「はい! 今日からここが君の家だ、気に入った?」
連れられて来たのは古いアパートの一室。
アパートの外観と比例して部屋の中もかなり古びた様子だ。それに加え、この男が食い散らかしたコンビニ弁当の残骸、元は何だったのか分からないような汚物やゴミがそこら中に散らばり、部屋の空気を汚していた。
とても人間の住むような場所とは思えなかった。
「嫌……帰して……帰してください……お願い」
ボクは部屋の汚臭に耐えきれず、口元を抑えながら吐き気を抑え付ける。無意識の内に足も半歩ほど後ろに下がっていた。
けれど、それ以上は動けなかった。何故なら、余計な抵抗をすれば今度こそ顔面を叩き潰されると思ったからだ。この時点でボクの心は既にこの男に支配されていた。
「帰るも何も、ここが君の家なんだよ。ほら、帰ってきたら、まず手を洗ってうがいをしなきゃ。風邪引いちゃうよ?」
そんなボクの事など気にも留めず、男は無邪気な笑顔でそう言い放つ。
この男は自分が悪事を働いている自覚など微塵も無い。だからこそ、ボクを壊す事に対しても微塵の躊躇も無い。
「……はい」
ボクは仕方無く男の命令に従い、玄関の横の洗面台に向かう。
手を洗いながら、ふと前の鏡に映る自分の顔を目にする。腫れた目、おかしな方向にひん曲がった鼻、そして止まらない鼻血。吹き出た鼻血が顔中に飛び散っており、顔を真っ赤に汚していた。
「……っ、なに、これ……」
間違えなく自分の顔だが、それを見て戦慄した。
他人の暴力で、人の顔はここまで形を変えてしまうのだと思うと背筋が凍った。
そして、この男に逆らえばまた同じ目に遭う……それを認識する度に、ボクの気力は消え失せていった。
洗面台から戻ったが、未だに鼻血が止まる様子はない。殴られて砕けてしまった鼻は耐え難いほど痛み、どうしようもない。
ボクは、男に助けを請うように話しかける。
「あの……ティッシュを、貰えませんか……?」
「……ん? 何、やっぱり風邪引いた?」
「いえ……鼻血がずっと止まらなくて、それに……鼻も物凄く痛くて……我慢出来ないんですっ……」
男は一瞬理解に苦しんだ様子だったが、すぐにティッシュ箱をこちらに投げてくれた。
自分が殴って、こうなっているという事すら忘れているかのような表情だった。
「ああ……じゃあ、適当に鼻に詰めておいて」
男はそっけなくそう言った。どうせ大した怪我じゃないだろう、といった表情だった。
ティッシュを鼻に詰めてみるが、鼻の痛みは治らず血が止まる様子もない。
「あの、どうしたら帰してくれるんですか? おじさんの言う事、ちゃんと聞きますから……帰っても、誰にもおじさんの事言いませんから! だから、だから……」
こんな事を聞いて、男の機嫌を悪くしたら今度こそ殺されるかもしれない。けれど、痛みと絶望で気が動転していた事もあり、聞かずにはいられなかった。
「どうしたら? さっきも言ったじゃないか。僕の玩具になってくれればそれで良いんだ」
「おも、ちゃ……?」
「そのままの意味だよ。君も玩具で遊んだ事があるだろ? 君にはその役目を全うして欲しいだけなんだ」
男はケロっとした様子で言った。まるで、こうなる事が当然で、運命だとでも言い出しそうな様子だ。
「……意味、分からない……何で、何でボクが!」
「だから、こういう事だよ」
癇癪を起こしかけたボクの首を、男は掴んで捻り上げる。
「っが……ぁ……」
突然の窒息に悶える。息が出来ない。
息が出来ない事がこれほど辛く感じられた事はない、そのくらい怪力で締め上げられていたのだ。
「じゃあ、最初の遊び! 人間はどのくらい首を絞められると失神するのかゲーム!」
「あっ……ぐ……」
男は無邪気に言うが、ボクの視界は灰色になりつつある。脳に酸素が届かないからか、声も遠い。
「つまり、玩具っていうのはこういう事! 僕の気が向いた時に、僕の好きなように遊んでくれて、僕の思い通りになってくれる存在……それがキミって訳!」
そうしている内にボクの手足は痙攣し始め、口からは血の混じった涎が垂れ始めた。
「勘違いしないで欲しいんだけど、友達と玩具は違うからね? 玩具に気を遣いながら遊ぶ子供はいないよね? だから、玩具のキミをどう扱うかは僕が決める」
そして、一気に視界が暗転してボクの意識は遠のく。男が首から手を放すと、ボクの身体は勢い良く床に叩き付けられる。
「あー、記録は……1分持たなかったかぁ。もう少し耐えてくれないとゲームにもならないよ。あ、でもちょっと強く絞め過ぎだった? ごめん、ごめん」
男は軽く手を合わせ謝るが、全く心は込められていない。
「どうしたら帰してくれるのか……キミは僕にそう聞いたね。答えは簡単、僕の気が済んだら。僕の気が済むのが10日後なのか、10年後なのかは分からないけれどね」