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episode10 ブルー・ロータスへの証明

 加島有栖がいたという十三夜駅へ向かうため、夜桜とエマはベーカリー『トゥージュール』を出た。十六夜駅の改札を通り、電車に乗りこむと、のぼり方面二駅目の十三夜駅で降りた。利用者の多い、広いホームの十三夜駅。だが、この時間はあまり人気がなかった。二三人、スマホを見たり、読書をしながら、電車を待っている。だが、加島有栖らしき人物は見当たらない。

 エマは焦ったように、キョロキョロとあたりを見渡しながら、チャットアプリを開き、友人に連絡を入れた。返信はすぐに返ってきた。

『今どこ? アリス、いないみたい』

『十三夜についたの? うちは今、改札出てから、五百メートルくらい離れたところにあるコンビニのそばにいる』

『そこにアリスがいるの?』

『いや、連絡入れたあと、すぐにアリスを追いかけたんだけどさ。さっき、このコンビニの近くで見失っちゃって……ごめん』

 エマは、気落ちしたように『そっか、ありがとう』と返すと、疲れたように息を吐いた。

「はは。まじかあ。なかなか、うまくいかないもんだねー」

 あからさまにがっかりしているエマに、夜桜は髪を耳にかきあげながらいった。

「ねえ、もう帰っていい?」

「え? 帰るの?」

「だって、もう手がかりはないんでしょ。そのアリスって人に会えないんなら、もうここに用はないし」

「あっそ。まあ、今日はもういいよ」

「それじゃ、さよなら」

「うん、バイバーイ。またね、ザクりん」

 聞き流そうかと思った夜桜だったが、やはりどうしても聞き捨てならなかった。

「何それ」

「え? 何が?」

「呼び方」

「ザクりんにした。かわいーでしょ。あたしのこともすきに呼んでいいよん」

「……呼ばないっ」

 そういい捨て、夜桜はちょうど来た電車に乗りこんだ。当然、エマも同じ電車に乗ってくる。

「あはは。とちゅうまで一緒なのに、バイバイしちゃったね。また、再会だ!」

 夜桜は、苦い顔をして、目を細めた。エマといると、イライラする。この女は、何を考えているのかわからない。なぜ、こんなにも自分に絡んでくるのだ。

 そもそも、この女といるせいで、睡蓮との時間が減っている。さっさと、この胸のざわつきを解消して、前のように睡蓮とずっと一緒にいたいのに。

 睡蓮の過去を知りたい自分と、睡蓮と一緒にいたい自分。矛盾する気持ちが、夜桜をさらにイラつかせた。

 エマはというと、相変わらずSNSでアリスの行方を追っているようだ。夜桜は内心で、悪態をついた。

 さっさと見つかってよ。


 ■


 エマの友人から連絡が来たときは、加島有栖なんて、すぐに見つかると思っていた。

 しかしその後、加島有栖の手がかりは、なにも出てこなくなってしまった。

 次の朝、睡蓮とともに登校するため、夜桜は春待家のインターホンを押した。見た目はふつうのインターホン。だが、これを押せば睡蓮がドアを開けてくれる。そう思うと、まるでハープのような心地のいい音色に聞こえた。

 重々しいドアが開く。朝陽のもとに、睡蓮のさらりとした艶やかな髪がさらされ、セーラーのプリーツがひらりとはためく。憂いを帯びたひとみ、薄く開いた薄桃のくちびる。透き通った桜色の肌。

 門から出て来た睡蓮に、夜桜はため息まじりに、うっとりと囁いた。

「春待さん、きれい」

「それ。毎朝、いうんだね」

「勝手に、口から出ちゃうんだ」

「すきにすれば……」

 駅までの道のりを、並んで歩く。

「椎名さん。最近、忙しそうだね」

「え」

 口角が自然とあがり、背中にぞくりとしたものが走った。それをいった睡蓮の感情を勝手に推測し、心臓がどきどきと早鐘を打ちはじめる。

「ど……どうして? もしかして、さ、さみしい、とか? あたしがいなくて、つまらなかったとか?」

 夜桜は瞳を輝かせながら、睡蓮につめよった。しかし、睡蓮は困ったような顔をして、黙っている。どきどきと興奮していた心臓はしだいに熱を失い、頭は冷水を浴びせられたように静まり返っていく。

「ねえ、どうなの?」

 口にした言葉は、意外なほどに冷め切っていた。睡蓮の肩が、びくりと震える。

「春待さん。黙ってちゃ、わからないよ」

「えっと、そうかも。つまらなかったかもしれない」

「どうして?」

「ふつう、ひとりは、つまらないものなんじゃないの?」

 その一言に、夜桜はいいようのない興奮を覚えた。息をのみ、睡蓮の言葉を一文字ずつ噛みしめる。

 睡蓮にとっては、その言葉が真実がどうかは、問題ではなかった。夜桜の機嫌をそこねるくらいなら、嘘をつかなければ、身を守れないのなら、いくらでもつける。

「ところで……椎名さん」

「なっ、なあに?」

 いまだ、興奮で声が引きつっている夜桜に、睡蓮は意を決するようにいった。

「うちの兄と、お出かけする件なんだけど……」

「へ」

「ピクニックをすることになったの。今度の日曜日、どう?」

 喜びに満ちあふれていた夜桜の表情が嘘のように消えた。うろたえるように顔を強張らせ、何かをいおうと口をぱくぱくとさせている。やがて、夜桜はか細い声で、ぼそぼそとつぶやいた。

「……春待さんがいるなら、どこにでも行きたい」

「なら日曜日、行くのね?」

「うん……」

「わかった。また、細かいことが決まったら、いうから」

「わかった……」

「あ。それから、もう一人、来るから」

「はっ? ど、どこの誰っ?」

 夜桜は目を剥いて、睡蓮を凝視した。睡蓮は怯むことなく、淡々と続ける。

「美綴さんっていう人。車を出してくれるから、失礼のないようにしてね」

「……へえ」

 夜桜は内心で、頭を抱えた。あれだけ、二人っきりがいいと睡蓮にいったのに。兄だけでなく、よくわからない人間まで来るなんて。彼女は、ちっとも理解してくれていない。

 夜桜は、睡蓮だけがいい。睡蓮とだけ、話したい。自分の時間、全てを睡蓮に使いたい。そんなに、むずかしいことなのだろうか。

 ピクニックに行けば、睡蓮との時間ができる。でも、睡蓮と誰かが一緒にいるのを見るのは、耐えられない。また、心が暴れ出しそうで、怖い。

 気づくと、いつのまにか改札に着いていた。定期券を使い、改札を抜け、ホームへ向かう。

「椎名さん、どうしたの。ずっと黙ってるけど」

「えっと、あの、考えさせて……」

「ああ。最近、忙しいもんね。急がないから、大丈夫だよ」

「ち、違うの。あたし……」

 ふたりっきりがよかった。そんなわがまま、いえるわけない。

「わたしもね、美術部の夏のコンクールに送る絵の仕あげがあって、少し忙しいかわ。まだ日曜日まで、時間あるし。むりそうなら、連絡してくれればいいから」

 青葉の薫りがのった、夏の風が吹いた。睡蓮の夜色の髪が、さらりと揺れる。まるでそこだけ、違う季節になったかのような、睡蓮だけの風みたいで、夜桜は胸がいっぱいで泣きそうになった。


 ■


 休み時間、夜桜はひとりふらふらと、学校中を歩き回っていた。

 もうどうしたらいいのか、わからない。睡蓮に嫌われず、それでも自分の意見を通せるような言葉が見つからないのだ。そんな言葉、あるのかどうかもわからないのに。

 ひとりになって考えをまとめるため、授業がおわるたびに、廊下に出てひたすら歩いた。どれだけ歩いてもいいアイデアはわいてこない。

 でもこのまま、睡蓮とピクニックに行けないのはいやだ。夜桜は頭をがしがしとかいた。

 そのとき、通りかかった進路指導室のなかから、話し声が聞こえた。ひそひそと声をひそめているのかもしれないが、夜桜以外は誰もいない静かな廊下なので、いやでも声が聞こえてしまう。

 夜桜は思わず、耳を澄ませた。

 布と布が擦れあう、ごそごそという音。そして、誰かと誰かがささやきあう、ひそやかな声。

 夜桜は、ハッとした。

 声の主が、現代文担当で美術部顧問の丸山であることに。それじゃあ、相手はいったい誰なのだろう。

 もっとよく、ふたりの声を聞こうと夜桜は、そろりとドアのすきまに手を掛けた。あと数センチだけ開けば、進路指導室のなかが見える。

 見えた。

 やっぱり、現代文の丸山ニーナ。丸山と誰かは、机の上でからだを抱き締めあっていた。恋人同士のように見える。

 学校でなにをやっているんだ、と夜桜は呆れてしまう。

 ドアを閉めてその場を離れようとしたとき、顔をあげたもう一人の誰かと、目が合ってしまった。あわてる夜桜に、相手が目を細めて微笑む。心臓が、緊張でばくん、と跳ねた。

 夜桜は、その誰かの顔に、見覚えがあった。

 あれは、睡蓮が所属している美術部の副部長だ。

 なんで、ふたりがこんなところで、こんなことをしているのだろう?

 いっこくも早く、この場を離れたほうがいい、と思った。

 まだ、ドアのすきまから目が合っただけで、自分だということは、バレていないかもしれない。

 夜桜は、すきまから目を離すと、そろりそろりと進路指導室のドアから距離を取りはじめる。

——ガラリ

 ドアが開いた。進路指導室に背をむけていた夜桜の肩が、びくりと震えあがった。

「どこへ行くの?」

 振り返ると、美術部の副部長がにこやかな笑みをたたえて立っていた。

「え、えーと……」

「なかに、おいで」

「いや、でも」

「いいから」

 手を強く捕まれ、夜桜は進路指導室のなかへと、引きずられていった。

 いまから、自分は何をされるのだろうか。

 なかに入ると、丸山が腕を組み、机の前に立っていた。

 副部長に手を引っ張られながら、夜桜は丸山の前に連れてこられた。

「椎名さんだったんだ。あなたに見られたのなら……まあ、いいかな」

 夜桜は、なにがいいのかわからず、戸惑う。丸山は何をもってして、いいといっているのだろう。

 副部長は、夜桜の手を解放すると、丸山の隣に並んだ。

「急にごめんね。先生とこんなことをしているところを見られちゃったからさ。……ほら。口止めしなきゃ、と思って」

「は、はあ……」

 にこやかに話す副部長に、夜桜は顔を引きつらせた。

 百七十はあろう身長は、夜桜が知る女子たちのなかでいちばん高い。腰まである、優雅に打ち寄せる波のような長い黒髪と、モデルのような高い鼻、整った顔立ち。クラスメイトの誰かが彼女のことを「美しい魔女」と呼んでいた。悔しいが、そう思わざるを得ないと夜桜はおもってしまった。

「今日のこと、誰にもいわないでね。えっと、椎名さん、だっけ」

「そうですけど……」

「ああ、そうだ。ぼくは、美術部の副部長の白銀しろがね美鈴ミレー。椎名さんって、うちの部の春街さんと仲がいいらしいね。ぼくのこと、知ってた?」

「はい。名前までは、知りませんでしたけど」

「あはは。そうか」

 優しげに笑うミレーに、丸山が耳打ちをする。それを聞いたミレーは目を丸くして、驚き再度、夜桜を見た。

「へえ。きみが、春待さんと付き合ってるんだ」

「……それが何か」

「いや?」

 ミレーが言葉を濁すので、夜桜はイライラが募る。

 すると、丸山が一歩前に出て、すべてを見透かすようなまなざしで、夜桜を見つめた。

「アドバイスしてあげましょうか」

「アドバイス? 何の?」

「椎名さん。恋愛をするのが、あんまりうまくなさそうだから」

「はあ?」

「私たちなら、いいアドバイスをあげられるとおもう。いつでも質問して。全力で答えるから」

 にこにこと微笑む丸山の後ろで、ミレーが「はは」と苦笑を浮かべた。

 このふたりは、教師と生徒だ。ふつうなら、恋愛としては禁忌とされる関係性のはず。そんなふたりからの、恋愛のアドバイスなんて、当てになるのか。

 しかし、丸山は美術部の顧問だ。そして、ミレーは美術部の副部長。

 睡蓮のことについて、何か知っているのか?

 いや、自分以上に睡蓮のことについて知っている人間なんて、この学校にいるはずがない。なぜなら、睡蓮と付きあっているのは、自分だけなのだから。

 目の前にいるふたりに相談することなど、何もない。

 そういおうとしたとき、ミレーが冷たくスッと、目を細めた。

「きみには、敵が多そうだね」

 夜桜はハッ、と顔をあげた。

「美術部の部長。島袋さんは、春待さんと、とても距離が近いんじゃない? いやじゃないの?」

「いや、です……」

「この学校の外にも、邪魔者はいるんじゃない?」

「いる。たくさん、います!」

「それじゃあ、やっぱりぼくたちは、協力するべきだ。どうしてだか、わかる?」

「いいえ……」

 森のひだまりに照らされるようなミレーの魔女の微笑みに、夜桜は信者の表情で見あげた。

「きみの恋愛は不器用だ。ぼくと、とても似ている」

 ミレーの言葉は、とても魅力的だった。ひとりで睡蓮を守るのは、とても骨が折れることだったから。

 ミレーの言い聞かせるような声に、夜桜の心は弱っていった。ミレーの魔法の一言たちに、いますぐ、すがりつきたかった。

 夜桜をのぞきこむミレーの慈愛の表情に、丸山がうっとりと見惚れている。

「先生。先生も協力、してあげるんでしょ?」

 起こすようにミレーが話しかけると、丸山がまばたきをして、こっくりとうなずいた。

「もちろん。先生も椎名さんのこと、応援する!」

「ありがとう……ございます」

 夜桜は、うやうやしく頭をさげた。

 ふたりは「だいたい、ここにいるから、いつでも来て」と、手を振ってきた。

 夜桜が進路指導室を出ると、ちょうどチャイムが鳴った。早く教室に戻ろう。

 軽い倦怠感を感じながら、夜桜は廊下を急いだ。


 ■


 いいようのない不安感は、つねに続いた。

 睡蓮を誰かに捕られてしまう夢を、何度も見た。

 あるいは、睡蓮が自分じゃない他の誰かを愛してしまう夢。そんなこと、許さない。

 睡蓮に選ばれるためだけに、天然パーマを睡蓮のような直毛にしてからは、ていねいにケアをし、たくさんのお金もかけている。

 髪や肌の手入れも、念入りにするようになった。適当に買っていたチューブの洗顔料ではなく固形石鹸にし、肌に刺激を与えないよう繊細に洗っている。

 全ては、愛する睡蓮の隣に立つために。睡蓮に「すごいよ、椎名さん」といわれたいから、勉強も運動も、がんばっている。

 睡蓮のために、可愛くなる。

 睡蓮のために、全てに励む。

「なのに――春待さんは、あたしだけを見てくれない……」

 自室のベッドの上に転がってから、すでに時計は、午後十一時。肌に気を遣うなら、もう寝なければいけない時間だった。

 しかし、なかなか寝つけない。寝ようとすればするほど、睡蓮のことを考えてしまう。

 アリスのこともだ。

 アリスは、人形のように顔が整っていた。睡蓮のように神様から愛され、美貌を授かった部類の人間だった。

 だが、睡蓮には敵わない。睡蓮は、唯一無二なのだ。特別なのだ。

 だからアリスは、睡蓮にフラれたのだろうか。睡蓮には、睡蓮に見合う、特別な誰かがいる。

「それは……あたし……! だって、いま付き合っているのは、あたしだもん!」

 夜桜はベッドに寝そべりながら、イライラを壁にぶつけた。ドン! と、鈍い音が響く。まだ階下では、両親が起きているだろう。

 だが、そんなことはどうでもいい。苛立ちが収まるまで、何度もそのへんのものに当たり散らした。壁を蹴り、枕を投げ、そばに転がっていたぬいぐるみの腹を殴り続けた。

 すると、だんだん涙が溢れてきた。ぼろぼろと落ちてくる涙をぬぐいもせず、夜桜は一心不乱にぬいぐるみを痛めつけた。涙はぬいぐるみに、いくつもの染みを作る。真綿に、涙がどんどん染みこんでいく。

「アリスも……春待さんのお兄さんも……美術部の部長も……春待さんがすきなお洋服の店の店長も……全員、だいっきらい!」

 辛い。もう、こんな気持ちから、解放されたい。なんで、自分だけこんな気持ちにならないといけないのだろう。

 なんで、あんなにも美しい人を愛してしまったのだろう。

 夜桜は、ベッドから立ちあがった。

 通学かばんに入れたままになっていた空のペットボトルを取り出すと、二階にあるシャワールームへと向かい、洗面ボウルの蛇口を捻った。ペットボトルにギリギリまで水を溜めると、部屋に戻る。

 机の引き出しから頭痛薬を取り出し、何十錠かを手のひらに取り出すと、一気に口の中へと放りこんだ。

 だが、喉につまってなかなか飲みくだせない。吐き出しそうになりながらも、水でなんとか全部流しこみ、ベッドに潜った。

 自暴自棄だった。何もかも、どうでもよくなっていた。自分がどうなりたいのかも、よくわからなくなっていた。

 ただ、この感情から、解放されたかった。


 朝、目覚めると頭がぐらぐらしていた。ひどい耳鳴りがする。ふつうの状態ではないことだけはわかった。

 母親に薬を飲んだことは告げず、体調のことだけを伝えると、学校を休むようにいわれた。

 夜桜がベッドで寝ていると、母親がお粥を持ってきた。ベッドサイドに置きながら、腫れ物に触るように夜桜にいった。

「大丈夫……?」

「うん」

「昨夜、この部屋からやけに物音がしていたから、ようすがおかしいとは思っていたのだけれど、体調が悪かったのね。気づけなくて、ごめんね。病院は……」

「行かない。大したことない」

「そんなわけ……」

「大丈夫だから!」

 夜桜の怒鳴ると、母親はおおげさに肩を震わせた。戸惑うように、夜桜から一歩さがると、からだを縮こませて、うつむいてしまう。

「病院、ほんとうにいいのね」

 夜桜は、黙って頷いた。母親は、少しその場にとどまったが、それから何もいうとなく、夜桜の部屋から出て行った。

 両親は、最近の夜桜の変わり果てたさまに、困っていた。夜桜は、自分が変わっているという自覚はない。変わったのは、見た目だけだ。

 驚いている両親のほうがおかしい、と夜桜は思っていた。

 今までは、両親に合わせていただけだったのだ。

 今は、すきな人に、合わせるようになっただけ。

 ぐらぐらする頭のせいで、気分が悪くなる。耳鳴りもどんどん、ひどくなる。お粥なんて、食べられない。

「春待さん、いつごろお見舞いに来てくれるかな……」

 待ち遠しく思いながら、夜桜はスマホのチャットアプリを眺めた。


 ■


 ベッドのなかで、過ごしたまま、昼過ぎになった。まだ、学校はあと数時間ある。早く終わればいいのに。そうすれば、睡蓮が見舞いに来てくれる。

 本当は、学校なんてサボって、今すぐにお見舞いに来てほしいけれど、これ以上のわがままはいわない。


 あの日の放課後、夜桜は再び、あのふたりに会いに、進路指導室に行っていた。

 ドアをノックすると、すぐに返事が返ってきた。ガラガラと、ドアを開ける。丸山はおらず、ミレーだけが、イスに足を組んで座っていた。

 夜桜を見ると、ミレーはフッ、と怪しく微笑んだ。彼女の笑顔は、まるで極彩色の花が開いたときのような、胸に響くものがあった。

「もう来たんだ。そうとう、お困りだね」

 そういって、ミレーは机に頬杖をつき、猫みたく目を細めた。

「春待さんは、誰からも愛されてしまうから。男からも女からも」

「あの子は……愛に愛されているからね」

 なぜか、ミレーは寂しそうに呟いた。

「そんなことは、わかってる。あたしが知りたいのは『どうすれば、あたしだけが春待さんに愛されるか』だけ」

 夜桜は、必死の形相で、ミレーに詰め寄る。ミレーは後ずさることもなく、手慣れたようすで、眉尻をさげた。

「ずいぶんと、わがままな注文だね」

「あたしは、春待さんに愛されたいだけ。答えがもらえないなら、このまま帰ります」

「……答えをいう前に、きみにいくつか質問がしたいな」

「質問……?」

「いっただろう? 『きみは、ぼくに似ている』って。もしかしたら、ぼくもきみに学ぶところがあるかも知れない。等価交換、というやつさ。だから、少しだけぼくに、きみの時間をくれないか?」

 ミレーの真剣な表情に、夜桜はしぶしぶ頷いた。

「理由があるなら、別に構いませんけど」

「ありがとう。それじゃあ早速、聞きたいことがあるんだけど」

「何ですか」

「……きみは、春待さんを手に入れられなかったら、どうするの?」

「どういう意味っ?」

 聞き捨てならない、とばかりに夜桜は身を乗り出し、ミレーのセーラー服の肩口を掴んだ。

 ミレーは、腰まで伸びたウェーブの髪を揺らすと、整った顔を不安げに歪めた。

「ぼくは、ぼく以外の誰かに確認したいのさ。ぼくが『すきな人を手に入れられなかったら』……。それを考えると毎日、不安でたまらなくなる。『他ごと』で気を紛らわせるしか、自分を保てないんだ……」

「他ごと? なぜ、そんなことをするんです?」

「それは……」

「春待さんのいない世界なんて、考えられない……。あたしは、春待さんと一緒に生きられるまで、春待さんのことを追いかけ続ける」

 夜桜の瞳は、輝いていた。湖に浮かぶ、蓮の葉の雫が朝陽にきらめくように、夜桜の丸い双眸は純粋だった。

 ミレーは満足そうにくちびるの端を吊りあげると、夜桜の頭を優しく撫でた。

「きみは、すごいよ。ぼくも見習わないとね」

「あなたは……まさか、丸山先生じゃなくて、別の人を」

 その言葉の続きは、ミレーから差し出された人差し指によって、封じられてしまう。

「ぼくのことをどう思う?」

「え」

「ニーナ先生は、ぼくを彼氏のように愛してくれる。でも……あの子は、ぼくのことを『大切な女友達』だと、笑うんだ」

「それじゃあ……本当は、その人のことを」

 ミレーは、一瞬だけ泣きそうな顔をした。

 しかし、夜桜が瞬きをしたあとには、慈愛に満ちた笑顔に戻っていた。

「……じゃあ約束通り、ヒントをあげるよ」

 気を取り直した夜桜は、自然と胸を高鳴らせる。これを聞けば、睡蓮を手に入れられるのかも知れないのだ。

「――誰かを手に入れる手段というのは、段取りを踏めば、けっこう簡単なことだとぼくは思う」

「はあ? 本気でいってるんですか?」

「きみに覚悟があれば、とてもすんなりとね」

「まさか」

「彼女の永遠に手に入れるには、彼女の頭をきみでいっぱいにすればいいだけだ」

「……まずは、やり方を教えてください」

「たくさん、あるよ。ぼくだったら……」

 ミレーは、遠い誰かのことを見つめていた。手の届かないような、果てのない遠くを掴むように。

「ぼくだったら……あの子のことを好きで好きでたまらなくなったとき、あの子の前で、自分の胸にナイフを突き立てるだろうね」


 コンコン、という部屋のノック音で目を覚ました。

 まだ、からだはダルいままだったが、夜桜は、待ってましたといわんばかりに飛び起きた。

 やっと、睡蓮が来てくれた。このときだけを、ずっとずっと待っていた。

 しかし、ドアを開けて入ってきた母親を見て、夜桜はがっくりと肩を落とした。いま見たいのは、この人じゃない。

「よっちゃん。お粥、食べてないじゃない」

「その呼び方、やめてってば」

「何か食べないと、よくならないよ……」

「ねえ。あたしが寝ているとき、誰か来なかった?」

「いいえ。誰も来なかったけど」

 夜桜は、時計を見あげた。十七時半を過ぎている。もうとっくに、学校は終わっている時間なのに。

 嘘。そんなはずない。あたしたち、付きあってるのに、お見舞いに来ないなんて。

 枕元に置いてあったスマホを取りあげ、壁に叩きつけた。バシッ、と乾いた音をたて、床に落ちた。

 スマホを睨みつけながら、夜桜は目を剥いて、叫んだ。

「どうして! どうしてッ! どうしてッ………!」

 母親は黙って、投げ捨てられたスマホを拾いあげようとする。

「触らないで! それに! もうかまわないでよ!」

 怒り狂った夜桜の悲鳴にも似た罵倒に、母親は絶望的な表情を浮かべた。そして、何かに耐えるように、背中を丸め、静かに部屋を出て行った。

 夜桜は、布団にくるまる。このまま、目が覚めなければいいのに、とおもいながら、目を閉じた。

 どうすれば、彼女は自分だけを見てくれるのだろう――。

 夜桜は、勢いよく起きあがると、布団を剥ぎ、ベッドから飛び降りた。クロゼットから、一番のお気に入りの服を取り出す。

 白いピューリタンカラーの、綿素材のブラックワンピース。シャツカフス部分はホワイトに切り替えされた、クレリックデザイン。

 ブラックのクルーソックスを履き、トークハットを被る。そして、顔全体が隠れる黒いベールを厳かに垂らした。

 クロゼットの奥から、黒い箱を引きずり出す。フタを取ると、靴底の厚いブラックのストラップシューズが、きらきらと宝石のように光っていた。

「ああ……お兄さんの名前、なんだったっけ。思い出せないや……」

 フローリングの床の上で、シューズを履いた。

 ベッドのフレームに、サバイバル用の長く太い縄を括りつけた。それを、窓から投げる。

 そして、荷物も持たずに縄を握ると、壁を蹴りながら、少しずつ下へと降りて行く。

 数分して、ふわり、と黒いベールがひらめき、地面にたどり着いた。

 そのまま、振り返ることなく、門の外へと歩み出した。


 春待家の家の門が見えてくる。

 とたん、涙があふれてきた。

「どうして、お見舞い……来てくれなかったの……。あたしのこと、心配じゃないの? あたしのこと、好きじゃないの…?」

 黒いベールの奥は、涙でぐしゃぐしゃになっていた。ぼろぼろと、涙が頬を伝っていく。

 リビングに灯りがついているのが見えた。彼女は、いま兄と食事をしているのだろうか。

「そうだ。あの男から、ナイフを取り返さなきゃ……だってあれは、あたしのものなんだもん」

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