いっしょに帰ろうね?」

「うん、そうだね」

「また……明日ね、春待さん」

 この世の終わりかと思えるほど、辛い顔をして、夜桜は睡蓮の両手を、自分のそれで包みこんだ。睡蓮はきれいなくちびるを、にっこりと緩ませ、うなずいてくれる。

 睡蓮との、貴重な時間。それを断ってまで、夜桜は違う時間を選んだ。

 エマから、『加島有栖を一緒に探して』という内容の通知が入ったのは、今日の午後のことだった。

 夜桜は通知欄で、エマからのチャットの内容を確認し、すぐに返事を送った。

『わかった』

 かつて、睡蓮と付きあっていた女。その顔を拝めるということは、夜桜には価値のある行為に思えた。

 アリスよりも、自分のほうが優っていることを確かめるため。優っているものの数があればあるほど、睡蓮にどれだけ愛されているのか実感できるはずだ、と思った。

 エマから、時間と待ち合わせ場所の通知が入ったので、夜桜はスマホを閉じ、通学かばんに放りこんだ。

 睡蓮がスマホを持ってくれれば、高校生活がますます彩のあるものになるのに、とたまに思う。しかし、スマホなんてもの、睡蓮には似合わないとも思う。睡蓮の持ち物は、きれいなものだけでいい。例えば、睡蓮の瞳を通じた景色だけが納められたカメラだとか、睡蓮が選び、その指で摘まれ、束ねられた野花のブーケだとか、睡蓮のくちびるを毎日彩っているリップだとか。

 睡蓮のことを考えるだけで、夜桜は世界で一番幸せになれた。


 エマとの待ち合わせ時間になった。エマは、予定時間ちょうどに現れた。

 夜桜はセーラー服だったが、エマはブラウンのブレザーだった。モスグリーンのプリーツスカートに、グレーのスニーカー。茶髪の長い髪は、シュシュでまとめられ、学生たちに人気のブランドのリュックを背負っていた。

 十六夜駅前のベーカリー『トゥージュール』。イートインスペースにて、夜桜はアップルパイとミルクティー。エマは、クルミパンとストレートティーをトレイに乗せ、向かい合って座った。

 エマは、スマホをトレイの隣に置き、ストレートティーをひと口含んだ。ディスプレイを何回かタップした後、夜桜の正面に掲げて見せた。

「この子が、アリスだよ」

 瞬間、夜桜は、嫉妬の炎に燃えあがった。

 加島有栖は、自分よりも、何倍も可愛らしかった。清らかなミルクのような滑らかな肌、宝石のような煌めきのある大きな瞳に羽毛のようなまつ毛、果実のような瑞々しいくちびる、腰まで伸びた色素の薄いふわふわの栗色の髪。

 でも――と、自分を落ち着かせる。

 今は、違う。睡蓮は自分だけのもの。だったら、加島有栖なんて関係ない。アリスがどれほど容姿に優れていようが、そんなもの意味はないのんだから。

 加島有栖は、睡蓮にフラれたのだから。

 密かに、甘美な優越感に浸っていると、エマがクルミパンを食べながら、夜桜を指差した。

「あんたがどうして、春待さんと付き合えたのか、わかる?」

「は? なんであんたに、そんなことをいわなくちゃいけないの」

「愛しあってるから、とでもいうつもり?」

「あたりまえでしょ」

「ははっ。本当に、アリスそっくり!」

 エマは、眉間に縦ジワを刻んだ。

「いい? 春待さんはね、あんたを同情し、哀れんでいるだけ。愛なんて、ないの。あいつは、あんたもアリスも、ペットぐらいにしか思ってないよ」

「……ペット?」

「そ。たしか、春待さんって、ヤバめのシスコンお兄さんがいたでしょ。春待さんの本命は、そっちなのかもね」

 パシャ、と水音がした。

 エマは自分の皮膚に、熱からくる、じわりとした痛みを感じた。

「アッツ……!」

 夜桜にかけられた、熱いミルクティーが、じわじわと制服に染みこんでいく。あわてて、氷の入ったグラスの水を自分に勢いよくかけてしまう。自分もイスも水浸しだ。

「あ、あんた、何考えてんのッ?」

 エマはイライラを隠すことなく吐き捨てると、ブレザーのポケットからハンカチを取り出し、水分を拭っていく。

「はあ。アリスも、あたしの忠告に、いっつも怒ってたっけ」

 さっきから、アリスアリス、とうるさい女だ。

 夜桜は空になったミルクティーのカップを置き、アップルパイにフォークを刺した。ミルクティーよりも、フォークをブッ刺してやったほうが効き目があったかもしれないと思う。

 いいかげん、エマと向かいあって座るのにも、飽きてきた。睡蓮の顔が見たい。今ごろ、何をしているのだろう、と思いを馳せる。

 そこで夜桜は、ちらりとエマを見やる。ここまでしているのに、自分に激昂しないエマに違和感を抱いたのだ。普通の人間なら、これまでの夜桜の行動や態度は、絶縁されてもおかしくないものばかりだったはず。しかも、会ってまだ数回ていどの人間だ。

 この纐纈恵真という女は、いったい、なんなのだろう?

「今、アリスは音信不通になってるっていったでしょ。家に凸っても、親から追い返されちゃうんだよ。だから、アリスの情報をSNSで集めてるんだ。このあいだも、有力な情報をくれた友達がいて……」

 いいかけたエマが、手に持っていたスマホに視線を落とした。続けて、しゅ、しゅ、とスワイプやタップを繰り返したあと、夜桜へと顔をあげた。

「今、友達から……アリスがいた、って連絡がきた! 十三夜駅のホームだって!」

 その駅は、ここ十六夜駅から、二個前の駅であった。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?