結局のところ、アタシは隅町先生から数学Aのことを一切教わることなく、二人で一時間ずっと話し続けていた。
会話の内容はアタシとつくしのこと。
それから、先生の高校時代についてだった。
「――ということでね。まだまだ先生も先川さんと色々お話ししたいところだけれど、あなたには下校時間があるし、姫路さんも待っているだろうから、今日はここまで。わざわざ私の長話に付き合ってくれてありがとう」
微笑交じりに優しく言う隅町先生。
そんな彼女に対し、アタシは「いえ」と手を小さく横に振った。
「とても楽しかったです。補習だと思っていたから、余計に」
「わかるわかる。勉強しなきゃって思っていたら余計にだよね。あ、でも、ちゃんと帰ってプリントはしてね? 明日ちゃんと提出はしてもらうから」
少しいたずらっぽい表情を作る隅町先生へ、アタシは苦笑いしながら頷く。
憂鬱な気持ちにはなるけど、それでもこうして数学Aの補習を受けなかったら先生と深い話をすることなんて無かったと思う。
だから、こればかりは感謝だし、ちょうどよかったと思いたい。
「あと、先川さん。最後に念押しするようだけど、もう一度言っておくわね」
「……?」
首を傾げるアタシ。
隅町先生は、自分の前の机に置いていた授業資料をまとめ、それをバッグに直しながら続けた。
「姫路さんとの関係、あなたは出来る限り長く続けて」
――お願いね?
……と。
まるで祈るように、アタシへそう言ってくれる隅町先生。
セリフの後も、彼女は五秒ほどジッとこっちを見つめていた。
アタシは、はにかみながらその言葉を最初曖昧に受け取るのだけど、冗談なんかじゃない真剣なものだと察して、笑みの要素を自分の表情から少し減らした。
真剣過ぎない、真剣な顔。
それを作り、頬を軽く掻きながら頷いた。
わかりました、と。
「好きとか、大切にしたいとか、一緒にいたいとか、そういう思いは簡単に消して欲しくないの。お節介で図々しいお願いだけれど、どうか、ね?」
言って、隅町先生は自分の書類の束を胸元で抱くようにして、アタシの元へ歩み寄って来る。
アタシは、そんな先生を見つめながら、もう一度改めて言うのだった。
「――今日はありがとうございました」
つくしが待ってるはず。
隅町先生の言葉を心の中でプレゼント包装するように大切にし、しっかりしまい込む。
しまい込んで、視聴覚室から出たアタシは、先生に頭を下げて、暗くなった廊下を一人で駆けるのだった。
●〇●〇●〇●
その後、つくしとは下駄箱の前で合流した。
まさかとは思っていたけど、本当にアタシのことを待ってくれていた。
心の中でまず『ありがとう』って言って、実際に口にもした。
寒くて暗いのに、こうして待っていてくれるなんて。
「ごめんね、つくし。わざわざこうして待たせて」
「ふっふっふ。大丈夫だよ。私自身は暖かい場所で日本史の勉強してたから」
あれ。そうだったんだ。
「それ、どこで? 近くに教室らしい教室なんて無いよね?」
アタシが問うと、つくしは「それはもちろん」と頷く。じゃあ、いったいどこで勉強していたんだろう。
「春はどこだと思う? クイズタイムです」
ローファーに履き替えながら、つくしがそんなことを言ってくる。
えー……何だろう。
靴に履き替えていた手を止め、顎元に指をやって軽く考える。……けど、ダメだ。全然わかんない。適当に図書室、なんて言ってみた。案の定「ぶぶー」と不正解を知らせるつくしの声が返って来る。
「えぇ? どこ? 全然想像つかないんだけど」
「そうでしょうそうでしょう。すごく意外な場所でもあるしね」
「意外ぃ……?」
意外……かぁ。
ならますますわからない。
降参した。答えを教えて欲しい。
「仕方ないですなぁ。じゃあ、答え言うね?」
「木下君の胸の中、とか?」
「ちょっと春! 何言ってんのもう!」
瞬間的にボソッと冗談を投げてみると、つくしはそれを聞いて即座にアタシの肩をペシッと叩いてきた。
「木下君ネタもうやめてよー。私、それ聞くと変な汗出てくるんだから」
「いやぁ、暖かい場所って言ったら、つくし的にはそこかなぁ、と」
「やめてってば! 私の場合は春の胸の中です! そこ間違えないで!」
「本当かなぁ……?」
「本当だよ!」
もう、と地団駄を踏むようにして怒るつくし。
アタシはそれを見てつい笑ってしまう。
真っ暗な冬の帰り道。
白い息が空に上り、それを見つめながら二人並んで歩く。
まだ過去を振り返って懐かしむような歳でもないとは思うけど、五年後、十年後、アタシたちがもう少し年齢を重ねた時、この瞬間を思い出して感傷に浸るのかもしれない。
高校時代。つまりは青春の時。
大好きな人、つくしと一緒に並んで歩いて帰っていたな、なんて考えて。
そういう風に思うと、さっき隅町先生の言っていた言葉が頭の中で呼び起こされる。
――なるべく長く姫路さんとの関係を続けて。
それは、いつか終わりが来るからなのか、それとも、同じ性別から成る恋には限界があるからなのか。
真意はわからない。
でも、それだったら、今のアタシの姿だとその論は当てはまらないんじゃないか、と思ったりもする。
アタシの今の性別は男の子で、傍から見るとただの異性愛でしかない。
何も障害の無い恋愛ができるんじゃないか。
そう思うんだけど……。
「……まあ、男子のままだったら、それはそれで本当の幸せを掴めないままか」
アタシがボソッと独り言ちると、つくしはすぐに反応して疑問符を浮かべる。
「あ」と何かに気付いたように、一文字を発した。
「そういえば、隅町先生どうだった? 補習って言ってもいつも通り? 厳しくなってたとか、そんなことは全然?」
つくしの問いかけに対して、アタシは少しだけ間を置き、首を横に振った。
独り言、ちゃんとは聴こえてなかったみたい。
つくしは補習のことを聞いてきた。
「補習は補習だけど、全然勉強しなかった。隅町先生と一緒にずっと会話してた」
「え……!? 会話……!? 補習組の皆で……!?」
これにもアタシは首を横に振る。
「呼ばれたの、視聴覚室だったんだけど、そこで先生と一対一で会話してたの。秘密の会話」
「えぇぇ!? 秘密の会話!? 何それ何それ!? 気になるんだけど!」
「でしょうねぇ。アタシもつくしがそう言ってくると思ってた」
頷き、つくしは「何話してたか教えて!」と元気よくアタシとの距離をさらに縮めてきた。
暖かいつくしの体温が、彼女の手を通じてアタシへ伝わる。
つくしはアタシの手を握ってきた。
思い切り、ギュッと。横から。
「まあ、隠しても仕方ないから正直に言うね?」
「うんうん。隠す必要なんてどこにもないよ。春が言われたことは、私が言われたことと同じだもん」
「いつからアタシたちは一心同体みたいになったの……?」
「いいからいいから。ささ、どんなお話をしたのか早く教えてください春さん」
さぁさぁ、と握っているアタシの手を揺さぶってくるつくし。
言った通り、もったいぶっても仕方ない。
アタシは、「そうだね」と一呼吸置いてから切り出した。
「隅町先生ね、アタシたちの関係に勘付いてたんだ」
「え……?」
疑問符と共につくしは目を丸くさせた。
反応が本当に正直だ。
「それで、いつまでもずっと今の関係を続けてって言われた」
「……? それは……つまり?」
「恋人同士でいることをなるべく長く続けてってことかな? アタシはそういう意味だと受け取った。ていうか、それ以外に考えられない……と思う」
アタシがそう言うと、つくしは目を丸くさせたまま少し固まり、空を見上げて一つ。
「へぇ……」
と、何やら意味ありげに呟くのだった。