ボクは左目の耐え難い激痛に成す術も無く、泣き続けていた。
左側の視界は血で汚れていて、何も見えない。
そして、徐々に光が失われていく感覚を覚える。
「ああ、こんなに汚しちゃって。これで拭いておいてね」
ボクの血で汚れた床を見て、男が薄汚れた雑巾をこちらに投げてきた。
左目からは絶え間無く血が流れ、血溜まりは広がる一方だ。
「綺麗にしないと、晩御飯は抜きだからね」
男はそう言ってボクの前から立ち去る。
ボクは目の前に広がる血の染みを雑巾で擦り始めるも、全く落ちる気配がない。もう畳に血が染み込み始めていて、雑巾では汚れは落とせない。
それを見ているだけで気分が悪くなってきた。何故、自分の流した血を自分で掃除しているんだろう。
顔中が血と涙でぐちゃぐちゃで、気持ちが悪い。
……あの殺してやりたい。けれど、非力なボクではあの男を殺す事など不可能だ。
分かっている、考えるまでもない現実だが、改めてそれを認識した事でボクの中で深い絶望が増す。
「父さん、母さん、兄さん、あんちゃん、ゆうちゃん……ごめん、みんな……もう、みんなとは……きっと会えない」
ボクが出来るとしたら、それはあの男の機嫌を損ねず、喜ばせ、楽に死ぬ事くらいだ。
皆の元へ帰る事など、叶わぬ夢だ。
左目の痛みに耐えながら、ボクは部屋の隅で静かに泣いた。
追想編 第14話 服従
あれから、どのくらいの時間が経っただろう。
時間を数えた事は無いが、ボクが攫われた夏から、既に冬へ季節は変わっていた。
日常は相変わらずだ。腹が減れば男が食い残した腐ったモノを食い、男が暇になれば殴られ、蹴られ、痛ぶられる。
煙草の火を押し付けられたリ、カッターで切り付けられたり、浴槽に沈められる事もあった。
最初は何度も死ぬ、殺されると思ったが、人間は中々死なないものだ。痛みや苦しみはもちろんあるが、徐々に慣れ始めてしまっている自分がいた。
恐らく神経か脳か、もしくは心が麻痺してしまったのだろうが、痛みが和らぐのならそれでも良い。
そして、この期間で学んだ事がある。
それは、この醜い男の情報と思考だ。
男の名前は『糸田』というらしい。仕事はしていないようだが、金銭に困っている様子はない。
そして、この男は自身より『弱い存在』を痛ぶり、苦しめ、従順にさせる事で自身の『支配欲』を満たしている。
男がボクの悲鳴を好む理由、それは相手を完全に支配しているという現実を再確認したいから。
だから、ボクが嘆き苦しむ事が男の喜びへと繋がる。
「ほーら、今日は特製ディナーだよ。多分、一昨年くらいのおにぎりなんだけどね、部屋の隅に埋もれてたからかなぁ、おにぎりの中の具に色んな虫が湧いちゃってさぁ……かなりレアだよね? これ」
異臭を放ち、白っぽく変色したおにぎりをボクの前に置いた。今までの食事の中でもかなり不衛生で、危険なものである事は明白だった。
「……わぁ、美味しそう……ボクなんかが、食べて良いんですか?」
「もちろん! 食べて、どんな虫が湧いているのか当ててみてよ!」
男は悍ましい提案を笑顔でしてくる。
しかし、ボクは拒否しない。むしろ食事が出来る事への喜びを男に伝える。
「んっ……よく分からないけど、あの白くてちっちゃいやつ?」
「蛆かな?」
「んー……」
ボクはただむしゃむしゃと腐った米と蛆を口に押し込んでいく。味を感じる前に胃に押し込んでしまえば、普通のおにぎりと変わらない。この後の少しばかりの腹痛に耐えれば、生きてはいける。
「はは、そんな急いで食べないで。食いしん坊だなぁ……優姫ちゃんは」
この頃には、ボクの感覚は完全に麻痺をしていた。今日はあまり殴られなかった、今日は血を流さなかった……それだけが日々の喜びだった。
「ねぇ、糸田さん」
「なんだい?」
「身体が痒くて、また沢山掻いちゃいました……ごめんなさい」
「ああ、これは酷い。また傷口が化膿しているじゃないか」
入浴は数週間に1度の熱湯だけだ。それも全て男の機嫌次第なので、身体がまともな衛生状態を保てるはずがなかった。
前に砕かれた爪もこの期間でかなり修復してしまい、また身体を無意識に掻きむしってしまう。
「また掻いちゃったんだね。優姫ちゃんの爪は悪い子だ……また、壊さなきゃね?」
糸田は枕元にあったトンカチを取り出し、笑顔を浮かべる。
当初のボクであれば恐怖で泣き叫んでいただろうが、今はもう違う。
「はい、ボクの指……全部糸田さんに潰して欲しいです。お願いします……」
ボクは男に負けないくらいの笑顔で、自らの手を揃えて男の前に差し出した。