「田村君、良かったらちょっと打撃を教えてくれないっすかね?」
「あ、え……ボクに?」
何度か小仏道場で柔術の練習を共にしたある日のこと、宮地君がそう話しかけてきて俺は驚いた。
俺は宮地君との距離感を少し測りかねていたのだった。
宮地君とはダンクラス新人王を争った間柄で俺からすればライバルである。今では実績が違い過ぎて俺と宮地君がライバルだなんて思っている人間はゼロだろうが、それでも俺の中では宮地君はライバルだ。同じFIZINに参戦している身、そしてお互いバンタム級という同階級なのだから、いつか再戦する日が来るかもしれない……という思いが少しだけど常にある。
本当はこうして小仏道場で共に練習することすらも若干気まずい気持ちを覚えていたのだが……そんな細かいことを気にしているのは俺の方だけだったということか? それとも宮地君からすれば「田村君とはもうあまりに序列が離れすぎちゃってるから、再戦することもないっしょ笑」ということなのだろうか?
「え、ダメっすか? 今度の相手ヘフナーを攻略するには俺も打撃を磨きたいなと思っててさ……お願い!」
俺の微妙な心情などまるでお構いなしに宮地君は人懐っこい困り顔を浮かべて俺の顔を覗き込んできた。
まったく……どうもオリンピック金メダリストという特殊な環境で育った人間は、細かいことを気にするような神経を持ち合わせていないようだった。
「いや……っていうか普通にコーチがいるでしょ。宮地君なんて
「いや、もちろん大拳ジムにも週1でボクシング習いに行ってるんだけどさ、やっぱ色んな人に技術を教わってみたいっしょ! それに田村君のパンチから蹴りへのコンビネーションとか膝蹴りなんかは特に勉強になるなって ……あ、あれ、田村君もしかして手の内を晒すのが嫌ってこと?」
そこで初めて宮地君は悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、いや……そんなつもりはないけど……」
自分でも意識していなかったが実はそうなのかもしれない。俺は自分の顔が赤くなってゆくのがわかり、そんな俺の変化を見て宮地君は少し笑った。
「まあまあ先のことは置いといてさ、とりあえず次のヘフナーには絶対勝ちたいんだよ! 勝率を上げるためにはどんな手段でも使いたい、っていうのが正直なところだよ。……まああれだよ、前回は一応俺の勝ちだったけど判定だったし……っていうか、田村君とはダンクラス新人王なんかじゃなくて、もっとデカい舞台で試合をしていずれハッキリ決着を付けなきゃなって思ってるよ」
「……宮地君……」
宮地君の言葉に不覚ながら俺は少しだけ感動してしまった。周囲からは俺と宮地君との関係性なんて無いも同然だと思われているだろうが、当の宮地君だけは俺のことをまだライバルだと思ってくれているということだ。
俺の一方的な片思いではなかった、と報われたような気持ちだった。
そんなわけで、小仏道場で柔術の練習を終えた22時ごろからは、我が『FIGHTING KITTEN』に移動し宮地君、俺、高松君、大兼君という4人で週一回技術練習を行うことが恒例になった。
同じバンタム級の日本トップ選手となった宮地君と練習することには、大兼君、高松君も最初戸惑っていたが(大兼君などはレスリング時代から意識していた相手だから特にだ)、皆すぐに4人だけの秘密特訓のような雰囲気を楽しむようになっていった。
俺と宮地君の試合までのほんの短期間の友好的協力。この期間が終われば誰もがまたライバルとして戦う可能性がある……プロ選手である以上それが宿命だ。
「いやぁ宮地君、ヘフナーだかヘラブナだか知らんけどさ、今度の相手は絶対ぶっ飛ばしてくれよ? ワシらも期待しとるで!」
練習後、高松君が宮地君に話しかけていた。
最初は「自分なんか一番実績がないし、宮地君みたいなチャンピオンクラスの選手と練習する資格なんかあらへんって!」と尻込みしていた高松君だったが、初回の練習後にはもう宮地君に対してもタメ口で話していた。高松君の人の懐に入り込む能力は稀有な才能だと思う。
「そうだなぁ、レスラーこそが最強だって意味ではヘフナーにも頑張って欲しいけど、相手が宮地君なら話は変わってくるし。そもそもその前はジョアン・マチダ選手がベルト持ってたわけだしね。やっぱFIZINは日本の団体なんだから日本人がチャンピオンでいて欲しいよね!」
同調したのは大兼君だった。
大兼君の言う通りここ数年FIZINでも海外選手の参入が多くなり、多くの階級で日本人選手が後塵を拝しているのが悔しい現状だ。俺たちのバンタム級でもここ2年ほど日本人のチャンピオンが現れていない。
ギルバート・ヘフナー選手は典型的なアメリカンレスラーだ。カレッジレスリングというアメリカのレスリングでチャンピオンとなりMMAに転向してきたという意味では、宮地君と似たキャリアだとも言える。現在26歳。北米のローカルMMA団体でチャンピオンとなったが最高峰の団体WFCとの契約には至らず、昨年からFIZINに参戦しあっという間にトップ戦線に駆け上がってきた選手だ。
「宮地君の場合は、あくまでテイクダウンに行くための布石として打撃を混ぜる……のが基本だと思う。でも当然相手はタックルを最も警戒するから、タックルのフェイントを掛けてといて下からアッパーっていうのも有効だよね」
「うん、それは結構得意だし、試合でも時々出してるよ」
翌週、再び技術的な話になった。俺の言葉に宮地君が軽くうなずく。
「うん。で、下からの攻撃のバリエーションとしてアッパーだけじゃなくて、膝蹴りもあるし、こういう肘での攻撃もあるんだよ。これを練習してみよっか?」
「おお、それはヤバいな! ぜひ教えてよ!」
俺の提案によって宮地君は膝蹴りと肘打ちのバリエーションを幾つか練習した。その他にもローキックや前蹴りなど相手の意識を散らす攻撃を幾つか伝授した。
宮地君は蹴りに関しては正直言ってあまり上手くなかった。
パンチはもちろんずっと練習してきている分キレもパワーも申し分ないのだが、蹴りというのは複雑な動作だし、宮地君のバックボーンであるレスリングとは構え・スタンスなどの面で相性が良くないというのもある。
でも宮地君のやや不器用な姿が意外だったのは、宮地君がどんな動きも一目見ただけですぐに再現できる天才的運動神経のタイプでは無さそうだったということだ。それでもオリンピック金メダリストとなり、MMA転向後も僅か1年ちょいでタイトルマッチまでこぎ着けたのだから、圧倒的な才能という他はないのだが。
(……俺には打撃の才能がたまたまあったのかもな……)
対する俺はMMAを始めてからずっと打撃主体で戦ってきた。もちろん寝技を極めて勝った試合もあるが、基本的に打撃で攻めてゆくことを基本戦略としてきた。
体型的にリーチが長いからそれを生かすために打撃を磨いてきたというのもあるし、子供の頃にサッカーをやっていたのが蹴る感覚を掴むのに働いたような気がする。
やることの幅がとても広いがゆえに戦い方にその人の個性がとても強く表れる……それもMMAの魅力の一つなのかもしれない。
打撃を宮地君に教えた代わりに、宮地君からはレスリングを教えてもらうことになった。
MMAの勝負では宮地君とも一応は判定まで持ち込んだわけだが、純粋なレスリングだけの勝負となると誇張抜きで大人と子供くらいの差があった。まったく歯が立たなくて笑えてくるほどだ。
「しつこく! しつこく! 一回テイクダウンにいくと決めたらこの一発死ぬ気で取るんだよ! ここで取れなきゃ負けだよ!」
(……その通りだ! このキツさから逃げたら後で余計にキツくなるんだ!)
今までもキツい練習を沢山してきたわけだが、レスリングはやはり根性勝負の面があるという当たり前のことに至った。
組み合い・レスリングの勝負はどうしても体力を消耗する。だからこそテイクダウンにいったならば絶対に一発で相手を寝かし切らなければならない……そんな覚悟が必要なのだということを改めて突き付けられたように思う。
何より俺の次戦の相手は安平潮という選手だ。打撃では絶対に俺よりもレベルが上、MMAでのキャリアも向こうの方が上……という圧倒的不利な相手だ。チャンスは決して多くはないだろう。
一発の勝負にこだわってやっていくしか勝つ術はないということだ。