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第86話 辿り着いた壁

(……いよいよか……)


大晦日を迎えていた。MMAを始めてから5年目を迎えたということになる。俺ももう二十歳の大学2年生となっていた。

戦うステージが上がれば当然数々の才能ある選手たちを目にするわけで、そうした選手と比べて自分に特別才能があったとは到底思えないが、それでもFIZINという日本の最高峰の舞台に辿り着けたのは本当に幸運なことだろう。

もちろん俺を導いてくれた森田紋次郎師範の指導、のスカウティング能力、それからから授かった「相手の能力をコピーする能力」……どれか一つが欠けても田村保という選手がここまで上がってくることはなかったのは間違いない。


(……色々あったけど、あとはケージに入って戦うだけだ!)


試合はまさにこれからなのだが、俺はすでに解放感を覚えてしまっていた。

対戦相手が安平潮やすひらうしおという人気選手だけに、今回の試合には俺が今まで経験したことのない注目が集まっていたからだ。

SNSで訳の分からない誹謗中傷が送られてきたことは何十回もあったし、街中で妙に視線を感じたり無言でスマホを向けられたこともあった。もっと直接的な面でいえば単純に取材の数が今までとは段違いだった。格闘技を報じる専門のマスコミだけでなく、俺には一切縁のなかったファッションやカルチャー系のメディアからの取材もいくつか受けた。

そうした取材を受けてもほとんど金銭的報酬が発生するわけではない。ただ安平戦に向けたそうしたプロモーションに応えるのもプロ選手としての仕事だし、今回の試合のファイトマネーにそれも含まれていると考えるべきだろう。

肝心の試合はこれからなのに解放感を覚えてしまっているのは、事前のプロモーション活動にそれだけストレスを感じていたということだ。




「安平選手のウォームアップを見たわよ。かなり調子良さそうだったわね」


試合前の控室、ふらっとどこかに行っていたすずが戻ってきた。


「わざわざ見てきたの? ってか普通は気を遣って『固くなってたわよ!』とか『保君の方が絶対強いわよ!』とか言ってくれるもんじゃないの?」


俺はすずがわざわざ向こうの陣営に潜入して様子を内偵してきたのかと思ったが、話を聞くとちょっとした空きスペースで安平選手が軽くウォームアップしているのに偶然鉢合わせただけだったようだ。しかも安平陣営はすずのことも俺のセコンドだと認識した上で「今日はよろしくお願いします』と挨拶してきてくれたとのことだった。余裕綽々よゆうしゃくしゃくの態度が手に取るように伝わってくる。


「……ま、それだけ舐めてるってことはむしろこっちに勝機があるってことだよな……」


俺は無理矢理自分をポジティブに納得させた。


「今まで想定していたステータスとほとんど増減はないけれど、調子は本当に良さそうだったから決して甘く見ないことね」

「わかってるって。甘く見るような相手じゃないっての」


俺はすずが出してくれた安平選手のステータスを思い出した。


◎安平潮

スピード83 パワー70 スタミナ76 打撃93(OF91、DF95) 寝技53(OF48、DF58) レスリング68(OF62、DF74)


対する俺のステータスは以下の通りだ。


◎田村保

スピード73 パワー74 スタミナ71 打撃78(OF83、DF73) 寝技68(OF68、DF68) レスリング68(OF65、DF71)


(……データだけ見ても確かに今回は厳しい。でもそれだけじゃなく向こうはMMAの経験も俺よりあるし、大舞台の経験で言えば俺とは比べ物にならないよな)


安平選手は10代の頃からキック界でタイトルマッチやそれに準ずる試合を何度も行ってきた。1万人以上の観客が入る大舞台での試合経験も一度や二度ではなかったはずだ。舞台度胸、落ち着きといった面でも俺の方が明らかに負けているだろうということだ。


(……ま、そんなのいつもそうだよ! だからこそやる意味があるんだろ!)


でも逆に考えれば俺の方は負けて元々、勝って当然と思われている向こうの方が実はプレッシャーはキツいのではないか?

もちろん精神的プレッシャーを正確に比較することなど不可能だ。俺は自分を奮い立たせるために自分の方が有利だと言い聞かせただけのことだ。




「バッティング、サミング、ローブローに気を付けて! 四点膝、サッカーボールキックも有効だ。クリーンファイトで!」


レフェリーの声に俺も安平選手もしっかりとうなずく。

グローブタッチで挨拶をしてそれぞれのコーナーに分かれると、会場からは今まで体験したことがないような大きな声援が飛んできた。


(……安平選手、怖かったな)


普段の安平潮はK‐POPスターのような派手な容貌に派手な振る舞いとビッグマウスで注目を集めるカリスマ的存在である一方、SNS等ではリラックスした普通の若者らしい顔も見せることで若者のフォロワーを中心に絶大な人気を集めてきた時代の寵児だ。

だが先ほどの彼は、そんな虚飾をすべて取り払った純粋に戦う男の目をしていた。あの顔をした安平潮と俺は今から戦うのだ……と思うと身震いするような怖さと感動を俺は覚えた。


カーン!

いよいよ試合開始だ。


(……遠いな……)


安平選手が取った間合いは事前の俺の想定よりもかなり遠かった。当然俺も立ち上がりは慎重に試合を運んでゆくつもりだったが、向こうもそれは同じ考えだったようだ。

遠い間合いから軽く頭を振り、一瞬飛び込むかのようなフェイントを掛ける。

明らかに当てるつもりのない緩慢なジャブからいきなりリズムを速くして、右のパンチを振る……。

俺も安平選手も探り合いの時間がしばらく続いた。


パシ。

俺が視線を相手の顔に向けたままパンチのフェイントを掛け、視線から最も遠いカーフキックを放ったが、安平選手も視線を動かすことなくそれをカットした。

ビシ。

そして安平選手もすぐにローキックを返してきた。俺もそれをカットする。


ローキックやジャブなどで一瞬攻撃は交錯するが、間合いが詰まった時にさらに攻撃をまとめるほどは俺も安平選手も近い間合いで長居はしなかった。それをするにはまだリスクが高い、時期尚早ということだ。


「いいよ、保君! 2分経過! まだ我慢、まだ我慢だ!」


セコンドの師範からもそんな声が飛んできた。

序盤はしっかりと探る、3ラウンドフルで戦うつもりで試合を作ってゆく……というのが師範と立てた今回のゲームプランだったのだ。


(……いや、でも意外とやれてるってことだよな……)


試合開始から2分が過ぎ、開始直後よりは交錯も濃いものになってきたが、まだお互い明確なダメージとなるような攻撃は当てていない。そしてまだ組みの展開になるような兆しもなく、スタンドの勝負に終始していた。

そんな中で俺は、あの安平潮に今のところなんとかやれている……と酔いしれそうになる気持ちを必死に抑えて冷静さを保っていた。




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