夕食のいいにおいが漂うリビング。テーブルについた睡蓮の前に、杠葉が木のプレイスマットを敷いた。どこか、幸せそうな表情をしてる杠葉を睡蓮は、そっと見あげた。
「今日のごはん、何?」
「玄米ご飯、小松菜と油揚げの味噌汁。ゴーヤーチャンプルー。ナスの煮びたし、キュウリとワカメの酢の物」
「ゴーヤー?」
睡蓮は、つるんとした眉間に、小さな皺を寄せた。杠葉は、ニヤッといたずらっぽく口角をあげると、ここぞとばかりにその眉間を突いた。
「スイ。ゴーヤーは、そんなに嫌いじゃないだろ」
「苦いもん」
「苦くないようにしてやったから」
「そんなこと、できるわけない」
「できたんだ。ぼくを信じろ」
「……へえ。そこまでいうんだ」
猫のように目を細め、疑いのまなざしを向けてくる睡蓮。杠葉は堪えきれないとばかりに、ニヤついてしまう顔を右手で隠した。
食卓が整うと、ふたりして今日の献立を前に、手を合わせた。
「さあ、食べよう」
「いただきまーす……」
不服そうにチャンプルーを見つめていう睡蓮を見つめ、杠葉の眉尻が至福とばかりに下がった。かちゃり、と箸を持ちあげかけ、杠葉はその手を止めた。
睡蓮がふしぎそうに、首を傾げる。
「どうかした、杠葉」
「……いま、外で物音がしなかったか?」
「えっ。何も、聞こえなかったけど」
「鈍感なおまえと違って、ぼくには聞こえたよ」
「あっそ。じゃあ、見てきたら」
杠葉は静かに、イスから立ちあがり、玄関の方へ歩いていく。
「待って。わたしも行く」
「だめだ。あぶないから」
「ちょっと。何かあったわけでもないのに、大げさだよ」
「いいから。ここで待ってろ。おまえは食べるのが遅いんだから」
「わかったよ。早く戻ってきてね」
杠葉は、睡蓮の額にくちびるで、そっと触れた。
玄関に着くと、鍵に手をかけようとし、再び手を止めた。しばらく考え、鍵を外すのは、止めた。
今、ここを開けてはいけない。なぜか、そう思った。
杠葉は、足音を立てないようにしつつ、二階へ向かった。睡蓮の部屋からなら、玄関の前が見える。電気をつけず部屋に入り、カーテンを閉めたまま、外を覗いた。
暗がりのなか、ぼんやりと見えたそのすがたに、杠葉は思わず息を飲んだ。
「何をしているんだ、あの子は……?」
門の外に、椎名夜桜がおり、我が家を見あげていた。彼女の表情は、被ったトークハットの黒いベールのせいで、読み取ることは出来ない。
夜桜の鬼気迫る雰囲気、おどろおどろしい格好に、杠葉は背筋が凍った。
「まさか、ナイフを取り戻しに来たのか――」
すると、彼女がまとっている服が、一気に喪服のように見えてくる。
こんな時間に、インターフォンも鳴らさず、どれほどの時間、あそこに立っているんだ。
彼女は、いま正常ではない。
このまま、彼女を放置するわけにはいかない。睡蓮を守らなければ、と杠葉は一気に思考を回転させはじめた。
「しかし、どうすれば……」
どれくらい、思い悩んでいたのだろう。ハッとして、外を確認する。そして、わが目を疑った。
睡蓮が、家の外に出ていたのだ。息が止まった。どっと、冷や汗が出てくる。悶々と巡らせていた思考は、あっというまに真っ白になってしまった。
「――スイッ!」
杠葉は、転がるように部屋を飛び出し、玄関へと走った。
■
いくら待っても戻って来ない兄に、睡蓮はため息を吐いた。杠葉が用意してくれたごはんは、すでに堪能に、玄米も小松菜と油揚げの味噌汁も食べ終わってしまった。
ゴーヤーチャンプルーもおいしかったので、どんな魔法を使って苦くなくしたのか聞きたいのに、ちっとも戻ってこない。もしかしたら、ゴーヤーが苦くないと気づいたときの自分の反応をどこかから盗み見て、またニヤついているのかもしれない。これはさっさと探しに行って、おでこにデコピンをお見舞いしないといけないかもしれない。
いよいよ、待ちくたびれた睡蓮は、杠葉にどんな怒りの言葉をぶつけようかと考えながら、玄関へ向かった。だが、兄のすがたは見えない。
いったい、どこへ行ったのだろう? やっぱり誰かが訪ねてきていて、外に出てしまったのだろうか。ドアが開くような音は聞こえなかったはずだけれど。
ふしぎに思いながら、いちおう確認してみようと、睡蓮は鍵を開け、玄関ドアを開けた。
初夏の夜の空気が、ふわりと睡蓮の肌を撫でた。あたりを見渡すが、杠葉のすがたは見えない。やっぱり、家のなかにいるらしい。
「まったく、どこに隠れたんだか……」
「は……春待さん……!」
いやでも耳にこびりついてしまっているハスキーボイスに、びくりと肩が震えた。この時間に、この場所で、彼女の声を聞くとは、夢にも思っていなかったのだ。
門の外へと視線を滑らせる。そこには、見慣れない服を身に纏った、夜桜がいた。黒いワンピースに、トークハットから垂れ下がった黒いベール。
夜の闇に溶けていくような、異様なファッションに、睡蓮はゾッと身を震わせた。
「椎名さん。どうして、こんな時間にここにいるの?」
「わからないの?」
「え?」
「なんで、わからないのッ! おかしいでしょッ!」
夜桜が玄関の門に、乱暴に手を置いた。カチャン、と鉄のぶつかる音が、玄関ライトの淡い光を受け、スポットライトのように鼓膜を引き付ける。
「な、何を……?」
夜桜のおかしなようすに、睡蓮は混乱した。どうして、いきなり彼女がこんなことになってしまったのか、まったく見当がつかなかった。
夜桜は門を開け、黒いワンピースのすそを初夏の夜風にひるがえらせ、なかへと侵入した。黒いベールをあげ、泣きそうな顔で笑いながら、睡蓮の眼前へと歩み寄る。
睡蓮の頬へと、夜桜は手を伸ばした。睡蓮の言葉、ひとつひとつが、夜桜にとっては、聖書の一文のように尊かった。だからこそ、睡蓮の言葉を胸に、彼女だけを信じ、いつまでもいつまでも、待っていたのに。
「ねえ……アリスって誰なの?」
夜桜の質問に、睡蓮はハッと息を飲んだ。
「加島有栖のこと? どうして、あなたがその名前を」
「――どうしてッ?」
取り乱す夜桜の挙動に、睡蓮は恐怖からギュ、と目をつむる。
「中学生のときに、付き合ってたんでしょ? でも、あの子は春待さんにフラれた。いまは、あたしと付き合ってる! ねえ……いまのあなたには、あたしだけでしょ? でも、エマは、あたしのことをアリスにそっくりだっていう……。ねえ。いってよ! いまは、いまだって! いまは、あたしだけだって! だって、だって……あなたはまだ、ただの一度も、あたしに『愛してる』って、いってくれてないじゃない!」
夜桜のひんやりとした手が、睡蓮の頬を包んでいた。睡蓮は、焦点のあわない目で、家の前の街頭に群がる蛾を見つめている。あるいは、ここではないどこかへと、思いを馳せていた。
「あはは。その言葉、
「え……?」
夜桜は、睡蓮の表情を見て、感じたことのない思いに見舞われた。それは、恐怖にも似ているし、恍惚にも似ていた。こんな睡蓮の表情は、初めて見たのだ。何かを懐かしむ、黒曜石のような瞳は優しく細められ、くちびるは緩く開いている。
きれいだった。この宝石を見ているのは、いま世界で自分だけだと優越感に浸った瞬間に、絶望へと叩き落される。
その瞳が、自分を見ていない。自分ではない誰かへと、向けられている。
夜桜の心は灼熱のような、激しい劣等感を覚えた。
「その目――やめてよッ!」
睡蓮の頬を包んでいた夜桜の両手が、不意に猫の爪のように立てられた。鈍い痛みが、睡蓮の眉間に皺を刻ませた。その柔らかな頬に、傷がつき、じわりと血が滲んでいく。
「それ……アリスが、いったの?」
「痛い……!」
「その目、アリスを見てるんでしょッ!」
「ねえ、離して……!」
「あたしは、アリスじゃない! ねえ、あたしはッ? あたしのこと、ちゃんと愛してくれているの? ねえ、春待さん……ッ!」
ぎゅうと、さらに爪が立てられる。睡蓮は痛みで顔を歪め、夜桜から逃れようとする。そこでようやく、夜桜の手が外された。
「どうして、あたしから逃げようとするの!」
しかし、夜桜はこれ以上逃すまいと、睡蓮の腕を掴み取った。跡がつくほどに、遠慮なしに、手に力をこめる。
「もう、がまんできない……。あれを……取り返して、あたし……!」
そのとき、玄関の扉が勢いよく開いた。杠葉が飛び出し、夜桜から睡蓮を引き剥がす。目を剥きだす夜桜を、杠葉は庭の花壇へと、いきおいよく突き飛ばした。
思わず睡蓮は、非難するように兄を見あげた。
「ゆ、杠葉! 突き飛ばすなんて……」
「それは、自分の顔を見てからいうんだな。傷だらけだぞ。なんて酷いことをされたんだ……」
その言葉は、怒りと悲しみに満ちている。杠葉は睡蓮の髪をすくい、耳にかけあげながら、慈しむように傷を見つめた。しかし、すぐに慣れた手つきで、睡蓮の髪をノットヘアーにまとめあげ、小さな背中を押した。
「髪が傷にかかるといけない。明日からは、ぼくが髪型を決めてやろう。ほら、家に入って、消毒してくるといい。ひとりで出来るだろう?」
「こんなときに、そんなこと……」
「こんなときだからだろう」
「でも……大丈夫なの?」
杠葉は睡蓮の視線に合わせ、身をかがめると、そっと耳打ちをした。
「おまえを守るのは、ぼくの役目だ。昔から、そうだっただろう」
花壇から、夜桜がゆっくりと身を起こしている。ぎらぎらとした目が、杠葉を睨みつけ、いまにも襲い掛かりそうだ。
睡蓮は、ぶるりと身を震わせた。
「いい子で、家で待ってるんだ。あとで、デザートを出してやるから」
「……ひどいことをしちゃだめだよ。約束して」
「はあ……」
こんなときにも他人の心配をする妹に、兄は呆れたようにため息をついた。そんな態度だったから、
「わかったよ。おまえのいうとおりにする」
睡蓮の手の甲に、杠葉はキスをする。大切なものをしまうように妹の背中を押し、家の中へと押しこんだ。
■
いまから三年前に、さかのぼる。加島
はじまりは、十六夜女子中学校の入学式。
アリスが睡蓮に、一目惚れをしたのだ。
桜の花びらが、睡蓮のまわりを優雅に舞い、祝福しているような、その神々しい光景に、アリスは心を奪われた。そこだけ、ときが止まっているようだった。
まるで絵画になるために生まれたようなその瞬間を、アリスは何度も何度も胸に刻みつけるようにして、睡蓮を見つめ続けた。
桜と、睡蓮の香りが混ざりあう。睡蓮のまわりだけが、ほんとうの春のようにおもえた。
アリスは、吸いこまれるように桜のなかにいる睡蓮に近づいた。
「あの……あなた、い、一年生?」
アリスに呼び止められた睡蓮が、振り返る。ふわりと舞った黒髪に、はらはらと桜の花びらが散りばめられ、春の妖精のようだと本気でおもった。
「わたしに、何かお話ですか? ごめんなさい。兄が待ってますので……もう行かないと」
「な、名前! お、教えてほしくて……」
「春待睡蓮です。それじゃあ……」
それだけいうと、睡蓮は桜のなかへと消えていった。やりとりは数秒だった。たったそれだけで、アリスの心は震えた。
「あの人は、なんなの? 信じられない……」
睡蓮とアリスは、同じクラスだった。
休み時間になると、アリスは毎回、睡蓮の席へ行き、熱心に話しかけた。他の女子に、この場所にけっして渡さないといわんばかりに。
つねに冷静で、大人しい睡蓮がたまに、自分の話で微笑むと、「睡蓮ちゃんが今日も笑ってくれた」と、とてつもない高揚感が湧きあがった。
入学から一か月がたったある日、アリスは睡蓮に、あるひとつの質問をしてみようと思った。ずっと、したくてしたくて、たまらない質問だった。
休み時間。窓際の最後尾にある睡蓮の席へと、アリスは駆け寄った。
「ねえ、睡蓮ちゃん。アリスね、聞きたいことがあるの」
「……なあに?」
前の席のイスを借り、睡蓮の真向かいを陣取るアリス。アリスは、睡蓮に緊張を悟られないよう、なるべく普段通りを装いながら、自分が可愛く見える角度に、小首を傾げた。
「あのね……睡蓮ちゃんは、アリスのこと、どうおもう?」
「どうおもうって……?」
「……かわいい?」
「さあ。よくわからないよ」
「みんなは、かわいいって、いってくれるよ」
「わたしは、ひとのことを、かわいいとか、かわいくないとかで、すきになったりしないから……よくわからないな」
アリスは嬉しさに、卒倒しそうになった。アリスはずっと、この言葉をいってくれるひとに出会いたかった。
自分の見た目だけで「すきになった」といって、告白をしてくるやつ。一目ぼれしたから、とストーカーをしてくるやつ。すきな服を着ていただけで、「自分を誘うためだろ」と痴漢をしてくるやつ。世のなか、クソなやつばかり。
なのに、この美しいひとは、見た目なんか関係ないと、きっぱりいってくれた。
このひとは、アリスの中身をすきになってくれるひとだ。このひとが、アリスと恋愛をしてくれるひとなんだ。
アリスは泣きそうになるのを必死に堪えながら、高揚で真っ赤に染まった頬を両手でおさえる。
「睡蓮ちゃん。今夜、電話してもいい? あっ、スマホ持ってないんだよね。家電にかけたいから……番号、教えてくれる?」
「うん。いいけど」
睡蓮は、渡されたウサギのキャラクターのメモ用紙に、美しい数字を羅列させた。
「あのさ、番号の上に……名前、書いてくれない? 春待……睡蓮……って」
「わたしの名前を書けばいいの?」
「うん、お願い」
いわれたとおりに書いてくれる睡蓮に、アリスは興奮で頭が真っ白になってしまう。自分がいえば、睡蓮がそのとおりのことをしてくれるだけで、アリスは胸がいっぱいになってしまう。睡蓮がする、一挙手一投足に、感動でめまいがした。
「それじゃあ、夜の八時に電話するね。八時に電話がかかってきたら、アリスだから! 絶対、でてね」
「わかった」
小さな紙切れひとつが、愛おしくてたまらない。手のひらの触れている紙の温度を、いっしょう忘れたくない。アリスは、睡蓮が書いたメモをそのまま小さく折りたたんで、食べてしまいたいとおもった。だが、寸前のところでがまんし、その紙にそっと口づけると、財布の奥底に大切にしまいこんだ。
今日の夜で、自分たちの関係は変わる。友達から――恋人へ。
夜が楽しみ楽しみで、残りの授業の内容は、いっさい頭のなかに入らなかった。入るわけがなかった。睡蓮のことで、もういっぱいなのだから、そんなものを入れている余裕があるわけがなかった。
夜の八時。アリスは、震える指先を抑えながら、春待家に電話をかけた。
五コール目ほどで、電話が繋がる。声ですぐに睡蓮だとわかった。嬉しさに、胸が高鳴る。
受話器を握りしめ、アリスは息継ぎも忘れて、まくし立てた。
「あのね、もういっちゃうね。アリス、睡蓮ちゃんが好きなの。愛してるの。付き合ってほしい!」
『……え』
「いってたでしょ? ひとは見た目じゃないって!」
『それは、そうだとおもうけど……』
「アリスの見た目じゃ、だめ? つき合えない?」
『だめとか、ないけど……』
「じゃあ、付きあえるよね!」
『……わかった。あなたが、それでいいなら』
「やったあ! それじゃあ、明日から、アリスたち、恋人同士ね! 朝、迎えに行くから! ぜったい待っててね!」
『わかった』
「また明日ね、睡蓮ちゃん。愛してるから!」
『また明日、アリスさん』
電話は、どちらが先に切ったのか、わからなかった。次の日が楽しみで楽しみで、アリスはその日、なかなか寝つけなった。
次の日から、アリスはさらに、睡蓮と行動をともにするようになった。
席替えになると、睡蓮の隣になった生徒に、席を交代するように強制し、教師を困らせた。
部活も睡蓮と同じものがいいと、美術部に入った。しかし、アリスは美術に関心がないため、作業している睡蓮に「構って」と、ねだったり、じゃまをしているだけだった。
教室の休み時間でも、ふたりで話しているときに、他の生徒が話しかけに行くと、アリスは急に不機嫌になり、隣の席を足で蹴ったり、ペンケースを床に投げつけたりと、癇癪を起こした。
その日も、アリスは気に入らないことがあり、廊下の壁を蹴った。睡蓮は何気なく、アリスにいった。
「アリスさん。そういうことするのは、やめたほうがいいんじゃない?」
「――え?」
アリスの肩が、わずかな電流が流れたかのように、ビクリと跳ねる。振り返ったアリスは、何かに怯えるように、睡蓮を見あげた。
「どうして……そんなこと、いうの?」
睡蓮は驚いた。問いかけているのは、自分のほうなのに、なぜアリスから質問が投げかけられたのかがわからなかったのだ。
アリスは、絶望しきった表情で、頭を抱えはじめた。
「あ、アリスのこと……きらいになったの?」
「え?」
「そうなんでしょ……! だから、そんなこと、いうんだッ!」
アリスの色素の薄い瞳に、じんわりと涙が溜まっている。睡蓮は、どうしてアリスがとつぜん泣き出したのか、理解できなかった。
心底、ふしぎそうにしている睡蓮を見て、アリスはくちびるをわなわなと震わせ、一気にその場から走り去っていった。
「そっとしておいたほうが、いいのかな……?」
アリスの小さな背中が廊下の奥に消えると、睡蓮は窓の外を見やる。桜の木は、すでに夏仕様に着替えられている。青々とした葉たちが風に吹かれ、睡蓮の長い髪と同じリズムでざわざわと揺れる。
そんな睡蓮を、廊下の死角から、
夜、春待家のインターホンが鳴った。玄関ドアを開けると、アリスが立っていた。
ふんわりとした髪をツインテールにし、頭の上にはブラウンの大きなリボンカチューシャ、愛らしいイラストのプリントワンピースは、七分でフレアスリーブに切り替えられたブラウンのスウィートロリータ。手首には同じ生地のレースカフス。
手には、大ぶりのカッターナイフが握られていた。
アリスの大きな目は、アイラインで真っ黒に縁どられていた。だが、ここに来るまでに何度も泣いたのか、目の周りの黒は、よれてにじんでおり、メイクはぼろぼろだった。アリスは、じろりと鋭い瞳で睡蓮を見すえると、わななく腕のまま、カッターナイフをかまえた。
「最近ね、辛いことばっかりなの……。睡蓮ちゃんをアリスよりも可愛い子に盗られるんじゃないか、とか。こんな自分に、睡蓮ちゃんは愛想尽かしちゃうんじゃないか、とか……」
「アリスさん……」
「ねえ! だってそうでしょ? だって……睡蓮ちゃんは……アリスに一回も愛してるって、いってくれてないんだもん!」
アリスの琥珀のような瞳から、涙がぼろぼろと溢れていく。涙は、規則正しく並んだ玄関タイルに、じわじわとシミを作っていく。
そのとき、リビングから杠葉が顔を出した。
「スイ、どうしたんだ。その子は……」
不審そうにこちらへやってくる杠葉が、睡蓮の肩に、ぽんと手を置いた。とたん、アリスの瞳が驚きに見開かれ、またたくまにその色が、憎しみに染まっていく。
「お、おと……こ……」
「おい、スイ。この子、大丈夫か?」
「やっぱり、アリスを……愛してくれていなかったの……? こんな男の、どこがいいのっ? ねえ、ひどいっ! ひどいひどいひどいひどい……っ!」
ぎゅう、とカッターナイフを握りこんだアリスが、ツインテールをぶらんと揺らし、睡蓮の腹部に向かって突進する。
杠葉が後ろからぐいっと、睡蓮の手を引いた。睡蓮は勢いのまま、玄関マットの上に倒れこみ、スリッパのまま玄関に降りた杠葉がアリスの腕を力強く握った。
その痛みに、アリスはカッターナイフを取り落とした。カラン、と玄関タイルに乾いた音が鳴る。
アリスが恨めしそうに、杠葉を睨みつけた。杠葉は、哀れみをこめて、アリスを見くだす。
「きみの愛は、ぼくの妹には不要だ」
「は……はあ? い、いもうと? あんた、睡蓮ちゃんの、お……お兄さん?」
「そうだ。これ以上、きみの愛をぼくの妹に注ぐことは、ぼくが許可しない」
「あ、あんた……なんなのッ? 何さまッ?」
「聞いた通りだよ。ぼくは、睡蓮の家族だ。家族以上に、彼女を愛せる自信が、きみにあるのかな? ――今後、この家の敷居を跨がないようにしてくれ」
アリスは絶望に目を剥き、カッターナイフを拾うことなく、春待家の門を飛び出した。
その後、アリスは学校に来なくなった。教師いわく、学校を辞めてしまったらしい。
それから、睡蓮の学校生活はとても息苦しいもののまま、卒業を迎えることとなる。
アリスが学校に来なくなってから、睡蓮はなにげなく、キッチンで夕食を作る杠葉に、あの日のことを聞いてみたことがある。
「どうして、彼女にあんなことをいったの?」
「彼女って、誰のことだ」
「アリスさんだよ」
「ああ、あの子のことか」
「『きみの愛をぼくの妹に注ぐことは、ぼくが許可しない』だなんて」
「ダメだったか」
「アリスさん。とても、ショックを受けた顔をしてた」
「何をいってるんだ。人を愛す覚悟がないから、ショックを受けたんだろう? 負けを認めているものじゃないか」
杠葉は手を洗い、キッチンから出てくると、睡蓮の座るテーブルに、木のプレイスマットを引いた。
睡蓮の肩に手を置き、身をかがめ、視線をあわせた。
「無責任に人を愛することほど、残酷なことはない」
「杠葉の愛には、責任があるってこと?」
「当然だ」
「……へえ。すごい」
睡蓮が、ジッと杠葉を見あげる。美しい妹の愛らしい表情に、杠葉の心は夏の日差しのように激しく歓喜した。
「すごいと思うなら、おまえも同じくらい、ぼくのことを見てくれ」