シャドーウォークで姿を消し、木々の陰に隠れながらレイは荒い息を整えた。寸前で邪魔が入り、魔法使いを仕留め損ねたことが頭の中をぐるぐると渦巻いている。殺し損ねた無念に加え、目の前の獲物にとどめを刺す寸前で止まらざるを得なかった苛立ちも胸を焦がしていた。
「…ホークアイを解かずに周囲を警戒していれば…くそ、あいつらが割り込んでくるとは」
心の中で怒りを吐き出しつつも、レイは気づいた。先ほどまで湧き上がっていた復讐心が、どこか霧散するように治まりつつあるのを。彼の中に湧き上がる感情は、もはや単なる怒りだけではなく、自分の行為がどこか冷たい闇に染まっていくような、そんな感覚だった。
(エミリーのために…それだけのために戦っているはずだったのに)
彼はふと自問した。今の自分は、ただ怒りに突き動かされ、心の奥にある暗い部分に飲まれつつあるのではないかと。手に残る血の感触が、どこか重く彼を現実へと引き戻す。
その時、再び遠くから声が聞こえた。「おい、さっきの赤ネームが逃げ込んだぞ!捜せ!」先ほどの5人組が森の中を警戒しつつ、レイの姿を探し始めているようだ。冒険者たちが真剣にこちらを探し回っているのを見て、レイは冷静に思考を巡らせた。
「追われる身か…今は戦っている場合じゃない」
深い森の中、レイは静かに息を潜めながらシャドーウォークの効果を活かして影の中をすり抜けていく。今は攻撃するタイミングではないと判断し、冒険者たちに見つからぬよう慎重に距離を取っていった。
やがて彼は、森を抜けて少し開けた場所にたどり着いた。そこには静かな空気が漂い、辺りには彼以外の気配が感じられなかった。レイは影から姿を現し、深呼吸をしながら自身を見つめ直す。
「エミリー…これで本当にお前の無念を晴らせているのか…」
彼は呟きながら、手を見下ろした。魔法使いを痛めつけた時の血が、手のひらに乾いてこびりついている。その感触が、彼の心に複雑な思いを呼び起こした。
エミリーを奪われた瞬間の怒りは確かに正当なものだった。だが、今の自分は、ただ復讐心に支配され、憎しみだけに突き動かされているのではないかという迷いが芽生え始めていることに気づいた。エミリーは、こんな姿を望んでいただろうか?そんな疑問が頭をよぎる。
「俺は…一体何をしているんだ」
レイは拳を握りしめ、冷静さを取り戻そうとする。だが、心の奥には、消えない影のような暗い感情が潜んでいることも感じていた。もし、このまま復讐に取り憑かれていけば、自分もまた道を見失ってしまうのではないか…そんな不安が胸をかすめる。
「…エミリーのために、俺がすべきことは本当にこれなのか?」
その問いかけに、答えはまだ出なかった。ただ、ひとつ確かなのは、復讐心だけに突き動かされる自分ではなく、エミリーを想い、彼女の存在を胸に抱き続ける自分を忘れてはいけないということだった。
レイは再び深呼吸をし、森を見渡した。そして、静かにその場を離れた。
レイは森を抜けた後、ふと3人組が話していた「掲示板」のことを思い出した。「団体やパーティーが情報を共有する場かもしれない」と考え、掲示板を探し始める。そして、ようやくそれを見つけ出し、ウィンドウを開くと、そこにはさまざまな感情の書き込みが広がっていた。
「…ログアウトができないなんて、どうなってるんだ?」
「仲間が目の前で…もう会えないかもしれないのか?」
「もしかして、これは異世界転生?!俺が主役になる時が来たか!」
「団結しよう。誰か助け合える仲間を探している人はいないか?」
不安と恐怖に支配されている人、絶望して悲しみに暮れる人、さらにはこの異常な状況を喜び、酔いしれる者まで。それぞれがこの状況にどう向き合うべきかを模索し、時に互いを励まし、時に不安を打ち明け合っている。レイはその書き込みの中で、自分がいかに独りでこの世界と向き合っていたかを、改めて思い知った。
そんな中、ひとつの書き込みが彼の目に留まった。そこにはレイの後ろ姿、横顔、正面の顔を撮影した写真が並び、「人の皮を被った悪魔に注意!」という見出しと共に警告が書き込まれていた。どうやら他のプレイヤーたちがレイを「冷酷なPK」として問題視しているらしい。
レイの視線は自然と、次々に寄せられる反響のコメントへと移った。「この悪党は危険すぎる。見つけたら距離を置け」「プレイヤーを無惨に痛めつけて笑ってるなんて、信じられない」「一人でも多くの人を守らなくては…」
レイは静かにウィンドウを閉じ、深い溜息をついて木にもたれかかり、その場に座り込んだ。
「…これじゃ、まるで悪党じゃないか…」
そう独り言のように漏らし、項垂れるように頭を垂れた。彼の耳には、風の音、草葉のざわめき、そしてかすかな鳥のさえずりが心地よく響いている。その音に身を委ねながら、自分がやってきたことが、本当にエミリーのためだったのかという疑念がふと胸に湧き上がる。
その時、不意にもたれかかった木から声が聞こえた。
「お疲れ様。ちょっとやりすぎちゃったね、君」
どこか聞き覚えのある声に、レイは驚いて振り返る。木を挟んで反対側に座っているのは、冷ややかな微笑を浮かべたルナ・ノワールだった。彼女は無造作にもたれかかりながら、彼をじっと見つめている。
「どうして…ここに?」レイは思わず尋ねた。
「そんなに驚かなくていいわよ。私はただ、君がちゃんとやり遂げたか気になって見に来ただけ」
ルナはくすっと笑い、彼に向けて軽く手を振った。「それに、名前が長いでしょ?だから、ルナでいいわ」
レイは少し面食らいながらも、ルナという短い呼び方に納得し、静かに頷いた。そして自分がやりすぎてしまった行為を思い返し、複雑な気持ちを口にする。
「俺…怒りに任せてやりすぎたのかもしれない」
「そうね。確かにちょっとやりすぎたかも。でも、エミリーのためにやり遂げたということは、認めてあげるわ」
彼女の冷静な言葉に、レイの中に複雑な感情が湧き上がりつつも、どこか心が救われる思いがした。そして、エミリーに対する未練や、怒りのままに行動したことへの悔いが浮かんでくる。
「エミリーのことを、まだ引きずっているのね。でも、彼女は今きっと幸せよ。君が悲観的に彼女を思い続けることで、彼女を悲しませてしまうかもしれないわ」
レイはルナの言葉に、ハッとした表情を見せた。エミリーが幸せであるならば、自分がいつまでも過去に囚われていることは、彼女を苦しめてしまうだけかもしれない。
「君は、彼女のために何をしてあげるべきなのか、ちゃんと考え直す時が来たんじゃない?」
ルナの問いかけに、レイは自分がこれから何をするべきか、胸の内で思案した。エミリーのためだけに動いていたはずが、いつの間にか自分の憎悪や怒りに囚われていたことを、少しずつ自覚し始めていた。
「ありがとう、ルナ。少しだけ、気持ちが楽になったかもしれない」
「そう?それならよかったわ」ルナは軽く微笑み、そっと立ち上がると、彼の肩に手を置いた。「君にはまだやるべきことがたくさんあるみたいだし、無理せず進んでいけばいいのよ」
その言葉が、今のレイには励ましのように響いた。自分を見つめ直し、そして、エミリーを胸に抱きながら前に進む決意を心に刻む。レイは静かにルナを見上げ、わずかに微笑みを返した。
ルナも一瞬、驚いたように目を細めると、手を差し伸べ言う。
「ほら、行くわよ」
ルナが差し出した手を取り、レイはゆっくりと立ち上がった。彼女の表情には何か新しい挑戦が始まる予感が漂っているようだった。しかし、レイはまだ不安を抱いていた。
「でも、行くって…どこへ行くんだ?」
困惑した様子のレイに対し、ルナは肩をすくめて軽く笑った。
「後で説明するわ。でも、現実に帰れないなら、ここで生きていくしかないでしょ?住処を探してお金も稼がないと」
レイは少し頷いたが、疑問は尽きなかった。「そういうことじゃなくて…ルナ、お前は帰らないのか?」
すると、ルナは一瞬戸惑いの表情を見せ、視線をそらして恥ずかしそうに答えた。
「実はね…こっちの空間に来るのは良かったんだけど、どうも帰れなくなっちゃって…君に能力を渡したせいもあるかもしれないし…」
その答えに、レイは思わず頭を抱えた。彼女の存在は謎に包まれているが、それでも今の状況では共に行動することが最善のように思えた。
「…まあ、仕方ないな。これも何かの縁だ」
レイは気持ちを切り替えると、改めてルナを見つめ、うなずいた。「よし、一緒に行こう」
ルナは小さく微笑み、再び手を差し出した。「じゃあ、行きましょうか。ここからが本当の冒険の始まりよ」
二人は互いの存在を頼りにしながら、見知らぬ世界での新たな生活を歩み出した。ルナの導きと共に、レイの胸にはわずかながらも新しい希望が芽生え始めていた。