「…………でさぁ、安平選手がめっちゃ顔近付けてきたっしょ? その時すっげぇいい匂いがしたんだよね! あれ? オレこのまま全くの無抵抗にテイクダウンされて寝技に持ち込まれるのかな? いや、でも、そんなお客さんも一杯見てるし……ダメ、ダメダメ、ってボーっと思いながら顔を突き合わせてたんだよね!」
「……あのさぁ、保君? キミはその安平選手と年末に闘うんだよね? ファイターらしく『一発かましてやろう!』とか『ぶっ飛ばしてやる!』みたいな感情はないの?」
ケルベロス選手に勝ち、その後のマイクパフォーマンスで安平選手との試合が決まったことを俺は興奮しながら
試合後、帰宅するよりも先に我がジム『FIGHTING KITTEN』に荷物を下ろし、すずと話をしていたのだ。
「全然? 別に嫌いでも憎しみがあるわけでもないし、ただただ尊敬する気持ちとボクみたいな無名の選手と試合の機会を設けてくれて感謝しかないね! いやぁ、ビビりながらもSNSでバトってた甲斐があったね!」
「まあ……保君は元々安平選手のファンだったもんねぇ」
およそ2か月半後の安平選手との試合が決まったのに、彼と会ったことを嬉々として話す俺にすずは若干呆れたような声を出した。
そしてすずの言う通り俺は元々安平選手のファンだった。まあ安平選手だけに強く注目していたわけではなく、他にも高倉兄弟だとかメジャーなFIZINファイター皆にMMAを始めたころの俺は憧れていたのだが。
「……で、そんなに浮かれてて勝算は有るの?」
「ふふふ、これがねぇ……あるんだよ! 厳しい戦いにはなると思うけど、勝つビジョンが全く見えなかったらそもそも試合なんか受けないよ。ってか最初に安平選手がSNS上で絡んできた時からいずれ試合をするかもしれないとはずっと思ってたし、もっと言えばファンだった頃から『この選手ともし戦ったらどうする?』っていう視点はずっと持ってたよ」
「そっか、それは頼もしいわね」
すずは俺の言葉に大袈裟に肩をすくめると、立ち上がってジムスペースから自宅スペースの方にスタコラと歩いて行ってしまった。
久しぶりに2人で会ったのだからもっと話したい気もしたが、「夜も遅いし試合後の疲れもあるだろうから早く帰って寝なよ」というすずなりの配慮だったのだろう。
(……もちろん安平選手に対してファンみたいな気持ちはあるけど
その日はベッドに入ってからも興奮が収まらず、目を瞑ってもどんどん熱い気持ちが溢れてきてしまった。
すずに話した通り、俺は元々FIZIN選手の中では高倉兄弟や安平潮のファンだった。
彼らは玄人受けする選手というよりも、普段格闘技など見ない層からファンを連れてきた求心力の強い選手たちだ。実力ももちろんあるが、それ以上に圧倒的影響力を持ち格闘技に興味のない若者たちにまでファン層を拡大してきた言わば広告塔とも言える選手たちといえる。
高倉兄弟はそれぞれの階級でタイトルマッチにも挑戦するほど実力的にもトップレベルの選手だが、安平選手はまだ中堅から少し上くらいの実力と見られている。
それなのに彼が絶大な人気を持っているのは、『FIGHTING LABO』というコンテンツをプロデュースしたこと、華のある見た目、度々仕掛けられるトラッシュトーク……世間的にはそういう風に見られているだろう。
人気や言動に比してまだ実力が追い付いていない、という批判を浴びることも多い。
(……でもそれだけじゃない……)
だがそれでも俺は安平潮という人間のファンだった。
最初はむしろ俺も彼のことが大嫌いだった。
キックボクシングでのトップレベルの実績を引っ提げてFIZINに転向してきた当初は連敗スタートだったこともあり、彼らのアンチと同じく「大口を叩いたくせにダッセ!」という気持ちが強かった。
だが3戦目からようやくMMAに順応してきた試合運びが見られるようになると、彼の試合を注目して観るようになった。するとその打撃の綺麗さに驚かされた。
ジャブ、ストレート、ミドルキック……特別な技ではなく基本的な技の一つ一つを見ても、立ち技で日本トップレベルにいた選手の打撃は本当にムダがなく見惚れるほど綺麗だった。MMAでも打撃の強いストライカーはもちろん何人もいるが、安平潮ほどシャープな打撃を放てる選手は見当たらない。
「俺もストライカーとしてあのレベルに達したい!」
といつしか思うようになっていたのだった。
そして安平潮は派手な私生活を送っているように見せて努力家だ。何より試合での彼のMMAへの適応を見ればそのことは明らかだった。連敗スタート以降は5連勝を上げており、その戦い方もキックボクサーがMMAをしているという戦い方から、完全なるMMA選手へと変貌を遂げていた。
(多分、彼は本当に格闘技が好きで好きで堪らないんだろうな……)
実力的にはまだ日本のトップとまではいかない彼のことを俺が気になり続けたのは、何よりそのことだ。
ただ金と名誉が欲しければわざわざMMAに転向してくる必要は無かったはずだ。キック界でチャンピオンとして君臨し続けることの方が簡単だっただろうし、リスクも圧倒的に少なかったはずだ。実績のある選手が負けることは無名選手が負けるのとは違う。勝利によって作り上げてきた『安平潮』というブランドのイメージを一気に下げることにもなりかねない。
それなのに安平潮が新たなチャレンジとしてMMAに転向してきたのは、彼が間違いなく格闘技が大好きだからだ。「本当に強いって何だろう?」という問いを抱えていたからMMAに転向してきた……俺には安平潮という人間がそう映っていた。
(そんな安平選手と俺は試合ができるんだ!)
いまさらながらそのことを思うと夢のようでもあり、震えが止まらなくなるほどの興奮を覚えるのも無理はない。
駆け出しのMMA選手、しかもさして実績のない俺から見れば遥かに格上の相手だ。俺が勝つと思っているファンはハッキリいって5パーセントにも満たないと思う。
だがそれでも勝負はやってみないとわからないのがMMAだ。そして俺に勝つ可能性があるとすれば、俺は安平潮という人間にかなり注目して見てきたという自信がある点だ。
「お、田村君。久しぶりだね。今日はよろしく!」
それから1週間ほど後のことだ。『柔術仙人』小仏選手の道場への出稽古に向かうと、そこにいたのは俺の(俺が一方的にそう目す)ライバル、宮地大地その人であった。
「え……宮地君も今日は出稽古に来たってこと?」
「うん。柔術の稽古は色々なところでやってきたんだけどさ……やっぱり小仏道場が一番だっていう評判が高くてね、今日は出稽古に来させてもらったんだ」
先週ジョアン・マチダ選手との試合をしたばかりでもっとオフを満喫したいだろうに……と宮地君に対して一瞬思ったが、それを言ったら同日に俺も新谷ケルベロス選手と試合をしていたわけだ。
俺もそうだがファイターは過ぎ去ったことにはほとんど興味がないのかもしれない。俺も宮地君も次の試合が決まっているのだから尚更前しか見えていないのだろう。
しかも宮地君の次戦はタイトルマッチだ。
オリンピック金メダリストが世間からの大注目を集めながらのMMA転向。華々しい成績のままタイトルマッチにまで上り詰めた……宮地君はもうスター選手の仲間入りといって良いだろう。FIZIN運営にとって望んでいた次世代スターが正真正銘のスターになろうとしているのだ。
「ま、FIZINっていう大舞台で活躍してる若い2人がこの道場に来てくれるのは、俺にとっての誇りだよ。……2人とも俺を倒してるから複雑な気持ちもあるけどな」
後ろから声を掛けられて振り向くと、この道場の主である『柔術仙人』
最近の小仏さんは髭も髪も伸び放題となり、仙人という風貌がさらにピッタリくるようになっていた。もしかしたら『柔術仙人』というニックネームを本人も気に入り、それに合わせにいっているのかもしれないが。
「ま、MMAでは2人に負けたけどな、柔術じゃあまだまだ負ける気はしないからな! よしじゃあ練習やっていこう!」
俺と宮地君を含めその場にいた15人ほどの練習生たち(プロを含む)が返事をして、小仏道場での練習が始まった。
柔術は打撃がないのはもちろんだが、MMAが基本的に上裸で行われるのに対し柔術着を着用して行われる。その柔術着を用いた締め技などもあるし、ポジション取りの考え方も違うためMMAとは異なってくる部分も多い。
柔術着を用いないグラップリングの方がMMAには近いだろう。だがそれでも柔術をやることがMMAには生きてくる……ということを俺も実感していた。ノーギのグラップリングだけではどうしても極め技が力任せになりやすい。一つ一つ手順を確認しながら技を丁寧に完成させてゆく、新たな技のバリエーションを増やす、そうした目的のためには柔術の練習をやり込むことが近道だろう。
久しぶりに宮地君とも組み合い、柔術ルールではあったがスパーリングをして、彼の強さを再確認した。相変わらずフィジカルの強さも異次元だったが、練習中は様々なポジションから仕掛けることを試しているようだった。
宮地君からは次戦がタイトルマッチという気負いはあまり感じられず、それよりも新たな技を知りそれを試すことができる状況を純粋に楽しんでいるようだった。
やはり強くなるのは、目標のために必死で頑張っている選手というよりも、その過程すらも楽しんでしまえる人間なのかもしれない。