「私が車で好きなところへ連れて行ってあげるから、少し出かけるわよ。家にいるのは夜だけでも充分なはずだから」
まさか、お母さんがそんなことを言ってくれるとは思ってもなかった。
家に着いて、まずアタシは自分の身に降りかかっていることを、つくしと青宮君のいる場でお母さんに話そうと目論んでた。
そうすることで、きっと何をしようか悩むことなく会話は続いていく。
お母さんがどんな反応をするかはわからないけど、それでもこれからどうしていくべきか、一つ一つ話すことで前に進んで行こう、と。そう考えてたのだ。
でも、その計画は頭から崩れ去ってしまった。
――好きなところへ連れて行ってあげる。
何度も言うけど、お母さんの口からそんな言葉が出てくるとは微塵も思ってなかった。
本当に、本当に。
こうして抑揚をつけてしまうくらいには。本当に。
「あなたたち、どこか行きたいところはある? どこでもいいわ。時間は存分にあるから」
車に乗り込み、運転席から問いかけてくるお母さん。
電車でここまで来たのに、間髪入れることなく車移動になるなんて。
いや、別にアタシはそれに対して『嫌だ』とか、そんなことを考えたりはしないけど。
とにかく、つくしも、青宮君も、困惑しきっていた。
アタシのお母さんがどんな人か、ある程度は知ってた二人だ。
無言にもなるし、普段仲が悪いくせに見つめ合ったりしてしまう気持ちも何となくわかる。
わかるけど、それでもアタシは、実の母親がこの気まずい空気を作り出したという事実に耐え切れず、柄にも無く声を大きめにしてお母さんをフォローした。
「二人とも、海とかどうかな?」
「「……海?」」
つくしと青宮君の声が重なる。
こんなに寒いのに?
とでも言いたげな顔をしていた。
それはわかる。
わかるけど、とっさに出たのがそれだったから仕方ない。
訂正することなく、アタシは冷や汗を浮かべながら二人の方をジッと見つめた。
「海って、今冬なのだけれど? さすがにそれはどうなの?」
フォローしてあげてるのに、お母さんも重ねて否定的なことを言ってくる。
正直、勘弁して欲しかった。
ここは大人しくアタシの話に乗っておいて欲しい。
でも、車を運転するのはお母さんで、アタシはそもそもこの人に逆らうことなんてできない。
お母さんが無理と言えば、その意見は簡単に通ってしまう。
そういう風にアタシたちの関係性はできてるのだ。
「……冬だけど、この町の良い所って言ったら、やっぱり海だと思う。アタシたちの通ってる高校の近くにも海はあるけど、それとはまた雰囲気が違うし」
「……へぇ」
青宮君が納得するような一言をボソッと口にする。
つくしは黙ってアタシのことを見つめていて、お母さんは「そうだけど」と一定の理解を示してくれつつ、なおもまだ納得し切れていない様子だった。
「……それに、アタシはこの町に住んでる時、何か悩み事があったらいつも家の近くの砂浜まで行ってた。そこに行くと、悩み事がちっぽけに思えてくるから」
状況が状況だったとはいえ、ここまでお母さん相手に思いを伝えるのはいつ以来だろう。わからない。
わからないけど、言いたいことは言わなくちゃいけない。
木下君がアタシはそう教えてくれた。
どっちかというと人として嫌い寄りの、あの木下君が。
「すみません、先川さんのお母さん。じゃあ、僕も彼女の意見に賛同します。海の見える砂浜へ行きたいです」
「本当?」
表情も、口調も崩さずに青宮君へ問いかけるお母さん。
そうしている間に、つくしも頷いていた。
「アタシも同じです。春がそこまで言うなら、アタシも砂浜へ行きたい。春のお母さんが言う通り、冬だし、寒いのは当然なんだけど」
「姫路さんまで?」
ほとんど決まりだった。
どこへ行きたいか、と問うて、三人の意見が一致した場所へ行かないというのも変な話だ。
お母さんは観念したように小さなため息をつき、「わかったわ」と一言。
それから、「ただし」と続けた。
「先に質問させてもらう。春、あなた、何か私へ話したいことがあるの?」
「…………それは」
「どういうことなのか、触りだけでも教えなさい。そうじゃないと、海には連れて行かない。元々気になってはいたの。年末年始もそうだけれど、あなたが何も無く友達を連れて実家に顔を見せたい、なんて言うとは思えないし、だとしたら何かあるのかしら、って」
「っ……」
「別に全部を話しなさい、とは言わない。どういうことが言いたいのか、触りだけでも教えなさい。何? もしかして、進路のこと?」
疑問符を浮かべるお母さんだけど、抱えている悩みがその程度ならどれだけよかっただろう、と思う。
アタシが今実際に抱えているモノは、もっと複雑で、もっとどうしようもない。
――男の子になってしまった。
これが、今のアタシの悩みのほとんどすべてだ。
「違うよ。進路のことも大切だけど、今はそうじゃない」
助手席で首を横に振りながらお母さんへ伝える。
全部を話さなくてもいい。
そう言ってくれたけど、なぜかアタシはそこから先を我慢できなくなっていた。
勢いのままにすべてを吐露してしまう。
「お母さん。アタシ、男の子になった」
車の外で、風が強く吹き付ける。
冬がやって来たアタシの故郷は、いつも感じていた以上に寒くて、けれど心臓の動きを早めてくれる不思議なものだった。
●〇●〇●〇●
「車だとやっぱりここに着くのはすぐね。あなたたち、外にはもう出る?」
お母さんが問いかけると、つくしと青宮君はぎこちなく答える。
もう少しここにいたいです、と。
アタシは寒くても外に出たかった。
外に出て、もっとお母さんと本音で語りたかったから。
「それで、春? あなたはこれからどうするの? その体、病院には行ってみたらしいけれど」
正直な話、これはある意味ひどいことを言われるよりもアタシの心に痛みを運んできてくれた。
「……わからない。どうしていいのかわからないから……お母さんに話した」
お母さんの反応がひどく淡白だったのだ。
もう、どうしていいのかわからない。
本当なら、ひどく取り乱して、どうするべきか一緒になって必死に考えてくれると思っていたのに。
アタシのお母さんは、本当にアタシのことなんてどうでもいいと思っているのかもしれない。
そう思えて、胸がズキズキと痛む。
でも、諦めきれなかった。
諦めきれず、駄々をこねる幼児のように繰り返す。
どうしたらいいか、と。
けど――
「どうしていいか、なんて私にもわからないわ。性別が変わってしまうなんて、そんな現象初めて聞くもの」
「……それは……そうかもしれないけど」
「もう一度病院へ行きなさい。ホルモン治療とか、そういった処置をしてくれるんじゃないかしら?」
「……」
「とにかく、あなたのそれは病気よ、春。私がどうこうできるものじゃない。病院に行って、先生の話をよく聞いてくるの。はいはい、って。簡単に言われたことを聞き流さないようにね」
「――それだけ、ですか?」
何も言えない。
そう思ってだんまりを決め込んでいたアタシだったけど、傍らからつくしがお母さんへ問いかけてくれた。
「ごめんなさい、割って入るようですが。お母さんの言いたいことは、それだけなんですか? 春にもっと掛けてあげられる言葉とか、そういうの、たぶんあると思うんですけど」
「無いわ。病院へ行きなさい。それに尽きる。だって、素人の私が知ったところでどうにもできないでしょう? そんなの、わかりきったことよ」
バカらしい。
そう言葉が続いて行きそうな言い方だった。