その日の放課後、アタシは日本史の補習を終えてから、さらに数学Aの補習にも参加するため、薄暗い廊下を一人で歩いていた。
既に時刻は十七時を少し回ったところ。
普段なら数学Aは補習プリントをもらうだけで、それを翌日までに提出すれば何も問題がない。
緩い、なんて言ったら申し訳ないけど、補習が複数個ある人たちにとっては助かると思う。実際、それでアタシはかなり助けられてるわけだし。
ただ、そんな緩かったはずの数学Aだけど、今日だけは話がちょっと違うという感じ。
昼休みの最中につくしと廊下に出ていたら、突然担当の
メガネを掛けていて、キリッとした女性教師。
でも、その見た目とは裏腹に話し方は穏やかで、性格もすごくゆったりしていて優しい。
最近結婚したらしく、手には指輪も付けてる。
同性ながら思った。こんな女性と結婚した男性は幸せになれるんだろうな、って。
まあ、実際にはどうなのか全然わからないんだけどね。
人間、やっぱり色々あるわけだし。
「……失礼します」
教えてもらっていた数学Aの補習場所。東棟の三階にある視聴覚室。
そこに辿り着き、アタシは控えめに部屋の扉を開ける。
「――あら、いらっしゃい先川さん。待ってたわ」
寒くて薄暗かった廊下とは違い、室内は明るく、そして暖房が効いていて温かい。
当然ではあると思う。
もうほとんど冬だし、寒くて暗い中じゃ勉強はできない。
できないんだけど……驚いたのはそこにいた人の数だった。
「……? どうかした? 入口で立ち止まっちゃって」
クスッと笑み、室内にいたアタシ以外の唯一の人である隅町先生は、こっちまで歩み寄って来る。
ハッとしたアタシは慌てて出入り口扉を閉め、中に入った。
歩み寄って来てくれた隅町先生とは近距離で向かい合う形になる。
言葉を濁しながら、視線を斜め下にやり、「えっと……」と一言。
そんなアタシの言いたいことを察してくれたのか、先生は一つ小さく手を叩き、
「もしかして、人の少なさに驚いちゃった? 自分以外にも数Aの補習者はいるはずだ、って?」
「も、もしかしていないんでしょうか……?」
ぎこちなく返すと、隅町先生はこれまたクスクス笑って、今度はいたずらっぽいことを言ってくる。
「どうでしょう?」と。
なにこれ。
先生綺麗だし、こんな問われ方したら男の人はドキッとするんじゃないかな。絶対するよ。言い方も囁きボイスみたいでなんか雰囲気あるし。
――なんてことを考える煩悩まみれのアタシだったけど、隅町先生は問いかけの答えを自分から口にしてくれた。
「答えはノーです。補習の生徒さんは先川さん以外にもちゃんといるし、何なら彼ら彼女らには今日の補習プリントを渡し終えました。それをまた明日提出してくれればオーケーです」
「え……」
答えを教えてくれたのはいいものの、これはこれでまたアタシは戸惑ってしまう。
だったら、どうして今ここにアタシは呼ばれているんだろう。
他の人たちと同じで、いつも通り補習プリントを配ってくれるだけでいいんじゃないの、とも思ってしまう。先生の前でそんなこと言えないけど。
「ふふっ。大丈夫、わかるわよ? 先川さんの思ってること」
「……っ」
「『どうしてアタシ一人だけがこうして呼び出されたんだろう? 何か悪いことでもした?』って。そう思っているんじゃないかしら?」
正解。
だけど、そう口にするのも何だか申し訳なくて、アタシは控えめに頷くに留めておいた。
隅町先生は微笑を浮かべて続けた。
「ごめんなさいね。違うの。今日こうしてあなたをここに呼んだのは、別にあなたが悪いことをしたからとか、そういうわけじゃない。ちょっと二人きりでお話がしたくてここまで来てもらったの」
「話……」
「わざわざごめんなさい。勉強もあるでしょうけど、それでも十分とか、それくらいだから」
申し訳なさそうにする先生に対し、アタシは手を横に振る。
別にそこまで謝ってくれなくても大丈夫。
その旨を敬語交じりで伝えると、隅町先生は「そう言ってくれるなら」と安堵した様子。
「姫路さんはどこかで待ってくれているの? それとも、今日はもう先に帰ったとか?」
「え? つく……じゃなくて、姫路さんですか?」
うん、と頷く隅町先生。
唐突につくしの話をされて答えるのが遅れてしまったけど、一呼吸を置いてすぐに返した。
「……一応先に帰っていて、とは言ってここまで来たんですけど……たぶんどこかで待ってくれていると思います。補習の終わりそうな時間とか聞かれたし」
「うんうん。そっかそっか」
「……? ええっと……それが何か?」
さっきまで申し訳なさそうだったのが、一転して上機嫌になる隅町先生。
そんな彼女の考えることがわからなくて、アタシは疑問符を浮かべてしまう。
先生は手を横に振って「何も無いのよ」と慌てて何か否定していた。
明らかに何かあるような反応なんですが……。
「いつもあなたたちのことを見ながら思っていたの。仲が良い二人ね、って」
「な、なるほど……」
見られてたんだ。
サラッと告白されて、何とも言えない気持ちになった。
まあ、全然いいんだけど。
「実は、先生にもあなたたちと同じ歳くらいの時、仲良しだった同性の女の子がいてね。あれは……たぶん今振り返ると恋人一歩手前だったんだろうなぁ、とか思ったりしているのよ」
「先生が高校生の時、ですか。高校生の時……仲良しな女の子…………って、え?」
これもまた唐突。
さっきから隅町先生、何かおかしい。
すごいことを連発して言ってる。恋人みたいだったって……。
「あ、あと、これは秘密ね? 秘密なんだけど、先川さんには同じ匂いを感じるから言えるし、伝えたいことがあるから言っておくんだけど……秘密よ? 今から言うことは他の誰にも言ってはダメ。いい?」
「は、はい……」
顔を近付けて、口元に手を当てながらコソコソ話す隅町先生。
そんなに秘密なことなら別に話してくれなくてもいいのに……。
しかも、私と同じ匂いを感じるって……。
もしかしなくても先生、アタシとつくしの関係を見抜いてる。
見抜いたうえでこんな話をしてくれてる。
「……先生ね、その仲良しだった女の子と普通にキスとかしていたの……」
「え、えぇっ!?」
思わず大きな声で驚いてしまった。
いや、キスならアタシとつくしもしてるけど。
でも、そんなことができるって言ったらそれはもはや『恋人のような関係』なんかで留まらない。立派な恋人だと思う。
「し、静かに……! 大きい声は出しちゃダメ……! ここがいくら視聴覚室だからって、大きな声を出せば外へ喋っている内容がバレちゃうわ……! なるべく静かに……!」
自分の口元に突き出した人差し指を掲げ、静かにするよう言ってくる隅町先生。
瞬間、アタシはハッキリとここへ呼び出してくれた理由を理解した。
そうだよ。補習って言ったら大抵空き教室とかで行うはずなのに。視聴覚室でやらないこともないけど、声が外へ漏れづらいって言ったらここだし。
まさかの教室選定理由に苦笑いしか浮かばない。
それでも、先生がアタシへ本当に伝えようとしてくれていることには続きがあるみたいだった。
何もラブラブエピソードを披露したいわけじゃないと思う。
顔を真っ赤にさせながら、何度も前髪をくしくし手で触って続けてくれた。
「そ、それで、先生が言いたいのはね? い、今の……姫路さんのような子との関係をなるべく良いものとして続けて、ということなの」
「なるべく……良いものに……」
その言い方だと、今の関係にはいつか終わりが来るみたいに聴こえる。
アタシは少し視線を下に向けて、隅町先生の話を聞いていくのだった。