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第58話 心の拠り所

【8月1日 狂う:塚原 祐介】


「なんだよ、これ!」


 俺は優姫の言っている事が何も信じられず、必死に現実逃避をしようと脳内で色々な言い訳を絞り出してみる。

 だが、そんな様子を見ても優姫のまっすぐな視線は変わらなかった。

 目の前に転がっているのは、西崎の足の親指と峰岸の唇。いや、正確には過去にそうだった肉片か。

 血色と温度を失い、切断面から腐敗し始めているのか不快な臭いが漂ってくる。


「これは全部、現実だよ」

 優姫が力強い言葉でそう言った。これが、現実なんだと言い切ったのだ。

「確かにあんちゃんは本当に優しくて、真面目で……人を傷付けるなんて、本来出来るような子じゃない。それはボクもよーく知ってるよ」

「じゃあ……じゃあなんで!」

 優姫と杏奈は昔から互いを姉妹の様に慕い合っていた。杏奈が優しい女の子だという事は優姫が一番分かっているはず。

 そんな杏奈が、何故こんな事を? 理解が追いつかない。

「なんで? 簡単さ。天国のご両親と、神様へ祈りを捧げる為さ。そこの汚い肉片をご両親と神様への『供物』にする為にあんちゃんは事件後、わざわざ身体の一部を切り落として持ち去っていたんだ」

 祈り? 供物? 何を言っているんだ。

 確かに杏奈は毎日、両親の祭壇への祈りと供物は欠かさなかった。そしてここ最近、祭壇の前で祈る時間や回数が目に見えて増えていたのは確かだ。

 だが、目の前に転がってる肉片はとても供物とは言えない。そもそも、人間の肉片を貨物にするなんて……狂っている。普通の人間には到底理解出来ない信仰心だ。

「ふざけるな……何の為に、杏奈が……そんな事を」

「はぁ、本当に気付いていなかったんだね。やっぱり、ゆうちゃんは相変わらず愚鈍だなぁ」

 優姫が呆れたように、そして小馬鹿にしたように俺を鼻で笑う。一緒に暮らしていてそんな事も分からないのか、と言わんばかりの表情だ。


「じゃあ代わりに教えてあげるよ。少し前にあんちゃんがご両親の仏壇を捨てて、新しく祭壇を作ったでしょ? あの頃からだよ、あんちゃんが……『とある宗教』を信仰し始めたのは」

「……宗教、だと……」

 優姫の口から、信じられない言葉が出た。

 宗教だと?

 両親含めうちはずっと無宗教で、俺も杏奈も宗教の類には一切関わる事なく育ってきたはずだ。

 ましてや訳の分からないオカルト宗教など、今までの人生で触れる事すら一切無かったはず。

 そんな杏奈が宗教? その宗教の教え基づいて西崎と峰岸の足の指やら唇やらを切り落とし、両親の祭壇へ供えていた? 悪趣味にも程がある。


「元々は犯罪被害者遺族たちが集まるコミュニティがあったんだけど、それを宗教法人化して……今は『繋命会(けいめいかい)』という名前で活動している。その名の通り『命を繋ぐ』為の宗教として、多くの遺族たちの心を救っている」

「命を繋ぐ……だと」

「10年前のボクに加え、両親まで亡くし……あんちゃんの精神は確実に壊れ始めていた。本人もそれを自覚していたからか、何かに縋りたかったんだろうね……例えば、死者とか神様とか」

 優姫が俺の方を見て、静かに呟く。

 確かに杏奈は精神的に不安定な部分があった。ただ、それは日常の中で一過性のものであって、宗教に救いを求めるほど追い詰められている様にはとても思えなかった。

 少なくとも、俺にはそう見えていた。

「……確かに、ごく稀に杏奈は癇癪を起こす事もあった。けど、それは日常の中のほんの一部で、普段は楽しそうに笑ったり、喜んだり……」

「それはあくまで、ゆうちゃんの目の前での話でしょ? ゆうちゃんに心配をかけないように、あんちゃんが気丈に振る舞っていたに過ぎない。本当はずっと苦しんでいたよ? それなのに、ゆうちゃんは……あんちゃんを救うどころか、現実から目を背けていただけ」

「俺だって……辛くて、苦しい中必死に!」

「それはあんちゃんも同じだったはずだよ。それどころか自分の時間を犠牲にしてまで家事やゆうちゃんの全てのサポートまで……それは中学生の女の子にとっては計り知れないストレスとプレッシャーだった。それに加えて幼馴染の誘拐、両親の死……心が壊れる要素は十分に揃っていたよ、ゆうちゃんが気付こうとしなかっただけで」

 優姫の言葉に、俺はすぐに反論出来なかった。

 ……言われてみればそうだ。杏奈は当たり前のように、何の文句も言わずに家事やら俺のサポートをしてくれていたが、杏奈はまだ中学生だ。俺が甘えていただけで、これは当たり前の環境ではなかったのだ。

 それに優姫の誘拐、両親の死……俺だけではなく、杏奈だって同じくらい辛かったに決まっている。俺は……そんな事にすら気付かなかったのか。

自分だけが辛いのだと思い込んで、杏奈を良いように利用してきただけだったのか。

 優姫の言う通り、俺は……現実から目を背けていただけなのかもしれない。

 俺が両親の祭壇に近寄らなかったのも、単なる現実逃避だ。だから、祭壇にあんなおぞましいモノが供えられている事も、杏奈が宗教に毒されている事も……気付く事が出来なかった。

 現実から目を背けた結果、俺は本当に大切な人の異変にすら気付か事が出来なかったのだ。


 そして、俺の頭の中ではあの時の和彦の声がフラッシュバックする。


『なぁ、祐介。杏奈ちゃんの事、しっかり見てやって、話を聞いてやれよ。何かが起こる前ってのは……何かしらの前兆が有るもんだ』

『ちゃんと目を逸らさずに見つめてやれよ、それに気付けなきゃ……救えるもんも救えねぇ』


 和彦のあの時の言葉を、俺は重くなど受け止めていなかった。何故なら、自分は杏奈の事をしっかりと理解しているつもりだったから。

 兄として、妹の事を第一に考えてきた自負があったから。

 だから、俺はあの時にこう答えたんだ。


『大丈夫だよ、杏奈はしっかりしてるから。心配ない』


 間違いだった、自惚れだった。

 その事を今、ようやく俺は理解した。

 俺は杏奈の事など理解出来ていなかった。

 俺はただ……辛い現実から逃げてきただけだ。そして、そんな俺を今まで杏奈や周りの人間たちが守ってくれていただけだったんだ。


 俺は声にもならない悲鳴を上げながら、床に拳を叩きつける。


「でも、そんな可哀想なあんちゃんにも、心の拠り所が出来た。それが『繋命会』への信仰だったんだ」

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