(効いて……いるのか?)
椛島選手の飛び込みに対してカウンターの右ストレートで明確なダメージを与え、フィニッシュのため追撃に行こうとした俺だったが、椛島選手の目を見ると一瞬躊躇してしまった。
その目はまだ闘志に満ちて俺を正面から睨んでいたからだ。
「効いてるぞ、保君。行け!」
俺の一瞬の躊躇を見逃さぬタイミングで師範から再び声が掛かった。
(そうだ、効いていないわけがない! 効いた時こそ効いていないフリをするのがファイターだもんな!)
ダメージを悟られては相手を調子付かせるだけだ。たとえ骨が折れても涼しい顔をして戦い、効いた時ほど効いていないアピールをするのがファイターだ。それもまた試合中の駆け引きだ。
追撃のために距離を詰めに行った俺は、まずフェイントを掛けた。
大きなモーションで右のパンチを打つ振りをすると、椛島選手は両手で顔をブロックした。
この反応こそ効いている証拠と言っていい。先ほどの一撃に近い箇所に再びパンチを浴びてしまえばダウンは必至だからだ。
そして俺のフェイントに対して反撃の反応がないことは、椛島選手がそんな余力もなくひたすら回復の時間を稼ごうとしていることの証拠に他ならない。
(……よし)
確信を抱いた俺は、もう一度右ストレートを顔面に打つフェイント入れてから本命の左のボディフックを放った。
脇腹を抉るボディブローが突き刺さった瞬間、さらに俺は連撃として今度は顔面への左フックを放つ。テンプル(こめかみ)を狙った左フックだったが、これは最初のボディブローでバランスを崩した椛島選手の頭部を掠めてしまった。
「あーっと、椛島選手これはピンチか!? 効いている、効いている! 田村選手ここぞとばかりにラッシュを掛ける!」
(終わってくれ! 頼む!)
俺の頭の中にあったのはそれだけだった。
この絶好の機会を逃して2ラウンドもう一度仕切り直してスタンドから勝負を始める……などということは絶対にやりたくなかった。
「……ち!」
「あっと、ここで椛島選手、組み付いていった~!」
フィニッシュを狙いパンチを連打する俺に対し、椛島選手は強引にクリンチしてきた。
すでに何度も俺のパンチは椛島選手の顔面や頭部にヒットしており、恐らく意識朦朧としていたはずだ。もしかしたら自分がクリンチに行っているということも意識していなかったかもしれない。
ファイターというのはそういうものだ。日々繰り返す練習によって、考えるよりも先に勝手に身体が反射的に動くようになってくるものだ。この時の椛島選手は本能的に動いているにすぎなかった。
「離れろ、保君!」
師範の声を聞くまでもなく俺もそのつもりだった。椛島選手の組み手を切り、その肩をプッシュすると再び距離を作ることができた。
「保君、残り1分! 残り1分だぞ! 行け!」
師範からの声が再び掛かる。1ラウンドが残り1分まで迫ってきたということだ。ここで1ラウンドを凌がれてしまっては、2ラウンドまた振り出しからの勝負再開ということになる。椛島選手もラウンド間の1分のインターバルで完全回復とはならないだろうが、それでもかなり俺のアドバンテージは薄れる。
(……1分もあれば充分だろ! ここで仕留めろ!)
向き合った椛島選手の肩が大きく上下に動き、スタミナを消耗しているのが一目でわかる。組み技は打撃よりも消耗するものだ。必死に組み付いていったのを切られた展開で、椛島選手は心理的にもかなり消耗しているはずだ。
もちろん俺だって疲労は溜まっている。組みを振りほどくのにかなり力を使っていたし、打撃の連打では全身に必要以上に力が入っていたようで腕がパンパンに張っていた。
だがこのチャンスを逃すわけにはいかない。
俺は一度ジャブのフェイントを入れて頭を下げさせてから、椛島選手のアゴを目掛けて必殺の右膝を繰り出した。
手応えは多少あったがアゴには当たらず肩の辺りにヒットしたようで、椛島選手が再び頭を下げて強引に組み付いてくる気配を見せた。
(近い! ……これだ!)
パンチを放つにも近過ぎる距離まで入られてしまい、また組み付かれてこのまま1ラウンドは凌がれてしまうのか……と俺自身がネガティブな想像をした瞬間、身体が勝手に動いた。
左のカチ上げるような肘打ちが出たのだ。
ガチッ!
俺の肘と椛島選手の顔の骨が当たった衝撃がモロに伝わって、腕が痺れた。
そして俺は次の瞬間、組み付かれるのを防ぐためにバックステップをして距離を取っていた。
「あっと接近戦で田村選手のアッパーが入ったか!? 椛島選手顔面から出血しています! ……しかしそれでも構わずパンチを返していった! これは凄まじい闘志だ!」
離れた俺に対し椛島選手はパンチを振ってきたが、それは威力もなく距離も外れた有効とは言えない攻撃だった。
(いや、今ので倒れないのかよ!?)
俺の肘は完璧にヒットした手応えがあった。そして椛島選手は右眉の辺りから血がしたたり落ちてきていた。やや足元もふらついているがそれでもダウンはせず、その表情は未だ闘志に満ちていた。
そんな彼に俺は恐怖を感じ始めていた。
本来ならばさらに追撃に行くべきだということはわかっていたのだが、椛島選手の異様な闘志に呑まれ俺の足は止まってしまっていた。
カーン!
そしてここで1ラウンド終了を告げるゴングが鳴ってしまったのである。
「すいません……仕留められると思ったんですけど……」
ケージサイドに戻った俺が師範に最初に告げたのはそんな言葉だった。
「大丈夫だ。明確なダメージを与えたのは確かだからな。次のラウンドで仕留めれば良い。だが焦って雑な攻撃を仕掛ければ向こうにチャンスを与えることになるぞ? 1ラウンド最初からまた始めるつもりで丁寧にやっていこう!」
師範も過ぎたことをこのタイミングでグチグチ言う人ではない。今は反省すべき時ではなく、次のラウンドでどう戦うかを明確にすべき時なのだ。
「……すごい血ね……」
向こうのケージサイドではドクターが入って処置をしていたが、短いインターバルの応急処置で完全に止血ができるわけもない。
……いや、相手のことはいい。俺は俺のやるべきことに集中するだけだ。
「セコンドアウト、セコンドアウト!」
「保君、気合入れてこう。絶対勝つぞ!」
「はい!」
2ラウンドを取れば勝利が見えてくると言っていい。俺のFIZINデビュー戦が勝利で飾られるまでもう少しだ!
気合を入れ直して立ち上がった俺だったが、なんと2ラウンドが始まることはなかった。
出血の止まらない椛島選手の様子を見たドクターがレフェリーに進言し、レフェリーが両手を広げて試合終了を告げたのだ。
俺の1ラウンドTKO勝利だ。