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第66話 名前

【8月9日 覚悟:倉田 和彦】


 今、目の前に糸田の父・糸田議員がいる。背の低い、白髪の老人。


 俺はその現実をすぐに信じられなかった。

 数年前、俺たち家族に大金を渡した後は2度と会う事が無いと思っていた人物。出来れば顔も見たくないような存在だ。

 しかし、その男は今、俺の目の前にいる。俺に会いに来ている。


「……久しぶりに会うのがこんな場所だとはね。まさか数年前に会った君が殺人者になっているとは」

 糸田議員は小馬鹿にしたように鼻で笑う。

「……あんたには関係無い」

 俺は不愛想に返答をする。こんな奴、顔も見たくなかった。

 こんな屑と同じ空間に存在していると思うだけで吐き気がする。そのくらいの嫌悪感だ。

「そうだ、私には君がどうなろうが関係ないな。そんな事より、私が言いたいのはね……」

「優姫と繋命会の事か」

 糸田議員は黙って頷く。

 ……ああ、やっぱりそうか。

 こいつがわざわざ俺に会いに来た理由……それは俺が自暴自棄になって今回の事件と共に10年前の事件までベラベラと証言してしまうのではないか、それを恐れて会いに来たんだ。

「話が早くて助かる。当然だが、彼女と繋命会の事に関しては余計な事を話すなよ? もし不満だというなら、君の実家にもっと金を……」

 そう言って糸田議員は胸元から札束の一部をチラつかせる。

 この男、最後の最後まで金と権力で真実を捻じ曲げようとしている。とんでもない屑だ。

 だが、今の俺にはもうこの屑を告発しようという気力すら残っていない。こいつを告発しても、優姫は帰ってこない。

 それなら、このまま事件を表に出さずに優姫の名誉を守ってやるのが賢明な判断であると、馬鹿な俺でもとっくに気付いていた。

「必要ない……俺も話す気なんて最初から無かった。これ以上、あいつを辱めたくなんてないからな」

 全てを告発すれば、優姫の存在も世間に知られてしまう。犯罪者に壊されてしまった、哀れで狂った少女として。そんな事、誰も望みはしない。

「そうか、なら是非そうしてくれ。もし裏切るような事をしたら……分かっているね?」

 俺の言葉が未だに信用できないのか、糸田議員は鋭い眼光で俺を睨み付ける。

 俺たちの両親が生活できているのは紛れもなく糸田の資金援助のお蔭だ。家業の経営がうまくいっているのも、今やチェーン店まで展開できる程の人気店に成長したのも、全て糸田の資金援助があったからこそ。

 俺が裏切れば糸田は資金援助を当然止める。つまりそれは、やっとの思いで得た安定した経営状況をぶち壊す事を意味する。それでは残された両親に未来は無いだろう。


 どちらにしろ、俺に断る権利は無かった。

 それを分かっているからこそ、糸田議員はここまで非情な要求を突き付けられるのだ。


「分かってる」

 俺は諦めたように一言、呟いた。

 もう、これで悪夢は終わりだ。俺が全てを背負って……これで終わったんだ。

「よろしい。じゃあ、私はこれで……」

 そう言って糸田議員が取調室から立ち去ろうとする。

 この男が、この部屋を出ればもう2度会う事も無いだろう。つまり、悪夢は終わるんだ。優姫、祐介、杏奈……そして俺を巻き込んだロクでもない悪夢が。

 そう思っていた……しかし、その想いはすぐに崩れ去る事となる。


「パパぁ!」

 糸田議員が取調室のドアを開いた時だった。

 ドアの外から部屋に響く野太い声。まるで醜い家畜の鳴き声。

 その声の主はその肥満体を揺らしながら部屋の中へズカズカと入り込んでくる。

 酷く太っていて、不潔な印象の中年の男だった。

「んー? 待合室で待っていろと言っただろう、全く悪い子だな……『浩二』は」


 糸田議員の口から、悪魔の名前が発せられた。

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