「わー、綺麗……」
その日の夜、ボクはベランダに出る事が出来た。
手には手錠が付けられたままだったけれど、それでもボクの片目に映る夏の花火は美しかった。
ボクは花火の美しさに言葉を失った。誘拐されてから『美しい』ものを目にする機会がなかった為か、その日の花火の美しさは格別だった。
「浩二さんは見ないんですか?」
「……興味ないよ」
ボクは糸田に声をかけるが、糸田は部屋の中でぼーっと煙草を吸っている。
……糸田は完全に油断している。この瞬間、2度とないチャンスだ。
「本当に綺麗……でも、もっと近くで見たいな」
ボクは夜空に吸い込まれるようにベランダの柵に足を掛ける。そして、不安定ながら柵の上になんとか立ってみせる。地面を見ると物凄い高さだったが、なんだか夜空には少しばかり近付けた気がする。
「……何をしてるんだ」
「もっと、もっと近くで花火が見たいんです」
遥か下の地面を見ると恐怖が溢れてくるが、ボクはもう迷わない。今まで受けた痛みに比べたら、ここから落ちる事くらい全く怖くない。
「おい!」
糸田は途端に焦り始める。今まで見た事がないくらいの焦り方だった。
そして、部屋の中から愚鈍に走り出そうとする糸田へボクは叫ぶ。
「動かないで! 少しでも動いたら、ここから飛び降りて自殺します……あなたが丹精込めて仕込んだ『玩具』が木っ端微塵になって壊れるの、嫌ですよね?」
どうして糸田が焦っているのか。それは、ボクという従順な『玩具』を失う事を恐れているから。糸田からすれば数年かけて調教した宝物を目の前で失うような気分なのだろう。
「待ってくれ! 落ち着こう。僕は何をすれば良い?」
「何も。何もしなくて良いです。ただ、ボクが皆の元へ帰るのを邪魔しないでくれれば、それで十分です」
ボクは笑顔で言った。
けれど、本当は怖い。こんな高さから落ちたらもの凄く痛いだろうし、もしかしたら死んでしまうかもしれない。痛みや苦しみには慣れたつもりだったけれど、やっぱり死ぬのは怖い。
「帰る? キミは帰れないよ。これからもずっと僕と一緒に暮らすんだから!」
「あなたの欲求の受け皿になるのも今日が最後です。ボクは、人間のまま皆の元へ帰ります」
人間のままというのは姿形の事ではなく『心』の事だ。これ以上、この男に辱めを受ければボクの人間としての心は完全に破壊される。心を失えば、それはもう人間ではなくただの肉塊だ。
心がまだ生きているうちに、人間として皆の元へ帰りたい。
「帰って来てよ、優姫ちゃん! もう痛い事しないから! 美味しいお菓子も買ってあげるよ! 好きな玩具も沢山買ってあげる! だから……」
糸田は脂汗を流しながら叫び、ボクに懇願する。
その姿は酷く醜い。そんな糸田を哀れみながら、ボクは柵から体を空中に投げ出す。後悔など無い。どんな結果にしろ、これでもう終わりだ。
「さようなら」
ボクはベランダから勢い良く飛び降りた。
夜空へ身体が投げ出され、浮遊感を感じる。
そして、その数秒後には身体中を凄まじい衝撃が襲い、脳内に肉と骨が潰れる音が響き渡る。
視界は真っ赤に染まり、ボクの意識は途絶えた。