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第66話 タイトルマッチ? 何それ?

(あ~、退屈だな……)


ダンクラス新人王決勝で宮地君に敗れてから数日が経った。8月に入り大学が夏休みとなっていたこともあり、俺は絶望的な退屈を感じていた。

例によって師範からはしばらくジムに来ることを禁じられた。身体と心のリフレッシュのために少しの期間格闘技から離れるべき……という意味なのは理解できる。俺も流石に試合後3日ほどはダラダラと過ごせる幸せを嚙みしめていた。身体を休めることの大切さが理解できた。

だが4日目になるともうダメだった。何をしても楽しくないし、無駄な時間を過ごしているだけに思えてきてしまうのだ。

こういう時に格闘技とは関係のない大学の友達でもいれば良いのだろうが、俺にそんな存在はいなかった。はジムでの仕事をしながらバイトもして忙しいみたいだし、大兼君や高松君といった練習仲間、それから平本さんや吉田たちといった我がジムの会員さんたちとも、ジムに行かなければ会うことはできないのだ。

結局俺は人間関係すらも格闘技の中でしか構築できていないわけで……まあこれを読んでいるみんなには、なるべく色々な世界を持って人間関係を大事にした方が良いよ、ということしかできない。




ダン、ダン、ダンダンダン! ダンダンダン、ビシ!


(うっひょ~、楽しい!!!)


結局宮地戦から5日後に俺はジムに戻っていた。

まだ誰も来ていない午前中の時間。サンドバッグを叩くだけでも無性に楽しかった。やはり俺にはこれしかないのだ!


「なんだ、やっぱり保君か……もうちょい休んで良いんだぞ?」


「……お久しぶりです、師範。あの、ちょっともう身体が疼いちゃってですね」


ジムの奥の居住スペースから出てきたやや複雑な表情をした師範に、ははは…と愛想笑いを浮かべながらペコリと頭を下げる。


「まあ、もちろん気持ちはわかるよ。おじさんも若い頃はそうだった。……今日からちょっとずつ復帰していこうか? でもスパーリングはしばらく止めておこう。脳のダメージは自分でもわからないうちに蓄積しているものだからな」

「はい、お願いします!」


そんなわけでその日から徐々に練習に復帰し、同時にインストラクターとしてジムの一般クラスの指導も再開することになった。


それから1ヶ月ほどはゆったりとした日が続いた。

8月の夏休み期間中には吉田に誘われてアルバイトもした。吉田の会社の建築現場で人手が足りないということで、簡単な軽作業だから……と強引に誘われたので付いていったが、あれには中々参った。体力には自信のある方だったが仕事となるとまた別の体力を使うみたいだ。

仕事を終えてからジムに通い練習する会員さんへの敬意は深まるばかりだった。




「お、やってるね、田村君。調子はどう?」


9月も半ばになり、大学の授業も再開したころだった。会員さんも全員帰宅して、そろそろジムも閉館しようかという22時頃だったと思う。


「笹塚さん……どうしたんですか?」


サンドバッグを叩く手を止めて、俺は相手の顔をまじまじと見た。そこにいたのはダンクラスCEOの笹塚さんだった。とした身体は相変わらずで、まだ夏といっていい時期だけに笹塚さんは顔に汗を滲ませていた。


「いやちょっと近くまで来たもんだからさぁ……お、紋次郎君、お疲れ!」


「どうしたんですか、笹塚さん……」


俺が誰かと話しているのを察したのか、紋次郎師範も奥の居住スペースから出てきては、突如訪ねてきた笹塚さんに驚いている様子だった。


「とりあえず上がって……」

「いやいや、もう時間も遅いからここで充分よ! ちょっと確認にきただけだから……田村君、9月は予定通りウチでバンタム級のタイトルマッチってことで良いよね?」


「……タイトルマッチ? 誰がですか?」


笹塚さんの言っている意味が俺には1ミリも理解できなかった。


「アホ、田村君に決まってんだろぉ? しっかりしてくれよな!」


がはは、と笑う笹塚さんを見て俺と師範は顔を見合わせる。


「……もしかして宮地君がダンクラスから抜けてFIZINに行ってしまったから、その代役をウチの田村君にってことですか?」


師範が恐る恐る尋ねると、笹塚さんは俺の方を指差して必要以上に大きく頷いた。


「そうだよ! 宮地君が抜けたんだから準優勝のキミがその穴を埋めるのは当然だろ?」


「……え、そ、そうなんですか? ……でもそんなのって相手の金松選手の陣営とか、ファンの人たちも納得するんですか?」


笹塚さんに言われてみればたしかに一理あるような気はしてくるが、宮地戦後今まで具体的にそういった話は出てきていなかったから、そんなものは俺の頭の片隅にもなかった。


「は? 田村君やんないの? やんないんなら辞退ってことで、準決勝敗退者同士で3位決定戦をやって挑戦者を決めることになるけど」

「やります、やります! やるに決まってるじゃないですか、そんなの!」


笹塚さんが一瞬鋭い目をしたのを見逃さず、俺はあははと笑って応える。


「だわな! じゃあ、また契約については近日中に連絡するから。しっかり練習しといてくれよ。金松は甘くないからな!」


それだけ言い残すと笹塚さんは嵐のように去ってしまった。




「ま、たしかに笹塚さんの言う通りだね。宮地君が抜けたんだから保君がその穴を埋める……チャンピオンの金松選手も当然試合をする想定でいただろうし、大会もその予定で組んで会場も押さえているだろうしね。というかおじさんも試合後に笹塚さんに確認しておくべきだったね……」


笹塚さんが帰ると師範は俺に向かって苦笑した。


「でも……ファンの人は納得するんですかね? 新人王がいきなりタイトルマッチなんてのは宮地君だから成り立つことだったんじゃないですか?」


「まあ笹塚さんも当然そういう想定だったとは思うけれど、規定してしまった以上それを反故ほごにすることはできないだろう」


「……ですね」


ここ最近はずいぶんと気の抜けた日常を過ごしていた俺が、ダンクラスのタイトルマッチに挑むのか? 正気か? 勝機なんて微かでもあるのか?


(……勝てるのか?)


俺は現チャンピオンである金松誠史郎かねまつせいしろう選手のことを改めて思い浮かべた。

金松選手は35歳のベテランであり2年前にようやくチャンピオンとなった遅咲きの選手だ。普段は一流企業でサラリーマンをしており、良きパパ、人格者としても有名な選手だ。ダンクラスのチャンピオンでありながら「格闘技はあくまで趣味だ」と公言しており、体育会系の雰囲気の選手ばかりの中にあっては理知的で少し異色のキャラクターだ。

タイプ的にはオールラウンダーで、相手によって戦い方を変えられるのが強みの選手だ。リーチや打撃のパワーは俺の方が上回っているかもしれないが、例え正面から打ち合ったとしても打撃で簡単に圧倒できるほど甘い相手ではない。というか当然打撃が得意な俺に対しては組んで倒しにくるだろう。


「ま、せっかく降って湧いたチャンスなんだ。しかも時間はまだたっぷりある。最高の状態に仕上げてチャンピオンに挑戦しよう!」

「はい! やったりますよ!」


不安も怖さももちろんある。だが試合後の腑抜けた状態に比べれば、緊張感を持って送る日々の充実感を俺はもう求め始めていた。

実力的にも格的にもまだ早い……目の肥えたダンクラスファンからそんな声が上がるのは目に見えている。だが世間がどう思うかなど関係ない。勝てば官軍だ。勝ちさえすればそんな声は屁でもなくなることは、今までの格闘技の歴史が証明していた。

俺にとっては千載一遇のチャンスでしかないのだ。やるしかない!




そんなわけで気合を入れて臨んだ初めてのタイトルマッチだったが、結果は残念ながら1ラウンド一本負けに終わった。




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